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新美南吉『牛をつないだ椿の木』あらすじ【何のために働くのか?】

名著から学ぶ(童話)
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はじめに【個人主義を公言していた友人のはなし】

 この友人のことをA氏とします。A氏は自ら「組織の中で働くのは合わない。俺は個人主義者だから。」と、常日頃から公言していました。A氏は都会のど真ん中で生まれ育ち、田舎というものを知りません。

 だからなのでしょうか。口癖のように「必ず地方に移住する。」と、言っていました。それを実現したのが三年くらい前です。A氏の趣味はスキーです。当然のように移住先には大規模なスキーリゾートのある地域が選ばれ、意気揚々と家族で引っ越して行きました。

 地方育ちのわたしは、内心「大丈夫なのだろうか?」と、心配したものです。地方(田舎)では個人主義とか言っていられない現実を知っていたからです。その心配は早くも半年後に的中しました。

 「やれやれ、何かと地域の集まりが多くて、参ってしまったよ。」
なるほど、さもありなんです。それから度々、電話で不平不満を訴えてきました。ところがここ一年くらいは、ぱったりと音信が途絶えていたのです。

 先日、A氏の住む地域が豪雪に見舞われたとの報道を目にし、これをいい機会にと連絡を取ってみることにしました。「雪で大変だろ?」と聞くわたしに、A氏はこう言いました。

 「まあ、雪には悪戦苦闘してるけど、そのおかげで、個人主義を捨てることができた。」

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新美南吉『牛をつないだ椿の木』あらすじ【何のために働くのか?】

新美南吉(にいみなんきち)とは?

 新美南吉(本名・新美正八)は、日本の児童文学作家です。(1913~1943)
大正2(1913)年7月30日、愛知県知多郡半田町(現・半田市)に畳屋の次男として生まれます。幼い頃に母を亡くし、養子に出されるなど寂しい子供時代を送ります。

 中学時代から童話を書き始め、特に北原白秋には強い影響を受けて、童話・童謡同人誌の『赤い鳥』や『チチノキ』などに投稿します。その後、東京外国語学校に進学しますが、在学中に病(結核)を患います。

 20代後半の5年間は安城高等女学校(現・県立安城高等学校)で教師をしながら創作活動を続けていましたが、体調が悪化してしまい、安城女学校を退職します。退職後はほとんど寝たきり状態になり、昭和18(1943)年3月22日、29歳という短い生涯を終えます。

 『ごんぎつね』『おじいさんのランプ』『手袋を買いに』を始めとして、多くの童話・小説・詩などの作品を残しています。地方で教師を務め、若くして亡くなった童話作家という共通点から宮沢賢治との比較で語られることも多く、「北の賢治、南の南吉」と、呼ばれています。


    新美南吉

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『牛をつないだ椿の木』あらすじ(ネタバレ注意!)

 道端には椿の若木がありました。(うし)()きの()(すけ)さんは、その椿の木に牛を繋ぎます。人力車(じんりきしゃ)()きの海蔵(かいぞう)さんも、椿の根元に人力車を置きます。初夏の日のことですから、二人はとても喉が乾いていました。

 この道から百メートルほど山にわけ行ったところに、冷たい清水がいつも湧いています。牛や人力車を道端に停めたのはそれが理由でした。湧き水にたどり着いた二人は、かわるがわる腹ばいになり、その水をたらふく飲みます。



 飲み終えると、海蔵さんは、「もう少し道に近いとええがのう。」と、言いました。利助さんも「まったくだて。」と、答えます。ここの湧き水を飲んだあとは、誰もがそんなことを挨拶のように言い合うのでした。

 二人が椿のところに戻って来ると、その地域の地主さんが、どうしたものか、かんかんに怒っています。そして、「やいや、この牛は誰の牛だ!」と、怒鳴りつけてきます。実は利助さんの牛が、椿の葉をすっかりと食べてしまっていたのです。



 地主さんは、まるで子供を叱るように、利助さんを、さんざんに叱り飛ばします。人力車曳きの海蔵さんも利助さんのために一生懸命謝りました。そうやってどうにか地主さんの怒りを収めたのでした。

 しょげ返り、無言のまま帰り道を歩いていた二人でしたが、「もう少しあの湧き水が道に近いとええがのう。」と、とうとう海蔵さんが口に出してしまいます。利助さんも「まったくだて。」と、答えました。

 村の街道沿いに一軒の駄菓子屋があり、人力曳きたちの溜まり場になっています。この日はそこに井戸掘りの新五郎さんがいました。海蔵さんは新五郎さんに、「井戸というものは、一体いくらくらいで掘れるものかのう?」と、訊ねてみました。

 新五郎さんは「三十円もあればできるな。」と、答えます。海蔵さんは続けて「椿の木の辺りを掘ったら、水が出るだろうかなあ?」と、訊ねます。新五郎さんは、「あの辺りなら、水脈も近いから出るだろう。」と、言いました。

 海蔵さんは人力車を引きながら家に帰るとき、「三十円か。……三十円か。」と、何度も呟くのでした。



 海蔵さんは年老いたお母さんと二人っきりで暮らしています。夕飯のとき海蔵さんは、この日に起きた出来事をお母さんに教えました。そして「あそこの道端に井戸があったらいいのにのう。」と、言いました。お母さんも「そりゃあ、みんなが助かる。」と、同意します。

 その話の流れでお母さんは、利助さんが最近、山林でかなり儲けたことを話題に乗せました。海蔵さんもそのことを思い出し、利助さんに、「井戸堀りの費用、三十円を工面してくれんかのう。」と、頼みます。

 ところが利助さん、「自分だけがその水を飲むなら話がわかるが、他のもんも飲む井戸に、どうして自分が金を出すのか、どうにも飲み込めん。」と、即座に断ってしまいます。海蔵さんは思いました。利助さんが一生懸命働いているのは自分のためだけなのだと。

 利助さんに断られたからといっても、海蔵さんは諦めたわけではありませんでした。今度は井戸掘りの募金箱を椿の木に吊り下げたのです。けれども何日がたっても誰一人として協力してくれる人はいませんでした。



 海蔵さんは、結局人は頼りにならない。こうなったら自分ひとりの力でやり遂げるしかない。との思いを強くするのでした。それから海蔵さんは、人力車曳きの合間の唯一の楽しみだった駄菓子を食べるのも我慢し、せっせと貯蓄に励むようになります。

 それから二年がたちました。
海蔵さんは、地主さんの家を訪ねます。そうです。井戸掘りの費用の目途がついたのです。その地主さんというのは椿の木の下でさんざんに利助さんを叱ったあの老人です。実は地主さん、井戸を掘ることに承知をしてくれず、海蔵さんは、何度も足を運んでいるのでした。

 この日訪ねてみると、地主さんは持病で寝込んでいるとのことです。海蔵さんがお見舞いに地主さんの枕元までいくと、海蔵さんの顔を見るなり「何度頼みに来ても井戸を掘らせん。死んでも許さん!」と、頑として言うのです。海蔵さんも引き下がるしかありませんでした。

 それでも門を出るとき、地主さんの息子さんが追いかけてきて「そのうち私の代になりますから、そのとき井戸を掘ることに承知してあげましょう。」と、言いました。その言葉に海蔵さんは喜びます。そして、夕飯のとき、お母さんにそのことを教えました。



 お母さんは「お前は悪い心になっただな。人の死を待ち望んでいるのは悪いことだぞや」と、海蔵さんをたしなめます。海蔵さんは、胸が突かれたような思いがしました。お母さんのいうとおりだったのです。

 翌朝、海蔵さんは地主さんの家を再び訪ね、老人に、自分が地主さんの死を望んだことを謝ります。そして、「井戸は他の場所を探します。ですから、あなたはどうか、死なないで下さい。」と、深く詫びるのでした。



 「お前さんは、感心なおひとじゃ。」地主さんはそう言い、そして、自分自身の欲深き人生をふり返り、海蔵さんの私心の無さを称え、好きな場所に井戸を掘ることを許可します。しかも費用が足りなかったら、いくらでも出すと言ってくれたのです。

 それから少し時が流れ、海蔵さんは日露戦争に召集されました。海蔵さんを先頭にした出征祝いの行列は、椿の木の前を通ります。そこで、学校帰りの小さな子供が二人、井戸から水を汲んで飲んでいる姿を見かけました。

 海蔵さんは「俺も一杯飲んでいこうか。」と、井戸のところに行き、水を汲みそれを美味そうに飲みました。そして、心の中で(わしはもう、思い残すことはない。こんな小さな仕事でも、人のためになることを残すことができた)と、感慨に耽るのでした。

―以下原文通り―

 ついに海蔵さんは、帰って来ませんでした。勇ましく日露戦争の花と散ったのです。しかし、海蔵さんのしのこした仕事は、いまでも生きています。椿の木かげに清水はいまもこんこんと湧き、道につかれた人々は、のどをうるおして元気をとりもどし、また道をすすんで行くのであります。

青空文庫 『牛をつないだ椿の木』 新美南吉
https://www.aozora.gr.jp/cards/000121/files/638_34289.html

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あとがき【『牛をつないだ椿の木』の感想も交えて】

 冒頭で話したA氏の言った「個人主義を捨てることができた。」の理由を訊ねてみたら、こんなことがあったそうです。

 雪国ですから当たり前のことですが、暮らしには除雪という作業が伴います。A氏もまた借家の前を除雪していたのですが、両脇に高く積み上げるだけでした。ところが連日の大雪で、駐車スペースさえも確保できなくなっていったそうです。

 困り果てたA氏は奥さんと相談し、業者を頼むことにしました。そんなとき朝起きたら、二メートルくらいに高く積み上げられていた雪がすっかりと無くなっていたと言うのです。

 近所に行って訊ねてみたところ、地域の若者たちが老人の住む家の雪おろしをボランティアでしていて、ついでにその地域の排雪に困っていそうな家の雪も持って行ってくれていると言うのです。

 A氏は取り急ぎ、お金を包んで、ボランティア活動の代表を務めている家に行ったらしいです。ところが頑としてそのお金は受け取らなかったそうです。そして「この地域で暮らす人々が笑顔でいてくれるのが、私達の活動目標ですから。」と、言い放ったそうです。

 A氏が個人主義を捨てたのも納得です。

 さて、現在の世の中を見渡すと「個人主義」はおろか「利己主義」な人間が多くいます。労働とは己の欲望を満たす為の手段であると胸を張って言える人間も・・・。

 またもう一方では、A氏の雪を片付けてくれた若者たちや、『牛をつないだ椿の木』の主人公、海蔵さんのような人間もいます。

 どちらが幸福かは人それぞれの判断でしょう。
わたし個人としては、たったひとりでもいいから誰かを笑顔にして死んでいきたいものです。海蔵さんのように。

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