はじめに【「恋わずらい」について】
「恋煩い」という言葉があります。恋するあまりに悩んだり、気がふさぎこんだり、つまり「恋の病」を意味する言葉ですが、恋するという状態を表すのに、まさにピッタリの言葉と言えるのではないでしょうか。
実際に恋をしたとき、何も手につかなくなったり、ときには放心したり、あるいは食事が喉を通らなくなったりします。第三者の目から見たらその様子は、まるで病人のように見えるでしょう。
ともかくとして、今回は、そんな病にかかった女性を主人公とした山川方夫の短編小説『菊』をご紹介します。
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山川方夫(やまかわまさお)とは?
山川方夫(本名・山川嘉巳)は日本の小説家です。(1930~1965)
山川方夫は、昭和5(1930)年2月25日、東京市下谷区上野桜木町(現在の東京都台東区上野桜木町)に、日本画家・山川秀峰の長男として生まれます。
昭和27(1952)年、慶應義塾大学文学部仏文科を卒業し、同大学の大学院に進みます。この頃『三田文学』に参加します。その後大学院は中退しますが『三田文学』の活動を通して、新人発掘に力を注ぎ、江藤淳、曽野綾子らを世に出す傍ら、自らも同誌に『日々の死』を連載します。
※『三田文学』 永井荷風を中心に森鴎外、上田敏を顧問として創刊された慶応義塾大学文学部の機関誌(文芸雑誌)。
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昭和33(1958)年、『演技の果て』で第39回芥川賞候補となり、翌昭和34(1959)年にも『その一年』『海の告発』が第40回芥川賞候補となります。その後も芥川賞や直木賞の候補となりますが、ついに受賞が叶うことはありませんでした。
『夏の葬列』などを収録した掌編集『親しい友人たち』や『長くて短い一年』を刊行し、その一編は翻訳され海外にも紹介されますが、昭和40(1965)年2月19日、交通事故で死去してしまいます。(没年齢・34歳)
他に代表作として『お守り』『海岸公園』『クリスマスの贈物』『愛のごとく』等があります。
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短編小説『菊』について
短編小説『菊』は、昭和37(1962)年11月、ヒッチコック・マガジンに掲載されます。
『菊』あらすじ(ネタバレ注意!)
昔、御所につとめ、中宮の身のまわりの世話をする一人の女性がいました。中宮と主上の仲は円満で、毎日は平和に過ぎていきます。中宮にまめまめしく仕えているうち、女性の年齢は二十を大幅にこえていました。
※中宮(ちゅうぐう) 日本の天皇の妻たちの呼称の一つ。
※主上(しゅじょう) 天皇のこと。
ある春の日、御所で花見の宴が催されました。この日女性は、警護の若い武士の一団に酒肴をすすめていました。みやびな公卿たちに慣れた宮中の女どもにとって彼らは、粗暴な男たちに見えます。その中で女性は、先に立って酌をしてまわっていました。
※酒肴(しゅこう) 酒と、酒のさかな。
女性が、まだ若い武士の杯に酒を注いだときのことでした。その杯に、一ひらの桜の花びらが落ちて浮きます。武士は、「うつくしい。」と言い、続けて、「まるで、あなたの頬が杯に浮いたようだ。」と言ったのでした。
その瞬間、女性の身体は熱く火照り、わななくように震えます。こうして女性は、始めての恋に落ちたのでした。それから眠れない夜が続きます。武士は多分、二十にもならない、官位もない、ただの従者の一人に違いありませんでした。
※従者(じゅうしゃ) つき従う者。供の者。
けれども女性にとって武士の姿は、日増しに鮮明になっていきました。女性は、放心した表情を見せることが多くなっていきます。そんな女性に気づいた中宮は、「気うつなら少し引きこもって養生せよ。」と言い、女性は与えられた一室に引きこもったのでした。
※放心(ほうしん) 精神状態が確かでなく、または他の事に気を取られて、魂が抜けたようにぼんやりしていること。
当時の風習として、中宮のお側に仕えた者が、無位無官の武士に嫁ぐことなど許されていません。中宮の心づかいで部屋に引きこもったものの、女性の武士に対する妄想は膨らんでいくばかりでした。
※無位無官(むいむかん) 特別な地位も肩書きもないこと。
そして女性はあることを思いつきます。それは木彫職人に頼んで、等身大のあの若者の姿に似せた木の彫刻を作ることでした。女性は彫像に着せる狩衣や袴、烏帽子や太刀などを揃え、若者に似せることに没頭します。
※狩衣(かりぎぬ) 平安時代以降の公家の普段着。
やっとその人形が完成したのは、ちょうど中秋の名月の夜でした。人形の顔は、あの若い武士と寸分も違わず、そっくりそのままの出来でした。女性はうっとりとその人形を眺めます。「そなたが恋しい……。」
恋心に息苦しさを感じた女性は、久しぶりに半蔀の板戸を開けます。すると明るい満月の光が部屋に入り込んで、人形に蒼白い光を浴びせかけます。月光に照らし出された人形は、確かに本物の若い武士の姿でした。
※半蔀(はじとみ) 上下二枚に分け、下半部は格子などに固定し、上半部は蔀(格子を取り付けた板戸)にして外側へつり上げるようにしたもの。
思わず女性はにじり寄って、喘ぎながら人形を抱きしめます。そしてまじまじとその人形の顔を眺めました。そのとき、ふいに女性の背中に悪寒が走ります。女性は叫び、夢中で人形を突き放しました。人形は音を立てて床に倒れます。
女性はもう一度、その表情のない顔をまじまじと見つめました。恋人と人形の違いは心があるかないかだけでしたが、それは生きているものと死者との違いでした。女性は、人形を通して、自分自身の執念のうす汚さ、妄執の哀しさを見ていたのでした。
※妄執(もうしゅう) 悟りきれず、心の迷いによってあくまで離さないでいる執念。妄念。
と同時に、まるで夢から覚めたように、若者への恋心が、急に消え果ててしまいます。人形をそばに置いておくのも嫌になった女性は、ノミを人形の頭に突き立てて、二つに叩き割ってしまったのでした。
女性が恋を忘れ、健康も回復してきた頃、御所に恒例の菊見の季節がきました。例年と同じように女性は立ち働いて、警護の武士の一団の酒肴の世話をします。ふと女性は、例の武士の姿を目に留めます。
けれども不思議と、女性には何の動揺もありませんでした。女性は若い武士に近寄り、酒を注いであげます。今度は花びらも散らず、武士も何も言いませんでした。菊の花の群れを眺めながら女性は、今年ほど春からの季節の推移というものを重く感じたことはなかったような気がしたのでした。
青空文庫 『菊』 山川方夫
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『菊』【解説と個人的な解釈】
物語の時代設定は平安時代で、主人公の女性は御所で中宮付きの女房として働いています。ちなみに当時の「女房」という呼び方は、身分の高い女官や貴族の侍女(貴人などのそばに仕える女性)を指して呼んでいました。
そんな女性がある日、身分の違う若い武士に恋をします。「身分違い」――それは当時の風習として決して「結ばれることのない恋」と言えたでしょう。だからと言って武士への恋心を断ち切ることのできない女性は、武士の身代わりとして木彫りの人形を作ります。
そして人形に恋心をぶつけてみるものの、やはり血の通った人間とは違い、死人同然、ただの人形だと思い知り、自分自身の「執念のうす汚さ、妄執の哀しさを」を知ることになり、同時に、武士への恋心も一瞬で覚めてしまいます。
つまりこの物語は、恋という病にかかったときの、人間の複雑な心理状態と、この病にたまに見られる「熱しやすく冷めやすい」という摩訶不思議な症状を描いたものと個人的に解釈しています。
あとがき【『菊』の感想を交えて】
過去の恋愛、そして失恋をふり返って、「なぜあの時、あんなにまで夢中になれたのだろう?」なんて、首をかしげる瞬間があります。けれどもそれは今だから思えることで、当時の自分はまさに「病人」のようだったと記憶しています。
ときには、「死にたくなるほどに絶望」したことも……。
けれども「恋わずらい」という病気は不治の病ではありません。時間が経てば必ず完治するときが訪れます。
『菊』を読むと、そのことが再認識できます。とにもかくにも、一度恋に破れたとしても、また新たな出会いが待っているのです。なんて、自分に言い聞かせて人生を乗り越えて来た次第です。
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