はじめに【とある「○○信者」のはなし】
最近、巷で「○○信者」という言葉をよく耳にするようになりました。それは宗教とかではなく、一個人の信者として使われているようです。
わたしの知り合いにも、とある言論人YouTuber(ユーチューバー)の言葉を、言わば神かのように妄信している人間がいます。そのことは一先ず置いといて、問題なのは同じようなジャンルのYouTuberが違うことを言うと、まるで親の敵かのように罵倒することです。
―――完全に「○○信者」です。
彼にしてみれば、その人間の言うことが全て正しくて、他の意見は全て論外のようです。
昨今、ダイバシティ(多様性)が叫ばれるなか、ネット界隈では時代を逆行しているように感じます。
そんなことを考えているとき、ふと、森鴎外の短編小説『寒山拾得』を思い出してしまいした。
森鴎外『寒山拾得』あらすじと解説【「盲目の尊敬」の危うさ!】
森鴎外(もりおうがい)とは?
明治・大正期の小説家、評論家、軍医です。本名・森林太郎。(1862~1922)
森鴎外は文久2(1862)年、石見国(島根県)津和野藩主の典医、森静男の長男として生まれます。明治14(1881)年、東京大学医学部を卒業後、陸軍軍医となります。
4年間のドイツへ留学を経て、帰国後には、留学中に交際していたドイツ女性との悲恋を基に処女小説『舞姫』を執筆します。以後は軍医といった職業のかたわら、多数の小説・随想を発表していくこととなります。
軍医の職を退いた森鴎外は、大正7(1918)年、帝国美術院(現・日本芸術院)の初代院長に就任します。その後も執筆活動を続けていましたが、大正11(1922)年7月9日、腎萎縮、肺結核のために死去します。(没年齢・満60歳)
近代日本文学を代表する作家の一人で、『舞姫』の他にも、『高瀬舟』『青年』『雁』『阿部一族』『山椒大夫』『ヰタ・セクスアリス』といった数多くの名作を残しています。
森鴎外
短編小説『寒山拾得』(かんざんじっとく)について
『寒山拾得』は大正5(1916)年1月、文芸雑誌『新小説』(1899~1890)に発表されます。2年後の大正7(1918)年に春陽堂から発刊の『高瀬舟』に収録されます。
『寒山拾得』あらすじ(ネタバレ注意!)

唐の貞観の頃、閭丘胤という官氏がいたそうです。ところが、新旧の唐書にその名は見当たりません。が、とりあえず、いたことにしておきます。
閭は日本の府県知事くらいの官吏でした。その閭が今度は台州という土地に着任することになります。着任早々、多くの下役が訪ねて来て謁見をします。その慌ただしさに、地方長官の威勢の大きさを味わい、閭は上機嫌でした。
この日、閭は、天台県の国清寺に出かける予定です。これは長安にいたときから決めていたことです。一人の乞食坊主との出逢いがきっかけでした。
閭がこれから任地へ旅立とうとしていたときのことです。その乞食坊主が屋敷を訪ねて来ました。閭はこのとき、酷い頭痛に苛まれていて、「旅立ちの日を延ばさなくてはなるまいか。」と、女房と相談していたのです。
閭はしばらく考え、乞食坊主と逢ってみることにします。閭は、科挙に受かるための学問はしてきましたが、仏典を読んだこともなく、老子を研究したこともありません。ですから、僧侶や道士というものに対して、尊敬の念を持っていたのです。
まもなく入って来たのは、垢のついた弊れた法衣を着た、背の高い僧でした。
僧に対し、閭は「わたしに逢いたいと言われたそうだが、なんのご用かな?」と、聞きます。
僧は答えます。
「あなたは頭痛に悩んでいるそうですね。わたくしはそれを治して進ぜようと思って参りました。」そして僧は「清浄な水があれば、まじないで治して進ぜます。」と、言います。
閭はそのまじないを受けることにしました。水一杯でするまじないなら危険なこともあるまいと思ったからでした。僧は水を口に含んで、突然、ふっと閭の頭に吹きかけます。
僧の行動に閭はびっくりしますが、頭痛は見事に治っていたのでした。そのまま帰ろうとする僧を閭は「お礼がしたい」と、呼び留めます。しかし、僧はそれを拒みます。
閭はせめて、身元だけでも明かして欲しいと言います。僧は、台州・天台山国清寺の豊干と名乗ります。続けて閭は、「台州には逢いに行くべき偉い人はいませんか」と、訊ねます。
僧は、「国清寺には、普賢菩薩の化身、拾得と申す者と、文殊菩薩の化身、寒山と申す者がいます」と、言い残して、去って行きました。
そんな理由で閭は、天台県の国清寺に出かけるのです。
閭は輿に乗り、従者を数十人引き連れて、路を進んで行きます。路で出合う人々は皆、輿を避けてひざまずきます。閭にとっては、とても良い気分の旅路でした。こうして、二日かけて国清寺に着いたのです。
※輿(こし) 昔の乗り物の一つ。屋形の中に人を乗せ、その下に取り付けた二本の長柄をかついで運ぶもの。
国清寺では、道翹という僧が出迎えて、案内をしてくれました。閭は道翹に「豊干という僧がおられましたか。」と、聞きます。道翹の話を聞くところ、豊干はまるで活きた阿羅漢のような僧でした。
そして閭は、拾得や寒山についての話を聞きます。ちょうどその二人が台所にいると言うので、対面を希望します。台所に行くと道翹は「おい、拾得」と、呼びかけました。
その視線の向こうには、竈の前で火に当たっている、二人のみすぼらしい小男の僧がいました。閭は二人のそばに歩み寄り、まるで聖人に対する拝礼をし、自らの官職を述べます。
そのとき、寒山と拾得は、同時に閭を一目見て、大声で笑ったかと思うとその場から逃げ去ってしまいました。逃げるときに寒山が、「豊干がしゃべったな」と言ったのが聞こえました。
―以下原文通り―
驚いてあとを見送っている閭が周囲には、飯や菜や汁を盛っていた僧らが、ぞろぞろと来てたかった。道翹は真蒼な顏をして立ちすくんでいた。
青空文庫 『寒山拾得』 森鴎外
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『寒山拾得』【解説と個人的な解釈】
物語の時代背景【貞観年間について】
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貞観は、中国唐代の太宗の治世に使われた元号です。(627年~649年)太宗が魏徴などの賢臣を任用し、広く諫言を納れて善政を敷いたため、隋末の戦乱から民生を立ち直らせることに成功したと伝えられています。(貞観の治)。
貞観年間は賦役も軽く、殖産が奨励された傍ら、突厥との防衛戦にも勝利し、社会は安定して経済は繁栄を見せます。後世の治政の範とされ、その原理は『貞観政要』(太宗と名臣たちの論議を記した書)に詳しく記されています。
※賦役(ぶえき・ふえき) 農民のような特定階級の人々に課せられた労働。
中国・唐 伝説上の「寒山拾得」について

中国,唐の伝説上の2人の詩僧。天台山国清寺の豊干禅師の弟子。拾得は豊干に拾い養われたので拾得と称した。寒山は国清寺近くの寒山の洞窟に住み、そのため寒山と称したといい、樺皮を冠とし大きな木靴をはき、国清寺に往還して拾得と交わり、彼が食事係であったので残飯をもらい受けていた。
出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
ともに世俗を超越した奇行が多く、また多くの詩を作ったという。しかし、これらの事績はすべて、天台山の木石に書き散らした彼らの詩を集めたとされる『寒山詩集』に付せられた閭丘胤 名の序、および五代の杜光庭の『仙伝拾遺』に記された伝説に発するもので、寒山、拾得の実在そのものを含めて真偽のほどは確かめがたい。
後世に禅僧などが彼らのふるまいや生活に憧れ、好画題として扱うことが多かった。顔輝 、因陀羅などに作品があり、日本でも可翁、明兆、松谿などが描いた。その詩は『寒山詩集』に寒山のもの約三百余首、拾得のもの約五十首を収め、すべて無題である。
自然や隠遁を楽しむ歌のほか、俗世や偽善的な僧を批判するもの、さらに人間的な悩みから女性の生態を詠じたものまで、多彩な内容をもち、複数の作者を推測することもでき、さらにその成立もいくつかの段階を経ているとも考えられている。
森鴎外『寒山拾得縁起』
森鷗外は『寒山拾得縁起』で次のように書いています。
徒然草に最初の仏はどうして出来たかと問われて困ったというような話があった。子供に物を問われて困ることはたびたびである。中にも宗教上のことには、答に窮することが多い。
(中略)寒山詩が所々で活字本にして出されるので、私のうちの子供がその広告を読んで買ってもらいたいと言った。「それは漢字ばかりで書いた本で、お前にはまだ読めない」と言うと、重ねて「どんなことが書いてあります」と問う。
多分広告に、修養のために読むべき書だというようなことが書いてあったので、子供が熱心に内容を知りたく思ったのであろう。
(中略)私はやむことを得ないで、寒山拾得の話をした。(中略)子供はこの話には満足しなかった。大人の読者はおそらくは一層満足しないだろう。(後略)
森鷗外は作中で、「道とか宗教とかいうものに対する態度に三通りある。」と、述べています。
・ 道とか宗教というものに全く無頓着な人
・ 道とか宗教を求める人
・ 上のふたつの中間人物
そして、中間人物のことを「自分のわからぬもの、会得することの出来ぬものを尊敬することになる。そこに盲目の尊敬が生ずる。盲目の尊敬では、たまたまそれをさし向ける対象が正鵠を得ていても、なんにもならぬのである。」と、書いています。
※正鵠(せいこく) 物事の急所。一番大切なねらい所。
豊干は何故、拾得を普賢菩薩の化身、寒山を文殊菩薩の化身と言ったのでしょうか?ここからは個人的な解釈になりますが、地方長官としての権威振りかざし、庶民をひざまずかせていた閭丘胤に対し、寒山と拾得に拝礼を取らせることで、一つお灸をすえてやったのだと解釈しています。
青空文庫 『寒山拾得縁起』 森鴎外
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あとがき【『寒山拾得』の感想も交えて】

冒頭に話した「○○信者」についてですが、鴎外の言に当てはめると中間人物にあたる人たちのことを指すのだと思います。確かに自分にはないものを持つ人間には憧れます。けれども同時に、自分の持つものを他の人間が持っていないことも忘れてはいけません。
ともかくとして、“ 盲目の尊敬 ” ほど、危ういものはありません。
仮に一度でも裏切られたら、盲目の尊敬が盲目の侮蔑に変わる恐れがあるからです。わたし自身にも言えることですが、道を求めないにしろ、先ずは自分の思考をふり返る余裕を持ちたいものです。
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