スポンサーリンク

宮沢賢治『グスコーブドリの伝記』【身を捨て他者に尽くす精神】

一読三嘆、名著から学ぶ
スポンサーリンク

はじめに【東日本大震災殉職者について】

 東日本大震災では、津波により沿岸地域の市町村で多くの消防団員が被害を受けました。岩手県、宮城県、福島県の消防団員の死者・行方不明者の団員数は254人に上っています。(平成24年9月11日調べ)

 殉職した消防団員の年齢構成は、全体的には40歳代(32.3%)が最も多く、次に30歳代(28.3%)となっています。30歳代及び40歳代を合計すると60.6%に達していることから、消防団の中でも働き盛りの年代が多く亡くなったことが分かります。

 働き盛りといえば、警察官、消防署員、各自治体の職員においても多くの殉職者を出しました。

ーーーたまに、自問自答することがあります。

(もしも自分が同じような立場にいたら、身を犠牲にして誰かを助けただろうか。お前はきっと我が身可愛さのあまり、我先と逃げ出しただろう。)

スポンサーリンク

宮沢賢治『グスコーブドリの伝記』【身を捨て他者に尽くす精神】

宮沢賢治とは?

 宮沢賢治(作家・詩人1896-1933)は、明治29年に岩手県の花巻市に富商の長男として生まれます。盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)を卒業後は研究生として残り、稗貫郡(ひえぬきぐん)(現・花巻市)の土性調査にあたりました。

 大正10年(1921)からの5年間は、花巻農学校の教師を務めながら『注文の多い料理店』などの童話作品を刊行していきます。けれども全く売れず、父親から300円を借りて200部買い取ったという逸話が残されています。

 大正15年(1926)、花巻農学校を依願退職し、百姓の道を志しますが、賢治の農業は「金持ちの道楽」と、陰口を叩かれたりするなど、その道は険しいものでした。同時期、『羅須地人(らすちじん)協会』を設立し、農業の技術指導や、レコードコンサートの開催など、農民の生活向上を目指して邁進します。



 しかし、そんな賢治の理想も結局は叶わぬまま、肺結核が悪化し、病臥(びょうが)生活を送るようになります。最後の5年は病床で、作品の創作や改稿を行っていましたが、昭和8年(1933)9月に、急性肺炎により37歳の若さで亡くなりました。

 生前刊行された作品は、詩集『春と修羅』と童話集『注文の多い料理店』(1924)のみです。『銀河鉄道の夜』や『風の又三郎』など、宮沢賢治の代表作といわれる作品は、死後に刊行され、その多くは現代のわたしたちにも影響を与えてくれています。

 また、作品中に多く登場する架空の理想郷に、郷里の岩手県をモチーフとして『イーハトーブ』と名付けたことでも知られています。

 宮沢賢治の人生を詳しく知りたい方宮沢賢治『略年譜』【心象中の理想郷を追い求めたその生涯!】、また、宮沢賢治に関係する人々のことを知りたい方は、宮沢賢治『雨ニモマケズ』【宗教観と科学・影響を与えた人々!】 を、ご覧になって下さい。


花巻農学校教諭時代の賢治

宮沢賢治『よだかの星』を読み、現代のいじめ問題を考えよう!
宮沢賢治『なめとこ山の熊』を読み自然との共存を考える!
宮沢賢治『注文の多い料理店』【自然を私物化する人間の愚かさ】
宮沢賢治『永訣の朝』【妹トシからの最期の贈り物】
宮沢賢治『オツベルと象』【強欲に憑かれた男の末路】
宮沢賢治『セロ弾きのゴーシュ』【こじらせ男子の成長物語!】
宮沢賢治『無声働突』【妹トシ子の臨終を描いた心象スケッチ!】
宮沢賢治『やまなし』【〈クラムボン〉を空想して楽しもう!】

羅須地人協会(らすちじんきょうかい)とは?

 大正15年(1926)に、宮沢賢治が現在の岩手県花巻市に設立した私塾のことです。 若い農民たちに、植物や土壌といった農業と関連する科学的知識を教え、そのほか、自らが唱える「農民芸術」の講義も行いました。

 しかしその活動も、保守的な農民の理解は得られず、翌年には休止してしまいます。この私塾がこの名称で活動したのは1926年8月から翌年3月までの約7ヶ月でしたが、その後も賢治は農業指導の活動を続けます。特に農家に出向いての施肥指導はよく知られています。


  羅須地人協会の建物

イーハトーブとは?

 イーハトーブとは宮沢賢治による造語で、賢治の心象世界中にある理想郷を指す言葉です。この造語は賢治の作品中に繰り返し登場します。

 賢治が生前に出版した唯一の童話集である『イーハトヴ童話 注文の多い料理店』の宣伝用広告ちらしの文章は、「イーハトヴ」について以下のような説明がなされています。

 イーハトヴとは一つの地名である。強て、その地点を求むるならば、大小クラウスたちの耕していた、野原や、少女アリスが辿った鏡の国と同じ世界の中、テパーンタール砂漠の遥かな北東、イヴン王国の遠い東と考えられる。実にこれは、著者の心象中に、この様な状景をもって実在したドリームランドとしての日本岩手県である。


『イーハトーブ童話 注文の多い料理店』新刊案内のチラシ

『グスコーブドリの伝記』あらすじ(ネタバレ注意!)

 グスコーブドリ(ブドリ)はイーハトーブの森に暮らす(きこり)の息子として生まれます。ブドリにはネリという妹がいました。ブドリが十歳のときです。イーハトーブは突如、異常気象に見舞われます。

 冷害による飢饉(ききん)のなかでも、ブドリたちは必死に耐えていましたが、それが何年も続くと、両親はしだいに病気のようになっていきました。そんななか、両親はブドリと妹のネリに食料を残して森に消えてしまいます。それは、子供を生き延びさせるためでした。



 両親が残した粉をなめて、なんとか生き延びていた兄弟のもとに、ある日、人さらいの男がやってきます。男は幼いネリを背中の籠に入れて消えてしまいました。後を追ったブドリでしたが、行き倒れになってしまいます。

 そんなブドリも、見知らぬ男に誘われ、テグス採りや薪とりの重労働を強いられたり、山師のもとで沼畑の開墾に携わったりしながら成長していきます。成長過程において、ブドリは一生懸命勉強もしました。特にクーボー博士という人の本は何度も読み返しました。

 ところが、またもや異常気象で山師の沼畑経営は傾いてしまいます。山師はブドリに、「気の毒だから、済まないがどうかこれを持って、どこへでも行っていい運を見つけてくれ。」と、一袋のお金と新しい服と靴を手渡しました。



 ブドリはそのお金でイーハトーブ行きの切符を買います。クーボー博士という人に会いに行くためです。―――ブドリの人生は、クーボー博士に出会うことで、大きく切り拓かれるのでした。

 博士の紹介でブドリは、ペンネン老技師のもと、イーハトーブ火山局の技師となり、七十いくつもある火山の監視に走り回るようになります。そんなとき、サンムトリの噴火が近いことを察したペンネン老技師は、ブドリと一緒に溶岩の流れを変え、市を壊滅の淵から救い出したのでした。



 それから火山局はクーボー博士の計画に沿って二百の潮汐(ちょうせき)発電所を作り、窒素の雨を降らせることに成功し、農民を凶作から救います。ところがある日、ブドリは群衆に袋叩きにされてしまうのでした。

 肥料の配合を間違えた農業技師が、責任を火山局に押し付けたための誤解によるものです。しかし疑いは晴れ、新聞でブドリのことを知った、ひとりの婦人がお見舞いにやってきます。その婦人は、人さらいに捨てられ、百姓の妻になっていた妹のネリだったのです。

 ブドリが27歳のときです。イーハトーブはまたしても深刻な冷害に見舞われます。ブドリは火山を爆発させれば、大気中の炭酸ガスが増えて、気候温暖化で冷害が防げると気付きます。



 そのことを相談したクーボー博士はこう答えます。
「それはできるだろう。けれども、その仕事に行ったもののうち、最後の一人はどうしても逃げられないのでね。」

 ペンネン老技師は「それは老いた自分がやる。」と言いますが、ブドリは「万が一、失敗したときのために先生は必要です。」と、さえぎり、単身で火山を爆発させるための死地に赴いて行きます。次の日、火山は爆発をしました。

―以下原文通り―
 それから三四日たちますと、気候はぐんぐん暖かくなってきて、その秋はほぼ普通の作柄になりました。そしてちょうど、このお話のはじまりのようになるはずの、たくさんのブドリのおとうさんやおかあさんは、たくさんのブドリやネリといっしょに、その冬を暖かいたべものと、明るい薪たきぎで楽しく暮らすことができたのでした。


青空文庫 『グスコーブドリの伝記』 宮沢賢治
https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1924_14254.html

スポンサーリンク

あとがき【『グスコーブドリの伝記』の感想も交えて】

 『グスコーブドリの伝記』の物語の生まれた背景として、宮沢賢治の生まれ育った郷里について触れておきます。当時の岩手県は度重なる地震や津波などの災害に襲われています。

 それだけではなく、たびたび自然の猛威に翻弄され、飢饉で幾度も悲惨な被害を出しています。死と隣り合う土地に生きる人々は、仏に救いを求めていました。実際に賢治の実家も浄土真宗の熱心な門徒でした。

 そんな環境のなかで育つ賢治ですから、宗教に多大な影響を受けるのは当然のことでしょう。物語のなかでブドリは身を犠牲にして、ネリやその子供たちを飢えから守ります。その姿は農業指導に奔走していた賢治の生き様とどこか重なるような気がします。

 さて、冒頭でも書いた東日本大震災で犠牲になった消防団員ですが、岩手県が最も多かったようです。もしかしたら、『身を捨てて他者に尽くす精神』が、今の時代にも受け継がれているのかもしれません。

 最後に、勇気ある英霊たちに対し、深甚(しんじん)なる敬意と感謝の意を表したいと思います。

コメント

タイトルとURLをコピーしました