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岡本かの子『川』あらすじと解説【川への絶えざる憧れ!】

一読三嘆、名著から学ぶ
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はじめに【日本人の河川観について】

 わたしたち日本人は(いにしえ)より、「河川」と密接に結びついた生活を営んできました。この結びつきはやがて日本人固有の河川観を育み、文学や絵画、能や歌舞伎など、様々な芸術の分野にて多彩に表現されていきます。

 例えば、日本最古の歌集『万葉集』に、「明日(あす)香川(かがわ)しがらみ渡し()かませば 流るる水ものどにかあらまし」という和歌があるように、「河川」は、歌枕(うたまくら)(歌を詠んだ場所を指すもの)や歌詞(うたことば)として詠まれてきました。

 鴨長明は『方丈記』の冒頭で、人の()の移ろいやすさを川の流れに例えて表現しました。松尾芭蕉は『奥の細道』に、「五月雨(さみだれ)をあつめて早し最上川」という有名な句を残しています。そんな日本人の河川観は近代文学にも脈々と流れ続けています。

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岡本かの子『川』あらすじと解説【川への絶えざる憧れ!】

岡本かの子とは?

 大正、昭和期にかけて活躍した小説家・歌人・仏教研究家です。(1889~1939)
岡本かの子(本名:岡本カノ、旧姓:大貫カノ)は、明治22(1889)年3月1日、東京に生まれます。生家は代々幕府や諸藩の御用達を(なりわい)としていた豪商の大貫家です。

 跡見女学校入学の頃より、次兄・大貫(おおぬき)(しょう)(せん)の影響を受け、『文章世界』『読売新聞』文芸欄などに短歌や詩を投稿するようになります。同女学校卒業後は与謝野(よさの)晶子(あきこ)に師事し、歌人としての道を歩み始めます。

   与謝野晶子

 明治43(1910)年、画家の岡本一平と結婚し一男を儲けますが、実家の没落や夫婦間の対立などで悩み続け、以後は宗教に救いを求め、仏教研究に没頭するようになっていきます。

 それから10年ほど仏教思想家、歌人として活躍しますが、昭和11(1936)年、芥川龍之介をモデルにした小説『鶴は病みき』を川端康成の推薦で『文学界』に発表します。

   川端康成

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 その後、発表した『母子叙情(じょじょう)』は大きな反響をよび、続けて『花は(つよ)し』『過去世』『金魚(りょう)(らん)』『老妓抄(ろうぎしょう)』『()(れい)』など次々と名作を発表していきます。しかし、昭和13(1938)年12月、脳充血に倒れ、翌年2月18日に亡くなってしまいます。(没年齢・49歳)

 かの子が小説に専心したのは晩年の数年間だけで、死後、『河明り』『生々流転』『女体開顕』などの遺稿が発表されます。ちなみに洋画家・岡本太郎は、岡本一平、岡本かの子の一子です。

   岡本かの子

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短編小説『川』について

 短編小説『川』は、昭和14(1939)年7月5日、女性誌『新女苑』(昭和12年1月~34年7月)に発表されます。昭和49(1974)年6月30日に冬樹社より発行された『岡本かの子全集・第二巻』に収録されます。

『川』あらすじ(ネタバレ注意!)

 「かの女」の耳のほとりに一筋の川が流れています。その流れは、昼は少し眠たげに、どこか疲れて甘えているようです。水は鉛色に澄んでいます。川への絶えざる憧れ、思慕(しぼ)追慕(ついぼ)が「かの女」の耳のほとりへ超現実の川の流れを絶えず一筋流しています。

※思慕(しぼ) 思い慕うこと。恋しく思うこと。
※追慕(ついぼ) 死んだ人、遠く去った人を思い出して慕うこと。

―――「かの女」は美しい河の(ほとり)で乙女になりました。
ある初夏の夕暮れ、乙女の「かの女」は、河原に咲き乱れた()薔薇(ばら)の床へと身を投げました。そして(自分の処女身を()いて!)と、()(しん)に訴えます。

 乙女の「かの女」は性慾を感じ始めていました。「かの女」は性慾を感じ始めたことで、(かえ)って現実世界の男女の性欲的現象に嫌悪を抱き始めていたのです。ですから現実の男子に逢うよりも先に、河神の白刃で(この身の性欲を斬られたい)といった憧れを持っていたのでした。

 「お嬢さま!」そんな「かの女」を呼ぶ声がします。直助の声でした。直助は二十二歳で、地主である「かの女」の家の雇人(やといにん)です。直助が「かの女」のことを(ひそ)かに想っていることを知っていました。けれどもその頃の「かの女」は、人間的な愛情や熱情が(いと)わしかったのです。

 直助は地味な美貌の若者で、西行の山家集や三木露風(ろふう)の詩集を持っていました。「かの女」は直助に、「この頃ギリシャ神話を読んでいるのよ。」と言い、その中に書かれている河神について話してから、「お前もお読み」と、ギリシャ神話の本を貸し与えたのでした。

 その頃の「かの女」は、食欲がはかばかしくなく、滋養を()らないためか視力が弱ってきていました。そんな「かの女」を見かねた両親は、「直助に(うま)い川魚でも探させろ。」と命じます。この時、命令を聞いて縁側に(ひざまず)いた直助は、異様な笑いを浮かべました。

 直助は()()()げて、川上、川下へと、川魚の買い出しに出かけます。買ってきた魚は直助が自ら調理をしました。けれども「かの女」は、命令されたときの直助の異様な眼の光を思い出し、「いやだと言うのに、生臭いお魚なんかは。」と言って拒絶しました。

 けれども直助の執拗(しつよう)哀願(あいがん)に負けた「かの女」は、渋々ながら食すことにします。するとその川魚料理は、「かの女」の舌の偏執(へんしゅう)の扉を開いたのでした。生醤油(きじょうゆ)の焦げた匂いが香ばしく、美味しく食べられたのです。

※哀願(あいがん) 人の同情心にうったえて物事を頼み願うこと。
※偏執(へんしゅう) 偏見を固執して他人の意見を受けつけないこと。偏屈。片意地。へんしつ。

 「どうして、こんなお料理知ってんの。」と聞くと直助は、「川の近くに育ったものは、必要に応じてなにかと川から教わるものです。」と答えました。「かの女」は、「べつに美味しいとも何とも思わないわ……。」と言いながらも、直助の母親へと反物(たんもの)を一反あげることにしました。

 「かの女」の家に、都からよく遊びに来る、一人の若い画家がいました。装飾的で愛くるしい美しい青年です。まず「かの女」の母親が彼を気に入りました。直助もまたこの客をたちまち贔屓にします。「かの女」が画家と出かけるとき、直助は嬉しそうに笑って見送りました。

 二人がたまに直助を誘っても、直助は、「いや、わたしは晩のご馳走のさかなを探しときましょう。」と強情に拒絶しました。直助のおかげか「かの女」は健康を回復していきます。そして「かの女」は、十八歳で女学校を出ると、その秋、青年画家の妻に貰われて行きました。

 結婚のとき「かの女」の父親は、直助に、「川に仮橋を架けろ。」と命じます。それは、嫁入りの車を通すためでした。直助は毎日仮橋の架設工事の監督に精を出します。結婚の準備で部屋に籠っていた「かの女」でしたが、直助には障子(しょうじ)()しに一度だけ声をかけます。「川はどう?」

 ある朝、直助は思い出したように障子を少し開けて、ギリシャ神話の本を「かの女」に返して行きました。直助が河に()ちて死んだのは、「かの女」が嫁入りしてから半月ばかり後の夜のことでした。土地の人たちは誤って河へ堕ちたと信じていました。「かの女」もそう信じました。

 けれども「かの女」は、二十何年後の昨日、直助が返したギリシャ神話の本の(ページ)から、思いがけなく彼の書いた詩の紙切れを発見したのです。そして、(直助が自分で河へ身を投げて死んだのではないか?)といった疑念(ぎねん)が「かの女」の胸に湧き起ります。

 お嬢さま一度渡れば
 二度とは渡り返して来ない橋。
 私も一度お送り申したら
 二度とは訪ねて行かない、橋
 それを、私はいま架けている。
 いっそ大水でもと、私はおもう
 橋が流れて()くれればいいに
 だが、河の神さまはいう
 橋を流すより、身を流せ。
 なんだ、なんだ。
 川は墓なのか。

 その夜「かの女」は何年かぶりで川の夢を見ます。広い大雪原の中を細い一筋の川が流れていました。けれども近寄って見ると大河です。「彼女」は猟人(かりゅうど)になってその岸を歩いていました。けれどもそれは「かの女」ではなく、直助だったのです。

 「かの女」は朝目覚めて胸の中で言います。(直助よ。お前はとっくに死んでいるのだ。それなのに私の夢に現れて、どこまでお前は川のほとりを歩いて行ったのだ……。何をお前はまだ探しているのだ。)

―以下原文通り―
川は墓でもなかったのか。
川のほとりでのみ(あい)()える男女がある。
かの女の耳のほとりに川が一筋流れている。未だ、嘘をついたことのない白歯の色のさざ波を立てて――かの女は、なおもこの川の意義に探り入らなければならない。

青空文庫 『川』 岡本かの子
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『川』【解説と個人的な解釈】

 物語は、主人公の「かの女」が川のせせらぎを聞きながら、二十何年か前の、自分がまだ乙女だった頃の出来事を回想するといった形式で進行していきます。

 「かの女」の家は地主で、直助という奉公人がいました。直助が「かの女」に好意を持っていることを「かの女」自身気付いていましたが、思春期特有の性への嫌悪感から、そんな直助の想いを好ましく思ってはいませんでした。けれども直助は「かの女」のため、献身的に尽くします。画家の青年が現れたときも笑顔で接しました。

 未だ封建制度の残っていた時代ですから、「かの女」はあくまで奉公先のお嬢様であり、恋心を抱くなんてもってのほかだったでしょう。それは「かの女」も同様です。とは言え、直助の心情は心穏やかではなかった筈です。そんな気持ちを直助は一編の詩に込めます。

 しかし「かの女」に読まれることもなく歳月は過ぎていき、二十何年か後、死の真相が露わになります。タラレバですが、もしも「かの女」が詩を読み、例え恋心を受け入れることができなくても何らかの形で直助に気持ちを伝えていたとしたら結果は変わっていたかも知れません。

 岡本かの子の実家・大貫家は神奈川県橘樹(たちばな)(ぐん)高津村(現・川崎市高津区)の大地主でした。ですから、かの子自身も多摩川の近くで生まれ育ち、幼き頃より川のせせらぎを聞いて育ちます。そして真相は定かではありませんが、かの子の結婚後、川に身投げした青年がいたと言います。

 つまり『川』という作品は岡本かの子自身の物語であり、(ばん)()(死者を(いた)む詩)とも言えるのかも知れません。

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あとがき【『川』の感想を交えて】

 世界中を見渡すと、水資源に乏しく、今日の飲料水にも事欠く国が数多く存在します。その点で日本という国は恵まれた国と言えるでしょう。どんな地域にも「川」があり、わたしたちに清冽(せいれつ)な水を届けてくれます。

 ときには猛威を奮い、牙を()いて襲いかかることもありますが、誰にでも思い入れのある「川」が、一つや二つあると思います。短編小説『川』はタイトルの如く、そんな「川」を舞台に繰り広げられていきます。

 物語の中で、特に印象深かった文章に、「川は墓でもなかったのか」という箇所があります。言うまでもなく、直助の詩の一文「川は墓なのか」に対するアンサーです。

 誰かの「死」に直面すると、人はあれこれと思い悩むものです。ましてや自分に何らかの原因があるのでは?と思っていたら尚更でしょう。そして思い悩んでいるうちは、「死」を受け入れられずに、死者はずっとその人の中で生き続けます。

 二十何年経ても「かの女」の中には直助が生き続けています。そこで思うのですが、「もしかして本当は直助のことが好きだった?」―――ともかくとして、一人の人間を頑ななまでに愛するという行為は羨ましいものですね。

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