はじめに【『無声慟哭(むせいどうこく)』について】
以前に宮沢賢治の詩『永訣の朝』について書きましたが、『永訣の朝』は “ 無声慟哭 ” という5篇からなる詩のうちの1篇です。
(『永訣の朝』『松の針』『無声働実』『風林』『白い鳥』)
詩集『春と修羅』の目次を見ると、『永訣の朝』以下3篇の日付は(1922年11月27日)、『風林』は(1923年6月3日)、『白い鳥』は(1923年6月4日)となっています。
ご承知のとおり1922年11月27日は、賢治の妹トシ子が亡くなった日です。この日を境に毎日のように続けられていた詩作は、翌年の『風林』まで中断されます。それだけ妹トシ子の死は賢治にとって大きな衝撃でした。
ここでは『永訣の朝』と同じ11月27日の日付となっている他2篇(『松の針』『無声働実』)の詩作について書いていこうと思います。
宮沢賢治『松の針』『無声働突』全文と解説【妹・トシの最期!】
宮沢賢治(みやざわけんじ)とは?
宮沢賢治(作家・詩人1896~1933)は、明治29年に岩手県の花巻市に富商の長男として生まれます。盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)を卒業後は研究生として残り、稗貫郡(現・花巻市)の土性調査にあたりました。
大正10(1921)年からの5年間は、花巻農学校の教師を務めながら『注文の多い料理店』などの童話作品を刊行していきます。けれども全く売れず、父親から300円を借りて200部買い取ったという逸話が残されています。
大正15(1926)年、花巻農学校を依願退職し、百姓の道を志しますが、賢治の農業は「金持ちの道楽」と、陰口を叩かれたりするなど、その道は険しいものでした。同時期、『羅須地人協会』を設立し、農業の技術指導や、レコードコンサートの開催など、農民の生活向上を目指して邁進します。
しかし、そんな賢治の理想も結局は叶わぬまま、肺結核が悪化し、病臥生活を送るようになります。最後の5年は病床で、作品の創作や改稿を行っていましたが、昭和8(1933)年9月に、急性肺炎により37歳の若さで亡くなりました。
生前刊行された作品は、詩集『春と修羅』と童話集『注文の多い料理店』(1924)のみです。『銀河鉄道の夜』や『風の又三郎』など、宮沢賢治の代表作といわれる作品は、死後に刊行され、その多くは現代のわたしたちにも影響を与えてくれています。
また、作品中に多く登場する架空の理想郷に、郷里の岩手県をモチーフとして「イーハトーブ」と名付けたことでも知られています。
宮沢賢治の人生を詳しく知りたい方は 宮沢賢治『略年譜』【心象中の理想郷を追い求めたその生涯!】、また、宮沢賢治に関係する人々のことを知りたい方は、宮沢賢治『雨ニモマケズ』現代語訳【賢治に影響を与えた人々!】を、ご覧になって下さい。
羅須地人協会(らすちじんきょうかい)とは?
大正15年(1926)に、宮沢賢治が現在の岩手県花巻市に設立した私塾のことです。
若い農民たちに、植物や土壌といった農業と関連する科学的知識を教え、そのほか、自らが唱える「農民芸術」の講義も行いました。
しかしその活動も、保守的な農民の理解は得られず、翌年には休止してしまいます。この私塾がこの名称で活動したのは1926年8月から翌年3月までの約7ヶ月でしたが、その後も賢治は農業指導の活動を続けます。特に農家に出向いての施肥指導はよく知られています。
イーハトーブとは?
イーハトーブとは宮沢賢治による造語で、賢治の心象世界中にある理想郷を指す言葉です。この造語は賢治の作品中に繰り返し登場します。
賢治が生前に出版した唯一の童話集である『イーハトヴ童話 注文の多い料理店』の宣伝用広告ちらしの文章は、「イーハトヴ」について以下のような説明がなされています。
イーハトヴとは一つの地名である。強て、その地点を求むるならば、大小クラウスたちの耕していた、野原や、少女アリスが辿った鏡の国と同じ世界の中、テパーンタール砂漠の遥かな北東、イヴン王国の遠い東と考えられる。実にこれは、著者の心象中に、この様な状景をもって実在したドリームランドとしての日本岩手県である。
賢治の妹、宮沢トシ(とし子)について
宮沢トシは、明治31(1898)年、賢治のふたつ違いの妹として生まれます。子供の頃から成績優秀で、花巻川口尋常高等小学校のとき模範生とて表彰されます。またその後に進学した花巻高等女学校では、1年生から卒業まで主席でした。
大正4 (1915)年、トシは東京の日本女子大学校家政学部予科に入学します。同じ春、賢治は盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)に入学しています。病魔がトシを襲ったのは、大正7(1918)年の暮れのことでした。
旧盛岡高等農林学校本館(岩手大学農学部)
日本女子大学校家政学部3年に在学中だったトシは、永楽病院(東京帝国大学医科大学附属医院分院)に入院します。その知らせを聞いた賢治は母と一緒に花巻から上京し、下宿をしながら翌年3月まで、献身的に看病にあたります。
その後、花巻に戻ったトシは療養生活に入ります。一時期は小康を得て、母校、花巻高等女学校の教諭心得になります。しかし、大正10(1921)年9月、喀血の症状が見られ、その年に退職し、翌年の大正11(1922)年11月27日、結核のため25歳で、短い生涯を終えます。
3歳のトシ(左)と5歳の賢治(右)
詩集『春と修羅』について
宮沢賢治が生前に唯一刊行された詩集として知られています。詩型序文一、詩八章六九編を収録し、その詩には方言や農民の日常会話を取り入れられていて、また、豊富な語彙で、独特の宇宙観、宗教観にもとづく詩的世界が展開されています。
没後には『春と修羅』第二、第三、第四が編まれ、それら全体をこの名で呼ぶこともあります。自ら「心象スケッチ」と呼んだ彼の詩は、今の時代の人々にも愛され続けています。
青空文庫 『春と修羅』 宮沢賢治
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宮沢賢治『松の針』『無声慟哭』
『永訣の朝』の解説については 宮沢賢治『永訣の朝』全文と解説【妹・トシからの贈り物!!】 をご覧になって下さい。その他妹・トシに関する詩『青森挽歌』も参考にして下さい。
『松の針』
―原文通り―
さつきのみぞれをとつてきた
あのきれいな松のえだだよ
おお おまへはまるでとびつくやうに
そのみどりの葉にあつい頬をあてる
そんな植物性の青い針のなかに
はげしく頬を刺させることは
むさぼるやうにさへすることは
どんなにわたくしたちをおどろかすことか
そんなにまでもおまへは林へ行きたかつたのだ
おまへがあんなにねつに燃され
あせやいたみでもだえてゐるとき
わたくしは日のてるとこでたのしくはたらいたり
ほかのひとのことをかんがへながら森をあるいてゐた
⦅*① ああいい さつぱりした
まるで林のながさ来たよだ⦆
鳥のやうに栗鼠のやうに
おまへは林をしたつてゐた
どんなにわたくしがうらやましかつたらう
ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ
ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか
わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ
泣いてわたくしにさう言つてくれ
おまへの頬の けれども
なんといふけふのうつくしさよ
わたくしは緑のかやのうへにも
この新鮮な松のえだをおかう
いまに雫もおちるだらうし
そら
さはやかな
terpentineの匂もするだらう
⦅一九二二、一一、二七⦆
*① ああいい さつぱりした まるではやしのなかにきたようだ
『松の針』解説
宮沢賢治は『永訣の朝』で、妹トシ子のために “ あめゆじ(雨雪[みぞれ混じりの雪])” を取って来ます。さらに『松の針』では “ 松の枝 ” も取ってきています。
それは、林が好きでも決して行けるような身体ではない、妹トシ子に(林を感じさせてあげたい)と思う賢治の優しさでした。けれどもその一方で、トシ子以外の人間を考えながら森を歩いていた自分を悔いています。
そして「本当に一人で行こうとするのか」と、『永訣の朝』と同様に、心の肉声を発します。そのとき賢治はふと、トシ子の美しさに気付きます。賢治はそんな美しい妹に(もっともっと林を感じさせてあげたい)と思うのです。
ちなみにturpentineとはテレビン油のことで、マツ科の樹木から得られた松脂を水蒸気蒸留することによって得られる精油のことです。
『無声慟哭』
―原文通り―
こんなにみんなにみまもられながら
おまへはまだここでくるしまなければならないか
ああ巨きな信のちからからことさらにはなれ
また純粋やちひさな徳性のかずをうしなひ
わたくしが青ぐらい修羅をあるいてゐるとき
おまへはじぶんにさだめられたみちを
ひとりさびしく往かうとするか
信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくしが
あかるくつめたい精進のみちからかなしくつかれてゐて
毒草や蛍光菌のくらい野原をただよふとき
おまへはひとりどこへ行かうとするのだ
(*① おら おかないふうしてらべ)
何といふあきらめたやうな悲痛なわらひやうをしながら
またわたくしのどんなちひさな表情も
けつして見遁さないやうにしながら
おまへはけなげに母に訊くのだ
(うんにや ずゐぶん立派だぢやい
けふはほんとに立派だぢやい)
ほんたうにさうだ
髪だつていつそうくろいし
まるでこどもの苹果の頬だ
どうかきれいな頬をして
あたらしく天にうまれてくれ
⦅*② それでもからだくさえがべ?⦆
⦅うんにや いつかう⦆
ほんたうにそんなことはない
かへつてここはなつののはらの
ちひさな白い花の匂でいつぱいだから
ただわたくしはそれをいま言へないのだ
(わたくしは修羅をあるいてゐるのだから)
わたくしのかなしさうな眼をしてゐるのは
わたくしのふたつのこころをみつめてゐるためだ
ああそんなに
かなしく眼をそらしてはいけない
⦅一九二二、一一、二七⦆
*① あたしこわいふうをしてるでしょう
*② それでもわるいにおいでしょう
『無声慟哭』解説
病床で苦しむ妹トシ子を見つめながら、賢治は(自分は純粋な心や徳性を失い)修羅の道を歩いていると思います。修羅道とは争いの世界を意味します。つまり現実世界は争いにまみれていると言いたかったのでしょう。ここに賢治の複雑な心境が垣間見えます。
そんな心境を汲み取ったのか、トシ子は(おら おかないふうしてらべ)と、苦しさの中でも必死に笑顔をつくり母に聞きます。そして賢治は『松の針』と同様に、そんな妹を美しく思います。このときの美しさとは容姿だけじゃなく心の部分もです。
賢治は、自分の “ ふたつのこころ ” 見つめます。
あくまで個人的な解釈ですが、二つの心とは「天上界に行って苦しみから逃れて欲しい」と願う心と「苦しみが続いたとしてもこの世界に留まって欲しい」と願う、相対する二つの心のように思います。
さて、文中で、トシ子の頬を「まるで苹果の頬だ」と表現する箇所がありますが、苹果とは林檎のことです。とりわけ、りんごほっぺとでも言いましょうか。
あとがき【『松の針』『無声慟哭』の感想を交えて】
冒頭で『無声慟哭』は5篇の詩からなると言いましたが、トシ子の亡くなった日付の三部作は賢治にとって特別な詩作と言えるでしょう。
なぜなら『永訣の朝』以下3篇の日付には二重括弧、『風林』以下2篇の日付には一重括弧が付けられていて、賢治自身が、明らかに違いがあることを示そうとしているからです。
交響曲に例えるなら、この三部作は三楽章といえます。ソナタやメヌエットが交じり合い、まるでトシ子のフィナーレに花を手向けているかのようです。
通して読むことで、トシ子の兄に対する優しさ、そして賢治の悲しみがより伝わってきます。
さて、『無声慟哭』という題名ですが、トシ子の付き添い看護師だった、細川キヨの回顧談によると、賢治は「押し入れをあけて、布団をかぶってしまって、おいおいと泣きました。」と、あります。つまりは、決して無声ではなかったのです。
では、何故賢治は “ 無声 ” としたのでしょうか。
ここからは、わたしの個人的な解釈ですが、「この悲しみは誰にも分からない」といった、いわば賢治の悲鳴のような気がします。
誰しもが必ず、人生のあいだで大切な人を失うといった辛い体験をします。それぞれがそれぞれの悲しみを抱え、残された人生を歩みます。けれども、そのときの気持ちを言葉に変換するのは難しいものです。
言うなれば賢治は、わたしたちの代弁者として『無声慟哭』を書き上げてくれたような気がします。ですからトシ子が亡くなってからほぼ100年を経た今でも、わたしたちの胸に共鳴し続けるのです。
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