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梶井基次郎『檸檬』【えたいの知れない不吉な塊の正体とは?】

一読三嘆、名著から学ぶ
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はじめに【『檸檬』読んだきっかけ】

 確か『檸檬』を始めて読んだきっかけは、三島由紀夫がこの作品を高く評価していたからです。けれどもその時の正直な感想は「全くもって分からない!」でした。

 わたしの読解力が足りなかったというのもあったでしょうが、何度読んでもその良さが分かりません。ところが、ある病を患ったことで少しずつですが、心に響くようになっていったのです。

 それにしても、この難解な作品が高校の現代文で取り上げられているというのですから驚きです。わたしが始めて読んだのは二十代の中頃でした。それでチンプンカンプンだったのですから、今の高校生の国語力、とにかく恐るべしです。

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梶井基次郎『檸檬』【えたいの知れない不吉な塊の正体とは?】

梶井基次郎(かじいもとじろう)とは?

 梶井基次郎は大正末期から昭和初期にかけて活躍した日本の小説家です。(1901‐1932)
大阪市に生まれ、第三高等学校を経て東京帝国大学英文科に入学しますが、結核を病んで中退してしまいます。

 在学中の大正14 (1925)年、同人雑誌『青空』を創刊し、この年に『檸檬(れもん)』『城のある町にて』『泥濘(でいねい)』『路上』『(とち)の花』など、後に梶井の代表作とされる作品を次々と発表しましたが、文壇からは黙殺されました。

 大正15(1926)年には、病状が悪化したため伊豆の湯ヶ島温泉で療養します。この頃、川端康成の『伊豆の踊子』の刊行の校正を手伝います。

川端康成『伊豆の踊子』【世界的文豪もやっていた自分探し!】

 昭和3(1928)年、散文詩『桜の樹の下には』を発表し、ようやく文壇の注目を集めるようになりましたが、病は次第に重くなっていきます。

 療養に努めながらも執筆を続けていた梶井でしたが、昭和7(1932)年『のんきな患者』を発表後、31歳という若さで永眠します。その透徹した作風は死後ますます高く評価され、昭和9(1934)年には『梶井基次郎全集』が出版されました。


  梶井基次郎

小説『檸檬(れもん)』について

 『檸檬』は、梶井基次郎の短編小説で、梶井の処女作でもあり代表作です。
大正14(1925)年1月発行の同人雑誌『青空』創刊号の巻頭に掲載されます。

 単行本は、梶井の友人である三好達治らの奔走により、梶井の亡くなる1年ほど前の昭和6年(1931)年5月15日に武蔵野書院より刊行されます。これが梶井の生涯で唯一の出版本となりました。

 『檸檬』の原型となっているのは、大正13(1924)年に書かれた習作『瀬山の話』の中の断章「瀬山ナレーション」にある挿話「檸檬」です。

 『瀬山の話』は、梶井が京都に住んでいた頃の、自身の内面を総決算する作品として試みられたものでしたが、結末がうまくいかず未完成となります。梶井はその中の一つの挿話「檸檬」を独立させて『檸檬』に仕立て直しました。

『檸檬』あらすじ(ネタバレ注意!)

 “ えたいの知れない不吉な塊 ” が、主人公の「私」の心を始終(おさ)えつけていました。
それは肺尖(はいせん)カタルや神経衰弱、または借金のせいばかりではなく、いけないのはその不吉な塊だと「私」は考えます。

 以前は夢中になっていた美しい音楽や、美しい詩の一節にも我慢がなりません。その頃の「私」は、“ みすぼらしくて美しいものに ” 強く惹かれていました。壊れかかった街とかどこか親しみのある裏通りにです。

 「私」は、そんな路地を歩きながら、(遠く離れた都市を訪れている)といった空想を楽しみました。できることなら(京都から逃げ出して知らない街に行きたい)という願望を抱いていたからです。

 「私」にはお金が全然ありません。―――それでも自分を慰めるためには “ 贅沢なもの、美しいもの ” が必要でした。その頃の「私」は、花火の束、おはじきや南京玉(ガラス製の小さい玉)の色彩に心をときめかせていたのです。

 生活が蝕まれていなかった以前の「私」には、好きでよく通っていた店がありました。文房具店の丸善です。そこには西洋の雑貨が並べられていて、そんなものを見るのに小一時間も費やしていたのです。

 けれども、借金取りに追われ、友人の下宿を転々とする毎日を送っている「私」にとっては、もはやそこは重苦しい場所に変化をしています。

 ある朝、「私」は京都の街から街へと、裏通りを当てもなく、さまよい歩いていました。そして、前々から気に入っていた果物屋の前で足を止めます。美しく積まれた果物や野菜が「私」の心を惹きつけたのです。

 その日、果物屋には、珍しくレモンが並べられていました。レモンが好きな「私」は思わずそのうちの一つを手に取って購入します。それまで始終「私」の心を圧えつけていた不吉な塊が、握った瞬間からいくらか(ゆる)んでいきました。

 「私」は、非常に幸福でした。憂鬱さも消えていきます。そのレモンは肺病で常に熱のある「私」にとって、掌から身体に浸み透ってゆくような冷たさで、とても快いものでした。

 「私」は、何度も何度もその果実を鼻に持っていき嗅いでみます。胸一杯に(にお)やかな空気を吸い込むと、身体に元気が目覚めてくるようでした。そんなことをしながら街を歩いていると、いつの間にか丸善の前に立っています。

 なんだか、あんなに避けていた丸善も、その時の「私」は簡単に入れるような気がしました。そこで、久しぶりに丸善に立ち寄ろうと考えます。ところが、どうしたことでしょうか。またもや憂鬱が立ちこめてきます。

 棚から本を出すのにも力が要るのです。それでも「私」は、次から次へと画集を取り出して見るのですが、憂鬱な気持ちは晴れません。以前の位置に戻すことのできない画集は、積み上げられたままです。

 「私」は、その画集をぼんやりと眺めながら、(たもと)の中のレモンを思い出しました。そして積み上げられたままの画集に他の本も足して、奇怪で幻想的な本の城を築き上げたのです。

 その頂きに―――そっとレモンを置いてみます。
すると「私」に、また先ほどの軽やかな昂奮が戻ってきました。見わたすと、そのレモンの色彩は、そこだけがどこか緊張しているようです。

 「私」は、それをそのままにして、なに喰くわぬ顔をして外へ出ていくといった奇妙なアイデアを思いつきます。そして、レモンを爆弾に見立てた「私」は、すたすたと店から出て行きます。

 「私」は、京極(新京極通)を下って行きました。
―――木っ端微塵に大爆発する丸善を、愉快に想像しながら。

青空文庫 『檸檬』 梶井基次郎
https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/424_19826.html


(『瀬山の話』のなかの「檸檬」)と『檸檬』、冒頭部分の比較

(『瀬山の話』のなかの「檸檬」)

恐ろしいことには私の心のなかの得体の知れない嫌厭といおうか、焦燥といおうか、不吉な塊が重くるしく私を圧していて、私にはもうどんな美しい音楽も美しい詩の一節も辛抱出来ないのが其頃の有様だった。

『檸檬』

えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧さえつけていた。焦燥と云おうか、嫌悪と云おうか酒を飲んだあとに宿酔があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当する時期がやってくる。それが来たのだ。

これはちょっといけなかった。結果した肺尖カタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くような借金がいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。

 二つの “ 檸檬 ” を比較すると「えたいの知れない不吉な塊」が(『瀬山の話』のなかの「檸檬」)では、心の内部に存在しているのに対し、『檸檬』では、心の外部に存在し、「私の心」以上の力として描かれている点です。

 つまり、梶井は当初「不吉な塊」が、病気や退廃的な生活が生み出したものと考えていたように思います。ところが修正する時点で、何か他の外部的な要素からのものだと、気が付いたのでしょう。

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あとがき【『檸檬』の感想を交えて】

 ある病を患っていたと、冒頭部分で書きました。そのとき、わたしの精神状態がこのように変化していったのを覚えています。

(どうして自分だけがこんなに不幸なのか。自分が何か悪いことでもしたのか。)
        
(いや、悪いのは全てこの社会のせいだ。自分以外の人間もみんな不幸になれ。)



 人間が足踏み、または後退しているときでも、周囲の人間は構わず、先へと進んで行ってしまいます。社会の流れとはそんなものです。けれども社会から取り残された人間はどんな気持ちになるでしょう。そうです。―――「不安」に駆られ、押し潰されそうになります。

 『檸檬』の主人公の「私」は、自分自身と同じく社会から取り残されていく“ みすぼらしくて美しいものに ” 強く惹かれています。

 けれども以前の「私」が惹かれていた“ 贅沢なもの、美しいもの ” すなわち「レモン」を手にしたとき、かつての自分を取り戻したかのような錯覚を起こします。ところが、丸善に入った瞬間、現実へと連れ戻されるのです。

 あくまでも個人的な解釈ですが、「えたいの知れない不吉な塊」とは、「私」を取り巻く人間や社会全体のことを指しているような気がします。そして、例え空想だとしても、爆弾を爆発させて抵抗を試みているのです。

 つまり、病中時のわたしの精神状態「自分以外の人間もみんな不幸になれ!」です。

 置かれている状況によって景色の見え方とは変わるものです。
例え自分が今光の中にいて幸福だとしても、同時に影の中で苦しんでいる人間もいるのです。『檸檬』という作品は、わたしにいつもそのことを思い出させてくれます。

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