はじめに【詩集『心象スケッチ 春と修羅(しゅら)』について】
『春と修羅』―――宮沢賢治が生前に唯一刊行した詩集です。けれども賢治自身は詩集と呼ばれることを好まず、あくまで「心象スケッチ」と呼んでいました。『春と修羅』は大正13(1924)年4月20日に、東京の関根書店から刊行されます。
自費出版で発行部数は1000部でした。製作期間は大正11(1922)から大正12(1923)にかけてで、つまり賢治が25歳から27歳までに書き留めた「心象スケッチ」の中から、賢治自身が選んだ69編の詩が収められています。
賢治は冒頭に序文を掲げ、どのような意図のもとにこれらの「心象スケッチ」を書いてきたのか記していますが、今回はこの『春と修羅』の序文を掲載したいと思います。
宮沢賢治『春と修羅』序・全文と解説【心象スケッチの意図!】
宮沢賢治(みやざわけんじ)とは?
宮沢賢治(作家・詩人1896~1933)は、明治29年に岩手県の花巻市に富商の長男として生まれます。盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)を卒業後は研究生として残り、稗貫郡(現・花巻市)の土性調査にあたりました。
大正10(1921)年からの5年間は、花巻農学校の教師を務めながら『注文の多い料理店』などの童話作品を刊行していきます。けれども全く売れず、父親から300円を借りて200部買い取ったという逸話が残されています。
大正15(1926)年、花巻農学校を依願退職し、百姓の道を志しますが、賢治の農業は「金持ちの道楽」と、陰口を叩かれたりするなど、その道は険しいものでした。同時期、『羅須地人協会』を設立し、農業の技術指導や、レコードコンサートの開催など、農民の生活向上を目指して邁進します。
しかし、そんな賢治の理想も結局は叶わぬまま、肺結核が悪化し、病臥生活を送るようになります。最後の5年は病床で、作品の創作や改稿を行っていましたが、昭和8(1933)年9月に、急性肺炎により37歳の若さで亡くなりました。
生前刊行された作品は、詩集『春と修羅』と童話集『注文の多い料理店』(1924)のみです。『銀河鉄道の夜』や『風の又三郎』など、宮沢賢治の代表作といわれる作品は、死後に刊行され、その多くは現代のわたしたちにも影響を与えてくれています。
また、作品中に多く登場する架空の理想郷に、郷里の岩手県をモチーフとして「イーハトーブ」と名付けたことでも知られています。
宮沢賢治の人生を詳しく知りたい方は 宮沢賢治『略年譜』【心象中の理想郷を追い求めたその生涯!】、また、宮沢賢治に関係する人々のことを知りたい方は、宮沢賢治『雨ニモマケズ』現代語訳【賢治に影響を与えた人々!】 を、ご覧になって下さい。
羅須地人協会(らすちじんきょうかい)とは?
大正15(1926)年に、宮沢賢治が現在の岩手県花巻市に設立した私塾のことです。
若い農民たちに、植物や土壌といった農業と関連する科学的知識を教え、そのほか、自らが唱える「農民芸術」の講義も行いました。
しかしその活動も、保守的な農民の理解は得られず、翌年には休止してしまいます。この私塾がこの名称で活動したのは1926年8月から翌年3月までの約7ヶ月でしたが、その後も賢治は農業指導の活動を続けます。特に農家に出向いての施肥指導はよく知られています。
イーハトーブとは?
イーハトーブとは宮沢賢治による造語で、賢治の心象世界中にある理想郷を指す言葉です。この造語は賢治の作品中に繰り返し登場します。
賢治が生前に出版した唯一の童話集である『イーハトヴ童話 注文の多い料理店』の宣伝用広告ちらしの文章は、「イーハトヴ」について以下のような説明がなされています。
イーハトヴとは一つの地名である。強て、その地点を求むるならば、大小クラウスたちの耕していた、野原や、少女アリスが辿った鏡の国と同じ世界の中、テパーンタール砂漠の遥かな北東、イヴン王国の遠い東と考えられる。実にこれは、著者の心象中に、この様な状景をもって実在したドリームランドとしての日本岩手県である。
『春と修羅』序【全文と解説・個人的な解釈】
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
※明滅(めいめつ) 明るくなったり、消えたりすること。灯がついたり消えたりすること。
(解説)
「私という現象」についてですが、賢治は、ひとつの生命体を「現象」として捉えています。そして自分を「青い照明」に例え、風景やみんな共に存在し、明滅を繰り返していると言います。
つまり、「私という現象」は、森羅万象(宇宙に存在する一切のもの)の中の微々たる存在でしかないと言い、けれども電燈本体が失われたとしても「青い照明」の光は継承され続けていくと訴えているように思います。
これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケッチです
(解説)
『春と修羅』に収められたものは、みんなと同時に感じたそのままの記録であり、それを賢治は “ 心象スケッチ ” と呼んでいます。
これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ また空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)
※畢竟(ひっきょう) つまるところ。結局。
(解説)
これらの詩にえがかれた「人や銀河や修羅や海胆について」を賢治は、 “ 心のひとつの風物 ” と言い、自分は確かに存在するものの、けれども結局は「虚無」、つまりは幻想に過ぎないことで、とは言え幻想だとしても、それはみんなに共通する幻想だと話します。
けれどもこれら新生代沖積世の
巨大に明るい時間の集積のなかで
正しくうつされた筈のこれらのことばが
わづかその一点にも均しい明暗のうちに
(あるいは修羅の十億年)
すでにはやくもその組立や質を変じ
しかもわたくしも印刷者も
それを変わらないとして感ずることは
傾向としてはあり得ます
けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史 あるいは地史といふものも
それのいろいろの論料といつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたつたころは
それ相当のちがつた地質学が流用され
相当した証拠もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を発掘したり
あるいは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません
すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます
大正十三年一月廿日
※沖積世(ちゅうせきせい) 地質時代の一区分。新生代第四紀洪積世の次の時代で、約一万年前から現在に至る。
※明暗(めいあん) 明るいことと暗いこと。転じて、物事の明るい面と暗い面。成功と失敗、幸と不幸など。
※白亜紀(はくあき) 地球の地質時代の一つで、約1億4,500万年前から6,600万年前を指す。
(解説)
私たちの生きる現代(私たちが共通に感じる世界)では、一瞬一瞬の点滅の記録も、気づかないうちに変化することがあると、賢治は言います。
けれどもそれは、みんなと共通の幻想であり、「歴史や地史」は現代の歴史学や地質学で確かに証明されるが、これもまた真理ではなく、ただ「私たちが感じているものに過ぎない」と話します。
そしておそらく、各時代には各時代ごとの物事の捉え方や価値観が存在し、将来突然、思わぬものが、みんなの前に現れる可能性があると言い、このすべてを「心象世界」の一風景として解釈したいという賢治の決意表明が語られています。
青空文庫 『春と修羅』 宮沢賢治
https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1058_15403.html
宮沢賢治、森佐一宛書簡(大正14年2月9日)
「心象スケッチ」という言葉を考える上で一般的に引用されるのは、同郷の友人、作家・森佐一宛書簡です。
(前略)前に私の自費で出した『春と修羅』も、亦それからあと只今まで書き付けてあるものも、これらはみんな到底詩ではありません。(中略)ほんの粗硬な心象スケッチでしかありません。
私はあの無謀な『春と修羅』に於て、序文の考を主張し、歴史や宗教の位置を全く変換しようと企画し、それを基骨としたさまざまの生活を発表して、誰かに見て貰いたいと、愚かにも考えたのです。あの篇々がいいも悪いもあったものでないのです。(中略)
私はとても文芸だなんていうことはできません。そして決して私はこんなことを皮肉で云っているのでないことは、お会い下されば、またよく調べて下されば判ります。
(宮沢賢治「森佐一宛書簡」大正14年2月9日)
あとがき【『春と修羅』序の感想を交えて】
森佐一宛の書簡に見られるように『春と修羅』は “ 賢治の仏教思想に基づく世界観 ” を表現していると言えるでしょう。そう考えると賢治が心象スケッチと呼ぶのもうなずくことができます。と同時に難解なのも理解できます。
子供の頃から宮沢賢治の作品に接してきて、特に詩に関して思うことがあります。それは、月並みですが、ブルース・リーも言っていた、「Don’t think, feel.(考えるな、感じろ)」です。
考える分だけ、迷路に迷い込んでしまうような気がします。そこが宮沢賢治の魅力と言えるでしょう。けれども何度も読み込んでいくうちにある時、ある瞬間、「あっ、もしかしたら?」なんて胸にすとんと落ちてくるときがあります。
多分こうして宮沢賢治とともに、わたしの一生は過ぎていくのでしょう
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