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川端康成『伊豆の踊子』あらすじ【文豪もやっていた自分探し!】

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はじめに【『自分探し』という言葉について】

 『自分探し』という言葉は、単なる現実逃避に過ぎないと否定する人がいます。果たして本当にそうでしょうか?

 思い描いたとおり、順風満帆(じゅんぷうまんぱん)に人生を歩んでいる人ならともかく、大多数の人は、現状に対する不満や悩みを持っていたり、将来に不安を感じたりしています。

 わたし自身、自分を見失いかけていたとき、それは『自分探し』と言えるものか分かりませんが、何度か旅を通して、答えを見つけ出そうとしました。

 思えば現実逃避だったのかも知れません。

 けれども、ときには環境を変えたり、普段は接することのできない人と交流することによって、実際に視界が開けたり、違う角度から物事を考えられるようになったりします。否定したい人にはさせとけばいいのです。

 人生とは九十九(つづら)(おり)の坂道のようなものです。その折り目折り目で、休息をかねた『自分探し』をするのも悪くないでしょう。

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川端康成『伊豆の踊子』あらすじ【文豪もやっていた自分探し!】

川端康成とは?

 川端(かわばた)(やす)(なり)は、大正から昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学の頂点に立つ作家の一人です。(1899~1972)

 明治32(1899)年、大阪市北区で医師を務める川端栄吉の長男として誕生しました。幼い頃に両親を亡くし、母方の祖父母の手によって育てられます。成績も優秀であった川端は早くから作家を志します。

 第一高等学校(旧制一高)から東京帝国大学国文学科(東京大学文学部)へと進み、創作活動を始めます。またこの頃、菊池寛に認められ、多くの作家の知己を得ます。

    菊池寛

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 帝大卒業後は、新感覚派作家として独自の文学を貫き、流行作家へと階段を駆け上っていきます。やがてその文学性は国際的にも認められるようになり、昭和43(1968)年には、ノーベル文学賞を受賞しました。

 そんな栄光溢れる川端の作家人生でしたが、思いがけない形で突如終わりを迎えます。昭和47(1972)年4月16日、逗子の仕事部屋でガス自殺をしてしまいます。なお、遺書はありませんでした。(享年・72歳)

 著書には『伊豆の踊子』『雪国』『古都』『山の音』『眠れる美女』など、日本文学史に燦然(さんぜん)と輝く名作が多数あり、その輝きは現代でも失われていません。

   川端康成

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『伊豆の踊子』(いずのおどりこ)について

 『伊豆の踊子』は、川端康成の短編小説で、初期の代表作とも言えます。

 大正15/昭和元(1926)年、『文芸時代』1月号に発表され、単行本は翌年の昭和2(1927)年、金星堂より刊行されます。また、刊行に際しての校正作業は梶井基次郎が行ったことでも知られています。

   梶井基次郎

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作品の背景【一校時代の伊豆一人旅】

 川端康成が伊豆に旅したのは、一高入学の翌年(よくとし)、大正7(1918)年、秋のことでした。寮の仲間の誰にも告げず、10月30日から11月7日まで、約8日間の一人旅でした。


一高受験の頃の川端康成

 旅に出た動機について川端は、「湯ヶ島での思ひ出」(『少年』第14章の中)の中でこう書いています。

 「私は高等学校の寮生活が、一、二年の間はひどく嫌だつた。中学五年の時の寄宿舎と勝手が違つたからである。そして、私の幼年時代が残した精神の病患ばかりが気になつて、自分を憐れむ念と自分を(いと)ふ念とに堪へられなかつた。それで伊豆へ行つた。」

 旅は修善寺から下田街道を湯ヶ島へと辿るもので、そこで川端は、岡田文太夫(松沢要)こと、時田かほる(踊子の兄の本名)率いる旅芸人一行と道連れになり、幼い踊子・加藤たみ(松沢たみという説もある)と、出会います。



 帰路、下田港からの帰京の賀茂丸では、蔵前高工(現・東京工大)の受験生・後藤孟と乗り合わせます。踊子の兄とは旅の後も文通があり、年賀状も現存しています。川端は、この旅から七年後、『伊豆の踊子』を書き下ろしています。

 この作品について川端は、「すべて書いた通りであった。事実そのままで虚構はない。あるとすれば省略だけである。」と、述べています。

『伊豆の踊子』あらすじ(ネタバレ注意)

 一高生徒である主人公の「私」は、孤児として育ったせいか、自分の性格が歪んでいると、ひとり思い悩んでいました。そんな憂慮(ゆうりょ)に耐えかねたのか、伊豆への旅を実行します。

 湯ヶ島への道中のことです。「私」は、旅芸人一座の一行に出会います。一座には、古風に結った髪に卵形の凛々(りり)しい、小さい顔の初々しい、まだ乙女の踊り子がいました。

 「私」は、そんな踊り子に惹かれてしまいます。そして、天城峠のトンネルを抜け、湯ヶ野が見えた頃、「私」は旅芸人一座の男に「下田まで一緒に旅をしたい。」と、勇気を振り絞って打ち明けます。


     旧天城トンネル

 旅芸人一座のひとり、四十女(しじゅうおんな)もそれを、「旅は道連れ世は情け、わたし達のようなつまらないものでも、退屈しのぎにはなります。」と、快諾します。この時代、芸人という職業は一般的に世間から蔑視(べっし)されていました。

 湯ヶ野で「私」は、旅芸人一座とは違う宿に泊まります。その晩、踊り子たちは料理屋の宴席に呼ばれます。「私」は、踊り子が男の客に汚されているのではないかと心配になり、夜も眠れませんでした。

 翌朝、男が宿に訪ねて来て、連れ立って湯に行きます。そのとき、川向うの湯殿から「私」に向って、裸身はだか()のままで無邪気にも大きく手をふる、女性の姿が見えました。それが踊り子でした。



 「私」の悩みはいっぺんに吹き飛び、「子供なんだ」と、自然に喜びで笑いがこぼれてしまいます。と、同時に、踊り子の持つ、純粋な美しさにすっかりと魅了されてしまいます。

 ある日、男は「私」を散歩に誘います。そこで男は身の上話をし、自分の名が栄吉、上の娘が女房の千代子で、四十女は女房の母親で、踊り子の名は薫といい、自分の実の妹だと教えてくれました。もうひとりの百合子という女性は雇いの芸人なのだと言います。

 素性の違いを気にすることなく、生身の人間としての交流をする「私」に、旅芸人の一行は心を許し、また「私」も、旅芸人たちの優しさと人情味、そして踊り子の無垢で純情な心に、どこか孤児根性の悩みなど吹き飛んでしまいそうな気がしました。

 下田に着くと「私」は、道中に娘たちと約束をしていた映画に連れて行こうとしますが、踊り子ひとりだけしか都合がつきません。踊り子はひとりでも行きたいと懇願しますが、四十女は決して許してくれませんでした。



 次の日に東京へ帰らなければならない「私」は、結局ひとりで映画を観に行きます。暗い町で遠くから微かに踊子の叩く太鼓の音が聞こえてくるようで、得も言えぬ心寂しさに襲われ、涙をこぼしてしまいます。

 そして別れの朝、「私」が船乗り場へ近付くと、そこには踊り子がひとりでうずくまっていました。踊り子はただ「私」の言葉に頷くだけです。船に乗り込もうと振り返ったとき、踊り子は「さよなら」と、言いかけますが、もう一度頷いて見せただけでした。

 船がずっと遠ざかると、踊り子は白いものを振り始めます。「私」は、伊豆半島の南端が後方に消えてゆくまで、一心に沖の大島を眺めていました。



 「私」の目からは、また自然に涙が溢れてきます。船室の横にいた少年が「私」に、好意を持って優しく接してくれます。もはや泣くのを見られても平気でした。

 「私」の頭は「澄んだ水」のようになり、船の上でただただ涙を流し、「その後には何も残らないような甘い快さ」を感じるのでした。

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あとがき【『伊豆の踊子』の感想も交えて】

 第一高等学校の生徒、つまり川端康成はエリート層です。しかし、そんなエリート層の中でもまた階層があります。孤児という境遇を持つ川端にとって、卑屈になっていくのは当然だったと思います。

 そんな川端も、世間的に軽蔑されていた職業である旅芸人との出逢いを通して、孤児根性の悩みなど、ちっぽけな悩みなのだと思い知ることができました。

 現代の世の中でも、資産の有無、学歴、社会的地位、容姿等々、未だに人間を順位付けして見ているような気がします。心の奥底で少しでもそんなことを思っている人間が、差別どうこうと叫んでいるのなら、ちゃんちゃら可笑しいです。

 少し言葉が過ぎましたが、不安や悩みの根底には、このような差別意識があるような気がします。『自分探し』に話を戻しますと、すなわち『自分探し』とは、同時に、自分の置かれている状況を知ることです。

 老子も「他者を知ることは知恵。自分を知ることは悟り。」と、言っています。

 ときには、凝り固まった考えをほぐす意味で『自分探し』をするのも良いと思います。例え見つからなくても、知ることができるのですから。ーーー川端康成のように。

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