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芥川龍之介『おぎん』【キリシタン達が信仰に求めたものとは?】

一読三嘆、名著から学ぶ
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はじめに【宗教と日本人】

 他国から見ると日本という国は無宗教国家に見えるようです。けれども、正月には初詣という形で神社やお寺に参拝もするし、教会で結婚式を挙げる人の割合は50%を超えるとの調査結果を目にしたことがあります。

 無宗教国家どころか多宗教国家だと言えると思います。日本人は古来から、自然の中に神も宿っていれば、仏も宿っている「一切万有は神」という考えでした。その考え方は今現在にも繋がっていて、それは宗教への寛容さにも結びついていると思います。

 しかし、一神教的な見方からすると、それが無神論ということになります。神という存在は絶対的なのだからと・・・。ともかくとして、私が初めて “ 宗教と日本人 ” について考え始めたのは芥川龍之介の短編小説、『おぎん』がきっかけでした。

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芥川龍之介『おぎん』【キリシタン達が信仰に求めたものとは?】

芥川龍之介とは?

 大正・昭和初期にかけて、多くの作品を残した小説家です。芥川龍之介(1892-1927)
東京市京橋区(現:東京都中央区)に生まれ、東京帝大英文科在学中から創作を始めます。短編小説『鼻』が夏目漱石から絶賛され、本格的に作家の道を歩き出します。

 その後、今昔物語などから材を取った王朝もの『羅生門』『芋粥』『藪の中』、中国の説話によった童話『杜子春』などを次々と発表し、大正文壇の寵児となっていきます。

 1921(大正10)年に仕事で中国の北京を訪れた頃から病気がちになっていき、神経も病み、睡眠薬を服用するようになっていきます。1927年7月24日、芥川龍之介は大量の睡眠薬を飲んで自殺をしてしまいます。享年35歳。


  芥川龍之介

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芥川龍之介のキリスト教観

 芥川龍之介は十五篇の切支丹物の作品を残しています。芥川は年少の頃から、キリスト教にかなりの興味を持っていました。

 僕は年少の時、硝子画の窓や振り香艫やコンタスの為に基督教を愛した。その後僕の心を捉へたものは聖人や描音の伝記だった。僕は彼等の捨命の事蹟に心理的或は戯曲的興味を感じ、その為に又基督教を愛した。即ち僕は基督教を愛しながら、基督教的儒仰には徹頭徹尾冷淡だった。
『ある鞭』(全集第十九巻)

 このように、キリスト教に肯定的な立場に立っていた芥川でしたが、晩年に至るに従って否定の方向へと変わっていきます。それは芥川が切支丹関係の書物を読破していったことが理由と考えられています。

 要するに、芥川のキリスト教への関心は、「殉教者の心理はわたしにはあらゆる狂信者の心理のやうに病的な興味を与へたのである。」と述べていることからも分かるように、あくまでも第三者的な視点に立った興味であり、自らが信仰するに至らなかったものであったと考えられます。

 しかし、芥川の死の枕元には聖書が置かれていたといいます。それが何を意味するのかは、芥川本人じゃないと分かりません。それでも、死の直前までキリスト教への関心は薄れていなかったということだけは察することができます。

『おぎん』あらすじ(ネタバレ注意!)

 江戸時代初期の元和か寛永年間のことです。当時、江戸幕府が発布した禁教令(きんきょうれい)により、キリシタンへの弾圧は、いよいよ苛烈なものとなっていました。隠れキリシタンは見つかり次第、火炙(ひあぶ)りや(はりつけ)に処せられます。

 そんな時代、長崎の郊外、浦上の山里村に、おぎんという名の少女がいました。おぎんは両親と共に、大阪からはるばる長崎へと流浪して来ました。ところが、両親は長崎に着くとまもなく、おぎん一人を残して亡くなってしまいます。

 孤児となったおぎんでしたが、山里村の農夫で隠れキリシタンの「ジョアン孫七」、「ジョアンナおすみ」という名の、とても憐れみ深い、夫婦の手によって育てられることになります。おぎんもまた、洗礼を受け「マリア」という名を授けられました。

 おぎんはこの夫婦と一緒に、牛を追ったり麦を刈ったりして、とても幸福な毎日を送っています。勿論、断食や祈祷も怠った事などありませんでした。

 ある年のクリスマスの夜のことです。役人達が突然、孫七の家にやって来ます。この日ばかりは壁に十字架を祭っていました。牛小屋には、ぜすす様の産湯として飼い葉桶に水を張っています。役人達はお(たがい)に頷き合い、孫七夫婦、そしておぎんに縄をかけます。

 そのまま三人は、代官の屋敷へと引き立てられて行きます。投獄されてからは「棄教をするように!」との拷問の連続でした。おぎんも例外ではありません。けれども、三人の決心は動きません。それは、はらいそ(天国)の門を潜るまでの辛抱と、耐え抜いているからです。

 代官は、なぜ彼らが強情を張るのか、さっぱり理解ができません。気違いではないかと思う事もあります。人ではない動物のような気がします。そこで代官は、牢に一か月ばかり入れた後、三人とも火炙りの刑に処することにしました。



 三人は村はずれの刑場に引かれて行きます。そしてそれぞれが、太い柱に縛り付けられました。それでも、孫七、おすみ、おぎん、揃って同じような静かな顔をしています。刑場の周囲には大勢の見物人が取り巻いていました。

 準備が整うと、役人の一人が「棄教するか、しばらく猶予を与えるからもう一度よく考えて見ろ?棄教すると言えば直ぐに許してやる。」と、言いました。けれども三人は、口元に微笑を浮かべたままで何も答えません。見物人達は今か今かと、火がつくのを待っています。

 そのとき突然、一同の耳は、明瞭かつ意外な言葉を捉えます。
―――「わたしは御教を捨てる事に致しました。」
沈黙の中、そう言ったのはおぎんでした。

 その言葉を聞いた、孫七とおすみは「悪魔にたぶらかされたのか、もう少しで天主の顔も拝めるのだぞ!」と、おぎんを責めます。けれども、おぎんは返事をしません。縄を解かれたおぎんは、暫く茫然と佇んでいました。

 そして、やっと棄教の理由を話し始めます。おぎんは言います。「わたしの生みの両親は仏教徒です。キリスト教の教義によると、きっと今頃は地獄にいるはずです。それなのに自分一人だけが、育ての両親と一緒に天国に行くわけにはいきません。」

 それを聞いたおすみは涙を落とします。そんなおすみを夫の孫七は「お前も悪魔に魅入られたのか?」と叱りつけます。「いいえ、わたしはお供いたします。けれどもそれは天国へ行きたいからではありません。あなたのお供をするのでございます。」

 孫七は長い間、沈黙していました。その顔は青ざめています。おぎんは泣き伏していた顔を上げて、じっと孫七を見守っています。そして、「お父様、お母様、地獄へまいりましょう! みんな悪魔にさらわれましょう!」と、叫びました。
―――孫七はとうとう堕落します。

―以下原文通り―
 この話は我国に多かった(ほう)教人(きょうにん)の受難の(うち)でも、最も恥ずべき(つまづ)きとして、後代に伝えられた物語である。何でも彼等が三人ながら、おん教を捨てるとなった時には、天主の何たるかをわきまえない見物の老若(ろうにゃく)男女(なんにょ)さえも、ことごとく彼等を憎んだと云う。

 これは折角(せっかく)火炙(ひあぶ)りも何も、見そこなった遺恨(いこん)だったかも知れない。さらにまた伝うる所によれば、悪魔はその時大歓喜のあまり、大きい書物に化けながら、夜中(よじゅう)刑場に飛んでいたと云う。これもそう無性(むしょう)に喜ぶほど、悪魔の成功だったかどうか、作者は甚だ懐疑的である。


青空文庫 『おぎん』 芥川龍之介
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/116_15168.html

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キリシタン禁制の歴史

豊臣秀吉の禁教令

 豊臣秀吉は当初、織田信長と同様に、キリスト教容認の立場を取っていました。しかし、九州平定後の1587年7月(天正15年6月19日)にキリスト教宣教の制限(バテレン追放令)を表明します。

 理由としては諸説あり、「九州で日本人の奴隷売買が行われていると知り、それを禁止させるため」「外交権、貿易権を自身に集中させ国家としての統制を図るため」「キリスト教徒による神社仏閣への迫害」などがあげられます。

 秀吉は1596年に再び禁教令を出します。この時は26名のキリスト教徒が処刑されました(日本二十六聖人)。しかし、継続的な政策が取られたわけではなく、後を継いだ江戸幕府もそれに倣っています。


豊臣秀吉像(狩野光信筆-高台寺蔵)

日本二十六聖人(にほん‐にじゅうろくせいじん)
 日本におけるキリシタンの最初の殉教者。慶長元年(一五九六)豊臣秀吉の弾圧政策により長崎で磔(はりつけ)に処せられた二六人のキリシタン。

 フランシスコ会のバテレン三人、イルマン三人、日本人信徒一七人、イエズス会の日本人イルマン三人で、文久二年(一八六二)教皇ピウス九世は全員を聖人の列に加えた。

出典:精選版 日本国語大辞典

江戸幕府による禁教令

 江戸幕府も当初は、秀吉と同様の政策をとります。しかし、1609年(慶長14年)から1612年(慶長17年)にかけて発生した「岡本大八事件」をきっかけに、幕府はキリスト教の禁止を始めます。

 江戸幕府は1612年4月21日(慶長17年3月21日)に江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して、教会の破壊と布教の禁止を命じた禁教令を布告します。そして翌年には、直轄地に出していた禁教令を全国に広げます。

 1619年(元和5年)、幕府は改めて禁教令を出します。このとき将軍・秀忠は、京都の牢屋に入れられていたキリシタン52名の処刑(火炙り)を命じます。そんな情勢のなか、1620年(元和6年)、日本への潜入を企てていた宣教師2名が偶然見つかります。

 この一件により、幕府はキリシタンへの不信感を高め、大弾圧へと踏み切るようになっていきます。


    徳川秀忠

岡本大八事件
 江戸初期,徳川家康の側近本多正純の与力でキリシタンの岡本大八(洗礼名パウロ)が,1610年1月(慶長14年12月)ポルトガル船ノッサ・セニョーラ・ダ・グラサ号(一名,マードレ・デ・デウス号)を爆沈させたキリシタン大名有馬晴信から,その恩賞斡旋にかこつけて多額の金品を詐取した事件。

 1612年大八は下獄し晴信の長崎奉行長谷川左兵衛謀殺の企てを訴えて対決した。結局,晴信は改易・甲州配流後に死を賜り,大八は駿府阿倍河原で火刑に処せられた。

出典:株式会社平凡社世界大百科事典 第2版

鎖国令と島原の乱

 1616年(元和2年)に、幕府は最初の鎖国令(二港制限令)を出して、キリスト教の禁止を厳格に示します。そんな鎖国令が構築されていく中、1637年12月11日(寛永14年10月25日)に「島原の乱」が起きます。

 「島原の乱」は、キリスト教を拠り所にしていた農民が多数参加していたといった点で、幕府に衝撃を与えます。乱以降、幕府はキリスト教徒(隠れキリシタン)の発見と棄教を積極的に推進していくようになっていきます。

禁教令の緩和

 幕末になり、開国が始まると禁教令の緩和が取られ始めます。しかしそれは、あくまで外国人の信仰の自由を認めたもので、日本人のキリスト教の活動を公式に認めるようになったのは、ずっと後になってからで、1899年(明治32年)の「神仏道以外の宣教宣布並堂宇会堂に関する規定」が発布されてからでした。


  長崎(大浦天主堂)

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あとがき【『おぎん』の感想を交えて】

 “ 人間は皆同じ ” と、一括りにすることで、差別を無くそうといった考えがあるようです。しかし、生まれてくる環境によって、見た目や考え方が変わるということは誰もが理解していることでしょう。そのことは肯定しなければいけません。

 宗教もそのひとつです。基本的に何を信仰するかは生まれた土地や環境で決まります。おぎんの本当の両親は仏教徒でした。しかし、そこまで熱心に信仰はしていなかったのでしょう。ですから、おぎんは真っ白な状態でキリスト教の教えを受け入れます。

 キリスト教以外の宗教は邪教であるといった教えです。死の直前までそれを信じていました。ここでひとつの矛盾点にぶち当たります。「神を信じる者以外は全員地獄に行くのか?」といった単純な矛盾です。

 世界中を見渡すと、今でも宗教をめぐる争いは続いています。それは、“ 人間は皆同じ ” では無いからです。多様性とはそのことを認め合うことです。幸いにして日本人は、その部分に関して寛容だと言えます。

 何を信じるにせよ、他者への寛容さだけは忘れてはいけないと考えます。それは、芥川も言いたかったことのような気もします。

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