はじめに【散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする】
「半髪頭(ちょんまげ)を叩いてみれば、因循姑息な音がする。総髪頭(長髪)を叩いてみれば、王政復古の音がする。散切り頭をたたいてみれば、文明開化の音がする。」
これは明治初期にさかんに歌われた有名な流行り歌(都々逸)の歌詞です。
ちなみに「因循姑息」とは、古いしきたりや今までのやり方にこだわって、改めようとしないことを意味します。
つまり、散切り頭の人を、文明開化の潮流に乗った先進的な人として称賛する歌なのですが、こういった時代の潮流は明治期にわたって、日本という国を飲み込み続けます。一方で、この文明開化の潮流ついて手厳しく批判をする人物がいました。かの文豪・夏目漱石です。
夏目漱石『現代日本の開化』要約と解説【幸福度は変わらない!】
夏目漱石(なつめそうせき)とは?
夏目漱石(本名は夏目金之助)は日本の小説家、評論家、英文学者、俳人であり、明治末期から大正初期にかけて活躍した近代日本文学の頂点に立つ作家の一人です。(1867-1916)
夏目漱石は慶応3(1867)年、江戸牛込馬場下(現在の新宿区喜久井町)に生まれます。帝国大学英文科(現在の東京大学)卒業後、松山中学、五高等(熊本)で英語教師となります。その後、英国に留学しますが、留学中は極度の神経症に悩まされたといわれています。
帰国後は、第一高等学校と東京帝国大学の講師になります。明治38(1905)年、『吾輩は猫である』を発表し、それが大評判となり、翌年には『坊っちゃん』『草枕』など次々と話題作を発表し、人気作家としての地位を固めていきます。
明治40(1907)年、東大を辞して、新聞社に入社し、創作に専念します。本格的な職業作家としての道を歩み始めてからは、『三四郎』『それから』『行人』『こころ』等、日本文学史に輝く数々の傑作を著します。しかし、最後の大作『明暗』執筆中の大正5(1916)年12月9日、胃潰瘍が悪化し永眠してしまいます。(享年50歳)
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講演録『現代日本の開化』について
明治44(1911)年8月、夏目漱石は、関西地区で4回の連続講演を行います。その第2回講演は和歌山で行われ、この講演内容を『現代日本の開化』と言い、大正2(1913)年には別に行われた講演と共、に実業之日本社から『社会と自分』として出版されます。
『現代日本の開化』【要約】
夏目漱石は、講演の題目を『現代日本の開化』とし、「開化は人間活力の発現の経路である」と、開化についての定義づけをして、「開化を形造っていくには性質の異った二種類の活動がある」と、述べます。
その二種類の活動とは、「積極的のもの」と「消極的のもの」があるとし、前者を「便宜のため活力節約の行動」、後者を「活力消耗の趣向」と名づけます。
そして「活力節約の行動」というものは、「義務という言葉を冠して形容すべき性質の刺戟に対して起る。」と話し、「この義務の束縛を免かれて早く自由になりたい、人から強いられてやむをえずする仕事はできるだけ分量を圧搾して手軽に済ましたいという根性」と説明し、その根性が「活力節約の工夫」となって開化の一大原動力を構成したと述べます。
一方、「活力消耗の趣向」というものは、「道楽という名のつく刺戟に対し起るもの。」とし、「自から進んで強いられざるに自分の活力を消耗して嬉しがること」と説明し、この二様の精神「消極的な活力節約」と「積極的な活力消耗」が並び進み、こんがらがり、変化をして開化というものができたと、漱石は述べます。
- 消極的な活力節約 ⇒ できるだけ労力を節約したい(楽をしたい)という願望 ⇒ 種々の発明や器械力
- 積極的な活力消耗 ⇒ 気儘に勢力を費やしたい願望 ⇒ 娯楽
(この二つの願望が複雑に交わり合い、変化を遂げ、「開化」は進んできた)
そして、「二種類の活力が上代から今に至る長い時間に工夫し得た結果として昔よりも生活が楽になっていなければならないはず。」とし、けれども実際は、「開化が進めば進むほど競争がますます劇しくなって生活はいよいよ困難になるような気がする。」と、述べます。
※上代(じょうだい) 日本史上の時代区分のひとつ。一般的には古代のうちで日本の文献が残されている時代。
その理由を、「昔は死ぬか生きるかのために争ったものである。それだけの努力をあえてしなければ死んでしまう。けれども今は、生きるか生きるかと云う競争になってしまった。」と、述べます。
- 消極的な活力節約 ⇒ 楽をして大きく稼ぐ競争 ⇒ 心理的苦痛
- 積極的な活力消耗 ⇒ 贅沢の競い合い ⇒ 心理的苦痛
昔より生活が楽になったかと言うと、それはNO。(競争が激しくなる)
死ぬか生きるかのための争い ⇒ 生きるか生きるかと云う競争(どのように生きるかという競争)へと変化
漱石は、開化の仕方について、「西洋の開化(一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である。」とし、更に説明を続け「西洋の開化は行雲流水のごとく自然に働いている。」と話す一方で日本は、「鎖港排外の空気で二百年も麻酔したあげく突然西洋文化の刺戟に跳ね上って、外から無理押しに押されて否応なしもたらされた。」と、述べます。
※行雲流水(こううんりゅうすい) 空をゆく雲と川を流れる水のように、執着することなく物に応じ、事に従って行動すること。
- 西洋の開化(内発的) ⇒ 内から自然に花が咲く(地道に階段を一段ずつ上る開化)
- 日本の開化(外発的) ⇒ 外からの力で無理矢理花を咲かせる(階段を何段かずつ飛び越えていく開化)
江戸幕府の鎖国 ⇒ 明治政府の開国 ⇒ 強烈な西洋文化の影響を受け入れることになる ⇒ 現代にも続く(グローバリゼーション)
そして、「開化の推移はどうしても内発的でなければ嘘だ。」と話し、「外発的な開化の影響を受ける国民はどこかに空虚の感がなければなりません。またどこかに不満と不安の念を懐かなければなりません。それをあたかもこの開化が内発的ででもあるかのごとき顔をして得意でいる人のあるのは宜しくない。虚偽でもある。」と、述べます。
更に西洋人との付き合い方を例にとり、「強いものと交際すれば、どうしても己を棄てて先方の習慣に従わなければならなくなる。」とし、現代日本が置かれた状況の開化というものは「皮相上滑りの開化であると云う事に帰着する。」と、述べます。
※皮相(ひそう) 表面に現われた現象。うわべ。うわっつら。転じて、真相を見きわめないで、表面だけで判断を下すこと。また、その判断やそのさま。
そして開化が進歩することで、「競争その他からいらいらしなければならない心配を勘定に入れると、吾人の幸福は野蛮時代とそう変りはなさそうである。」と、前の言葉を繰り返し、「ただ上皮を滑って行き、神経衰弱になるとすれば、どうも日本人は気の毒と言わんか憐れと言わんか、誠に言語道断の窮状に陥ったものだ。」と、悲観的な結論を述べます。
西洋人(強者) ⇒ 開化 ⇒ 日本人(弱者) ⇒ 弱者が強者の習慣に従う(文化を取り入れる)
皮相・上滑りの開化の進歩 ⇒ 大きな活力が必要 ⇒ 神経衰弱
漱石は、この日本の外発的な開化に対し、対処法の名案は何もないしながらも、「ただできるだけ神経衰弱に罹らない程度において、内発的に変化して行くが好かろうというような体裁の好いことを言うよりほかに仕方がない。」と述べています。
青空文庫 『現代日本の開化』 夏目漱石
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『現代日本の開化』【時代背景と解説】
「文明開化」という言葉は、福沢諭吉が『西洋事情』において初めて使用したといわれています。「開化」とは新しい知識・文化を取り入れて変化していくことで、まさに明治時代の日本は、この言葉そのものと言っても良いでしょう。
明治新政府は、殖産興業や富国強兵といった政策をとり、西洋先進諸国の制度、文物、産業、技術の導入を積極的に推進していきます。それは当時の西洋先進諸国がアジア諸国を植民地支配し、莫大な富を吸い上げていたという現実に対する危機感からでした。
夏目漱石もまた、明治33(1900)年、文部省から英語教育法研究のため、イギリス留学を命じられます。留学期間は2年半に及びますが、この頃の生活を『文学論』の序で次のように語っています。
倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあつて狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あはれなる生活を営みたり。
(『文学論』序 夏目漱石)
青空文庫 『文学論』序 夏目漱石
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漱石はイギリス留学を通して、西洋列強国と自国との違いを身をもって知ることになります。こうした経験から『現代日本の開化』という講演に至るわけですが、要するに「開化」というものは、人間の活力上、自然に起こうる現象と漱石は捉えています。
けれどもあくまでそれは「内発的」であるべきとし、「外発的」に、文明開化の名の下、西洋列強国をモデルに何でもかんでも模倣するのは良くないと、強く主張しています。
そして「開化」のおかげで、世の中は便利になったものの人間の幸福度は変わっていないと語ります。その理由について、人間は便利さと引き換えに、激しい競争を手に入れ、このような社会では、神経衰弱に陥るしかないと危惧しています。
更に漱石は、日本が「一等国になった」という高慢な声(勘違い)を「気楽な見方」と皮肉を込めて語っています。この高慢さ(勘違い)が、後の日本を敗戦国にする訳ですから、漱石の先見性は凄いとし言いようがありません。
あとがき【『現代日本の開化』の感想を交えて】
わたしたちの暮らしは日々便利になっています。今では誰もが当たり前のように使用するようになったスマホひとつを例に取っても実感できることでしょう。けれども不思議なことに、そんな便利さも直ぐに不便さに変わり、また新たな便利さを追求していきます。
この便利さを追求する姿こそが、漱石の語るところの人間の正体といっても良いでしょう。言い方を変えると「欲望・欲求」とも言えます。この「欲望・欲求」への貪欲さが人類を進化させていきます。
その一方で、人よりも良い暮らしがしたいという「欲望・欲求」が、人間を、激しい競争社会の中へと追い込んでいき、それが「ストレス」となり、やがては「心の病」という厄介極まりない病気までもたらします。
つまり、夏目漱石の生きた時代と現代の置かれた状況は何も変わっていないのです。何をもって幸福とするかはその人間の尺度で変わりますが、わたし自身は「ストレス」から解放された人生を歩んでみたいものです。可能なことなら・・・。
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