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菊池寛『恩を返す話』あらすじと解説【人間関係が生み出す苦悩!】

一読三嘆、名著から学ぶ
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はじめに【恩恵を受けたときの負債感情】

 以前読んだ本に「日本人は他国の人よりも “ 恩恵 ” を受けたとき、肯定的感情よりも負債感情のほうが大きく働く」と書いてあって、(なるほど!)と、思ったことがありました。肯定的感情とは「感謝」の気持ちことで負債感情とは「負い目」を感じることです。

 確かにちょっとした頂き物に対しても(それ以上のお返しを!)と考える人は多いでしょう。頂き物ならまだしもそれが大きな恩恵となると、やはり「負い目」を感じ、少しでも早く解消しなければと考える筈です。

 ちなみに「ギブアンドテイク(Give and Take)」という言葉がありますが、日本語と英語では多少ニュアンスが異なるようです。英語表現のほうは「見返りを求めない」のに対し、日本語表現のほうは、どこか損得勘定が働いているようなイメージがあります。

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菊池寛『恩を返す話』あらすじと解説【人間関係が生み出す苦悩!】

『恩を返す話』は短編集『藤十郎の恋・恩讐の彼方に』に収められています。

菊池寛(きくちかん)とは?

 明治から昭和初期にかけて活躍した小説家、劇作家です。菊池(かん)。(1888~1948)
菊池寛(本名・菊池(ひろし))は明治21(1888)年12月26日、香川県高松市に生まれます。明治43(1910)年に名門、第一高等学校文科に入学します。

 第一高等学校の同級に芥川龍之介、久米正雄、山本有三らがいましたが、諸事情により退学してしまいます。結局、紆余曲折の末に京都帝国大学文学部に入学し、在学中に一校時代の友人、芥川らの同人誌『新思潮』に参加します。

   芥川龍之介

 大正5(1916)年、京都大学を卒業後、「時事新報」の記者を勤めながら創作活動を始め、『(ただ)(なお)(きょう)行状記』『恩讐の彼方に』『藤十郎の恋』等の短編小説を発表します。大正9(1920)年、新聞小説『真珠夫人』が評判となり、作家としての地位を確立していきます。

 大正12(1923)年、『文藝春秋』を創刊し、出版社の経営をする他にも文芸家協会会長等を務めます。昭和10(1935)年、新人作家を顕彰(けんしょう)する「芥川龍之介賞」「直木三十五賞」を設立します。

 しかし、終戦後の昭和22(1947)年、菊池寛は、GHQから公職追放の指令が下されます。日本の「侵略戦争」に『文藝春秋』が指導的立場をとったというのが理由でした。その翌年の昭和23(1948)年3月6日、狭心症を起こして急死してしまいます。(没年齢・59歳)

    菊池寛

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短編小説『恩を返す話』について

『恩を返す話』は大正6(1917)年3月、『大学評論』に掲載され、翌大正7(1918)年8月、菊池寛最初の単行本『恩を返す話』の書名になった作品です。

 単行本には「恩人なる亡きN夫人にささぐ」という献辞(けんじ)があり、これは学費などの財政的な援助をしてくれた友人・成瀬正一(フランス文学者)の母峰子への思いが込められています。

※献辞(けんじ) 著作物を献呈することを示す言葉。

 ちなみに新潮文庫の解説には次のように書かれています。

いわゆる「大恩は謝せず」の思想である。恐らく、菊池氏が学生時代の恩人に対する心持から生れた作品であろう。恩返しを考えるということは、恩人の不幸を待っている気持だと云う皮肉な思い付きである。が、菊池氏はかつて筆者に、「自分は受けた恩は悉く返した」と、語ったことがあるから、菊池氏は、その意に反して、恩人の不幸を見なければならなかったのであろう。

※大恩は謝せず(中国語:大恩不言謝)
 直訳すると「大きな恩恵に対しては感謝を述べない」、意訳すると「ありがたくて感謝の言葉も見つからない」となり、“ 謝謝 ” や “ 非常感謝 ” と言うだけでは感謝の気持ちを言い尽くせないときに使われる。「大きな恩義を受けたら感謝しなくてもよい」という意味ではない。

『恩を返す話』あらすじ(ネタバレ注意!)

 寛永十四(1637)年の十月、島原で切支丹(きりしたん)宗徒が蜂起(ほうき)をしました。俗に言う「島原の乱」です。肥後熊本の細川藩も九州諸藩とともに討伐軍に加わりますが、この中に神山(じん)兵衛(べえ)という若武者がいました。

 切支丹宗徒の立てこもる原城は要害無双の地で、討伐軍は相当の苦戦を強いられます。翌寛永十五年の元朝、細川勢に総攻めの命令が下りました。このとき甚兵衛は、南蛮風の服を着た一人の壮漢(そうかん)と戦います。男は胸に十字架を吊るしていました。

※壮漢(そうかん) 元気盛んな男。

 朝からの戦いで疲れ果てていた甚兵衛は、男の十字架の光に眼が(くら)んでしまいます。その瞬間、頭上に強い一撃を感じます。甚兵衛はそのまま、意識を失ってしまいました。―――気がつくと、壮漢は斬られて倒れています。

 そして「(そう)八郎(はちろう)、助太刀を致した。」という声が耳に入ってきました。その声の主は、同藩の佐原惣八郎だったのです。惣八郎は甚兵衛に「良き(かぶと)でござるな。」と言い、壮漢から十字架を外して、自分の物としたのでした。

 甚兵衛と惣八郎は兵法の同門でした。甚兵衛はつんと澄ました惣八郎のことが何となく嫌いでした。しかも三年前に「産土(うぶすな)(がみ)の奉納仕合」で戦い、そのとき甚兵衛は敗れています。それからの甚兵衛は惣八郎に勝つために、身を砕いて稽古をしてきたのでした。

 甚兵衛はそんな相手に着せられた恩を悔やみます。しかも惣八郎はこの「恩」の一件を陣中の誰にも言わず、二重に恩を着たような気持ちになり、心苦しく思ったのでした。そこで甚兵衛はこのように考えます。―――早く恩返しをしようと・・・。

 幸いにして(いくさ)の最中です。恩を返す機会が幾度も訪れると甚兵衛は考えました。それからの甚兵衛は、功名のためでも主君のためでもなく、一途に恩を返すことだけを目的として戦場に挑んだのでした。けれども、一度もそんな機会は訪れず、原城は陥落(かんらく)してしまったのです。

          原城

 太平の世になってからも、甚兵衛は、戦中と同じように報恩の機会を狙いました。けれども二、三年経っても惣八郎は無事息災です。そこで甚兵衛は、(自分で惣八郎を危難に(おとしい)れる機会を作ろうか)と考えましたが実行に移すことはありませんでした。

 次に甚兵衛は、(恩を受けたという事実を忘れようか)とも考えます。けれども「島原の乱」が家中で話題になることが多くそれも徒労に終わりました。しかも惣八郎は、甚兵衛を救ったときに奪った十字架を鋳直(いなお)したという唐獅子の金物を、(はい)(とう)の目貫に付けています。甚兵衛はそれを見るたびに赤面するのでした。

 その次に甚兵衛は、嫌いな惣八郎と昵懇(じっこん)になることで「恩」の気持ちを軽減させようと考えます。ある機会に甚兵衛は家伝の菊一文字の短刀を贈ろうとしました。けれども惣八郎はそれを拒絶します。甚兵衛は思います。(惣八郎は、故意に恩を返させまいとするのだ)と・・・。

 寛文三(1663)年の春、「島原の乱」からは二十六年、甚兵衛は四十六歳になっていました。その間、報恩の機会は訪れなかったのです。甚兵衛は半生の間、一心にそのことばかり考えていました。この頃は健康に不安を感じ、「報恩」の一義が甚兵衛の心を悩ませます。

 ところがそんな甚兵衛に絶好の機会が訪れます。―――惣八郎が「上意討ち」となり、その「仕手」として甚兵衛が選ばれたのでした。つまり惣八郎が何らかの罪を犯し、甚兵衛が討手として差し向けられることになったのです。

 甚兵衛は(長く自分を苦しめた圧迫を(なげう)つことができる)と考え、戦略を練ります。「恩を返した」ことを惣八郎に認識させなければならなかったからです。そこで甚兵衛は惣八郎に書状を送ることにしました。その内容は「国遠を勧める」というものです。

※国遠(こくえん) 遠国に出奔すること。

 けれども惣八郎はそれに従わず、甚兵衛に介錯を頼み、見事に切腹を果たしたのでした。甚兵衛は(最後の報恩の機会を踏みにじられた)と思います。また殿から五十石の加増があったことで、惣八郎から受けた新しい恩として死ぬまで苦悶の種としたのでした。

―以下原文通り―
その後、享保(きょうほう)の頃になって、天草陣惣八覚書(おぼえがき)という写本が、細川家の人々に読まれた。そのうちの一節に、「今日(はか)らずも甚兵衛の危急を助け申候。されど戦場の敵は私の敵に非ざれば、恩を施せしなど夢にも思うべきに非ず。右後日の為に(しる)し置候事」とあった。

青空文庫 『恩を返す話』 菊池寛
https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/495_19923.html

『恩を返す話』【解説と個人的な解釈】

 細川藩の神山甚兵衛と佐原惣八郎は兵法の同門です。かつて甚兵衛は、「奉納仕合」で惣八郎に敗れています。しかも甚兵衛はつんと澄ました惣八郎のことを快くは思っていませんでした。そんな甚兵衛が島原の乱鎮圧で、惣八郎に助太刀されるのですからたまったものではありません。

 恩を受けることを良しとしない甚兵衛は、恩返しによって不快感を除こうとしますが、機会は訪れないまま二六年間が過ぎてしまいます。この間甚兵衛は、幾度も恩を返そうとして失敗します。そして失敗を重ねる程に心理的に追い込まれていきます。

 最終的に「上意打ち」の仕手を命じられるといった絶好の機会(自分の命を犠牲にして惣八郎を逃がす)を得ます。けれども惣八郎が自裁したことでこの機会を逃す羽目となり、その上に加増という新たな恩まで着せられてしまいます。

 この恩により甚兵衛には苦悶(くもん)だけが残されることになるのですが、物語は後代、惣八郎の記した「覚書」の「恩を施せしなど夢にも思ふべきに非ず」という言葉で閉じられます。つまりは「恩」による心の葛藤を抱いていたのは「恩」を受けた甚兵衛一人だけではなく、「恩」を施した惣八郎にもあったのです。

「島原の乱」(しまばらのらん)とは?

 寛永14(1637)年から翌15年にかけて肥前国島原地方と、肥後国天草島のキリシタン信徒が起した一揆のことです。(別名:天草の乱)

 元和2(1616)年、幕府は最初の鎖国令(二港制限令)を出して、キリスト教の禁止を厳格に示します。そんな鎖国令が構築されていく中、寛永14年10月25日(1637年12月11日)に「島原の乱」が起きます。

     天草四郎

 天草四郎時貞(益田時貞)を首領に3万8000人の農民が島原の原城にたてこもり挙兵します。しかし幕府は、約12万の征討軍を動員し、翌2月末に陥落(かんらく)させ、参加者を皆殺しにさせました。

 「島原の乱」は、キリスト教を拠り所にしていた農民が多数参加していたといった点で、幕府に衝撃を与えます。乱以降、幕府はキリスト教徒(隠れキリシタン)の発見と棄教を積極的に推進していくようになっていきます。

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あとがき【『恩を返す話』の感想を交えて】

 物語は佐原惣八郎の自戒の覚書、「恩を施したなどと夢にも思わず」で終わるわけですが、惣八郎自身、完全にそれを守っていたかというと、それはクエスチョンです。

 そもそも本気で守る気なら、奪った十字架をわざわざ神山甚兵衛の目に付く、佩刀の目貫などにはしません。どこかで自分の武勇を誇示したい気持ちがあったのでしょう。甚兵衛が「恩返し」に固執していくのもそんな惣八郎の「虫の好かぬ」ところがあったからです。

 とは言え、甚兵衛が一言「恩返しがしたい」、惣八郎が一言「恩返し無用」といった言葉を相手に投げかけていたらどうなっていたでしょう。お互い、胸のつかえが幾分解消されたかも知れません。

 問題は至って単純で、根本にあるのは人間同士の「好き嫌い」、そして人間関係の「ねじれ」だったのです。これは現代に生きるわたしたちにも言えることです。

 封建制度の中での武士の意地の張り合いを現代に置き換えるなら「変なプライド」ってところでしょうか。いずれにしても負債感情は持ちたくないものです。

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