はじめに【ロダンについて】
オーギュスト・ロダンという名を聞いてピンとこない方もいると思いますが、 “ ロダンの『考える人』 ” と聞いたら、「あ~、あのロダンね!」と答える方も多いと思います。
オーギュスト・ロダンは、19世紀を代表されるフランスの彫刻家とされ、「近代彫刻の父」と称されています。『考える人』を始め数々の彫刻を残したロダンですが、ある日本人女性をモデルとした作品(彫像)を58点、そして30以上のデッサンを残しています。
今回はその日本人女性を描いた森鴎外の短編小説『花子』をご紹介します。
森鴎外『花子』あらすじと解説【若き才能への哀悼そして追慕!】

森鴎外(もりおうがい)とは?
明治・大正期の小説家、評論家、軍医です。本名・森林太郎。(1862~1922)
森鴎外は文久2(1862)年、石見国(島根県)津和野藩主の典医、森静男の長男として生まれます。明治14(1881)年、東京大学医学部を卒業後、陸軍軍医となります。
4年間のドイツへ留学を経て、帰国後には、留学中に交際していたドイツ女性との悲恋を基に処女小説『舞姫』を執筆します。以後は軍医といった職業のかたわら、多数の小説・随想を発表していくこととなります。
軍医の職を退いた森鴎外は、大正7(1918)年、帝国美術院(現・日本芸術院)の初代院長に就任します。その後も執筆活動を続けていましたが、大正11(1922)年7月9日、腎萎縮、肺結核のために死去します。(没年齢・満60歳)
近代日本文学を代表する作家の一人で、『舞姫』の他にも、『高瀬舟』『青年』『雁』『阿部一族』『山椒大夫』『ヰタ・セクスアリス』といった数多くの名作を残しています。

短編小説『花子』について
短編小説『花子』は、明治43(1910)年7月に発行された『三田文学』(第1巻第3号)に掲載されます。
『花子』あらすじ(ネタバレ注意!)

オーギュスト・ロダンが仕事場に出て来ました。幾つかの台の上には、制作途中の作品が置かれています。ロダンの仕事は、同時に幾つかの制作に取りかかり、代わる代わる気の向いた作品に手を着けるという習慣になっていました。
ロダンは晴れやかな顔つきをして、数多の未完成の作品を見渡します。するとその時、戸を叩く音がしました。ロダンは、「Entrez(お入り下さい!)」と言います。戸を開けて入って来たのは30代の痩せた男でした。
男は、「お約束のHanako(花子)を連れて来ました。」と言いました。花子という日本人女性が劇場に出ていると耳にしたロダンは、その女性を連れて来て見せるようにと、伝手を使って頼んでいたのです。入って来たのはその興行師でした。

興行師は、「日本人の学生を通訳として連れて来ました。」と言いました。ロダンは、「一緒に入らせて下さい。」と言います。興行師は一度出て行き、男女の日本人を連れて来ました。二人とも際立って小さく見えます。
男性のほうの日本人は、ロダンの出した右手を握りました。そして名刺入れから、医学士久保田某と書かれた名刺を渡します。ロダンは久保田に、「Avez–vous bien travaille?(良く勉強していますか?)」と言いました。
これは噂に聞いていたロダンの口癖です。久保田は、「Oui(はい)」と答え、花子を紹介しました。ロダンは花子の高島田に結った頭から足のつま先まで見てから、花子の小さな手を握ります。

この時久保田は一種の羞恥心を覚えました。日本の女優だと言っても、花子は決して別品ではないのです。しかし意外にもロダンの顔には満足の色が見えました。ロダンは興行師に、「応接間で待っていて下さい。」と言い、二人を椅子に座らせます。
※別品・別嬪(べっぴん) とりわけてすばらしい品。また、とりわけよくできた人。器量人。
ロダンは久保田に煙草をすすめながら、花子に、「故郷には山がありますか?海がありますか?」と訊ねました。花子は、「山は遠うございます。海は傍にございます。」と答えます。この答えをロダンは気に入りました。
続けてロダンは、「舟に乗りましたか?自分で漕ぎましたか?」と訊ねます。花子は、「まだ小さかったから父が漕ぎました。」と答えました。ロダンの空想に画が浮かびます。ロダンはしばらく黙っていました。

そしてロダンは、久保田に、「着物を脱ぐでしょうか?」と訊ねます。久保田はしばらく考えてから、そのことを花子に伝えます。すると花子は、「わたしなりますわ。」ときっぱり答えたのでした。ロダンの顔は喜びに輝きます。
久保田は、ロダンに教えられた書籍室で待つことになりました。ロダンの本好きは有名で、困窮していた頃も常に本を手にしていたと言います。久保田は、卓上に置いてある一冊の本を手にしました。見るとシャルル・ボードレール(フランスの詩人)の全集の一巻です。

何気なく最初のページを開くと、「おもちゃの形而上学」という論文がありました。久保田がその論文を読んでいると、戸を叩く音が聞こえて、ロダンが顔を覗かせます。ロダンが、「退屈したでしょう。」と言いました。
※形而上学(けいじじょうがく) 第二哲学たる自然学に先立つ原理学としての第一哲学、神学のこと。
久保田は、「いいえ、ボードレールを読んでいました。」と答えながら仕事場へ戻って来ます。花子はすでに支度を終えていました。ロダンは久保田に、「ボードレールの何を読みましたか?」と訊ねます。
「おもちゃの形而上学です。」と答えた久保田にロダンは、「人の体も形が面白いのではありません。形の上に透き通って見える内の焔が面白いのです。」と言いました。そしてスケッチを覗いた久保田にロダンはこう言います。
「Mademoiselle(未婚の女性を指す敬称)は実に美しい体を持っています。脂肪は少しもなく、筋肉は一つ一つ浮いています。地に根を深くおろしている木のように丈夫です。肩と腰の広い地中海のタイプとも違う、腰ばかり広くて肩の狭い北ヨーロッパのタイプとも違う。強さの美ですね。」
青空文庫 『花子』 森鴎外
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『花子』【解説と個人的な解釈】
- 登場人物「花子」について
「花子」の本名は、太田ひさ(1868~1945)と言います。愛知県中島郡祖父江村(現在の一宮市西部)出身で、芸妓として暮していた明治34(1901)年5月末、コペンハーゲン博覧会の踊子として渡欧します。
しかし仕事を終えた後でも帰国せずに、明治37(1904)年、日本演芸の一座を率いて「花子」と名乗り、ドイツ巡業を果たします。続いてイギリス各地を巡業し、その後北欧から南欧まで巡業します。
明治39(1906)年、マルセイユでの興行の折にロダンと巡り会います。ちなみに第一次世界大戦の時にはロダン夫婦とともにロンドンへ避難しています。花子は大正10(1921)年に帰国し、昭和20(1945)年4月2日、岐阜市で亡くなります。享年77歳でした。
- 登場人物「医学士久保田」について
日本人通訳として登場する医学士久保田にも、モデルがいたと言われています。モデルの名は、大久保栄(1879~1910)と言います。岐阜県揖斐郡に生まれた大久保は、第一高等学校大学予科第三部医科を卒業し、東京帝国大学医科大学で学びます。
医科大学生時代の大久保は、森鴎外宅の書生をしながら長男・於菟の家庭教師をつとめます。東京帝国大学医科大学を首席で卒業した大久保は、卒業と同時に病理学研究のため、ドイツとフランスに4年間の国費留学を命じられます。
しかしパリ・パスツール研究所で腸チフスに感染し、明治43(1910)年6月11日、急逝します。まだ31歳という若さでした。
つまり作者は、実在した人物や出来事をもとに『花子』を創作しています。ドイツへの留学経験があり、異国の地での苦労を知る森鴎外ですから、そんな地で活躍する一人の強い日本人女性の姿を世に知らせたかったのではないでしょうか。
と同時に、前回のブログに掲載した短編小説『二人の友』と同様に、若くして世を去った大久保を久保田と名を変え、通訳として物語に登場させます。『花子』が発表されたのは大久保の死の翌月です。つまり『花子』は大久保への哀悼の意を込めた作品と言えます。
あとがき【『花子』の感想を交えて】

現在、スポーツや芸術の他、様々な分野で日本人が海外で活躍をしています。けれども明治という時代、海外で活躍するのは困難だったと言えるでしょう。
もちろん今のように飛行機もありません。ヨーロッパに行くのに船で約1ヶ月半もかかりました。そんな時代に、しかも女性が活躍していたと言うのですから驚く限りです。理解して頂けると思いますが、これは決して女性差別を意味するものではありません。
『花子』という作品には、当時の日本人が抱いていたと思われる欧米列強諸国への劣等感が全く感じられません。これもまた驚くべきところです。外国人に話しかけられた際に、いまだにドギマギしている自分とは雲泥の差です。
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