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原民喜『夏の花』あらすじと解説【原爆被爆者の生々しい記録!】

一読三嘆、名著から学ぶ
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はじめに【「原爆文学」について】

 広島、長崎への原子爆弾の投下によって生じたさまざまな悲惨な出来事を題材とする文学を「原爆文学」と呼びます。日本で二人目のノーベル文学賞を受賞した大江(おおえ)健三郎(けんざぶろう)は『ヒロシマ・ノート』というルポルタージュを残しました。

 他にも小説では井伏鱒二の『黒い雨』、佐多稲子の『樹影』、福永武彦の『死の島』など数多くありますが、特に被爆体験を持つ作家の作品には心を動かされます。

 その代表として小説では、原民喜の『夏の花』や『廃虚から』、大田洋子の『屍の街』、林京子の『祭りの場』、詩集では峠三吉の『原爆詩集』などがあげられます。その中で今回は原民喜の『夏の花』をご紹介致します。

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原民喜『夏の花』あらすじと解説【原爆被爆者の生々しい記録!】

原民喜(はら たみき)とは?

 原民喜は日本の詩人、小説家です。(1905~1951)明治38(1905)年11月15日、広島県広島市(のぼり)(ちょう)(現・中区幟町)に生まれます。広島高等師範学校付属中学(現・広島大学附属高等学校)を経て、大正13(1924)年、慶應義塾大学文学部予科に進学します。

 卒業後の昭和8(1933)年、永井貞恵と見合い結婚をします。昭和11(1936)年頃から『三田文学』などに短編小説をしきりに発表していきます。昭和19(1944)年9月28日、妻・貞恵が病死します。妻との思い出は後に『忘れがたみ』などの作品を生み出します。

 同年、朝日映画社の脚本嘱託となります。翌昭和20(1945)年1月31日、広島市の兄のもとに疎開します。同年8月6日、広島市に原爆が投下され被災します。このときの恐ろしい体験は『夏の花』『鎮魂歌』などの作品になります。

    原民喜

 昭和21(1946)年4月に上京し、慶應義塾商業・工業学校の嘱託英語講師をしながら『三田文学』の編集に(たずさ)わります。昭和22(1947)年6月、同誌に『夏の花』を発表し、同作品が第1回(みな)上滝(かみたき)太郎(たろう)賞を受賞します。

 その後、『廃墟』『壊滅の序曲』『心願の国』『原民喜詩集』などの作品を世に出しますが、昭和26(1951)年3月13日、西荻窪(おぎくぼ)で鉄道自殺をします。(没年齢・45歳)下宿の机には親族や遠藤周作、山本健吉、佐藤春夫などに宛てた17通の遺書が残されていました。


   遠藤周作        佐藤春夫

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短編小説『夏の花』(なつのはな)について

 『夏の花』は、昭和22(1947)年、『三田文学』6月号に発表されます。続けて発表された『廃墟から』『壊滅の序曲』の2作品とあわせて「夏の花三部作」と称されます。昭和24(1949)年には、単行本『夏の花』が能楽書林から刊行されます。

 原は被爆直後から「原爆被災時のノート」という日記をつけていました。それをもとに広島県佐伯郡八幡村(現在の広島市佐伯区東部)の疎開先で執筆します。ちなみに原題は『原子爆弾』でしたが、GHQの検閲(けんえつ)を考慮して『夏の花』と改められました。

『夏の花』あらすじ(ネタバレ注意!)

 昭和20(1945)年の8月4日、主人公の「私」(原民喜本人)は街に出て、名前は知りませんが、いかにも「夏の花」らしい黄色い花を買い、妻の墓参りへと行きました。原子爆弾に襲われたのは、その翌々日のことだったのです。

 8月6日の朝、突然「私」の頭上に一撃が加えられ、眼が見えなくなりました。けれども(かわや)(便所)にいたため、なんとか一命を拾います。それは酷く(いや)な夢の中の出来事に似ていました。あたりが(おぼろ)に見えてくると、今度は惨劇(さんげき)の舞台の中に立っているような気持になります。

 家は倒壊していないものの、いたるところに隙間ができ、畳や建具が散乱し、柱と(しきい)ばかりが残されていました。すると妹が駆けつけて来て、「眼から血が出ている、早く洗いなさい。」と言い、水道が出ていることを教えてくれました。

 「私」はやっとのことで、衣類を身に着けて、避難道具を探し出しました。その時、隣の製薬会社の倉庫から赤い(ほのお)が見えます。逃げ出すことにした「私」は、妹らと共に、急いで川へ向かうことにしました。

 「私」と妹たちは、障害物を()けながら進みます。途中で、潰れた建物の(かげ)から「おじさん」と(わめ)く声を聞いたり、顔を血だらけにした女性に遭遇したり、「家が焼ける、家が焼ける」と子供のように(なき)(わめ)いている老女と出逢ったりしました。

 栄橋の(たもと)までやって来ると、避難者がぞくぞくと集まっています。泉邸の薮の方へ道をとると、ふと(かん)(ぼく)の側に豊かな肢体(したい)を投出して(うずくま)っている中年の婦人の顔がありました。魂の抜けはてたその顔は、見ているうちに何か感染しそうになります。

※灌木(かんぼく) 丈が低く、幹が発達しない木本植物。ツツジ、ナンテンなどの類。
※肢体(したい) 手足。また、人間の手足と身体。

 こんな顔に()()わしたのは、これが初めてでしたが、それよりもっと奇怪な顔に、その後「私」は、かぎりなく出喰わさなければなりませんでした。川岸に出たところで「私」たちは、長兄(ちょうけい)と、その工場で働く学徒たちと出逢います。

 川岸に腰を下ろした「私」は、(長い間(おびや)かされていたものが、ついに来た)と思います。そして、ふと己が生きていることの意味を(かえり)み、(このことを書き残さねばならない)と心に呟くのでした。けれども、その時はまだ、この空襲の真相を(ほとん)ど知らなかったのです。

 突然降り出した雨の中、長兄と妹、そして近所の人たちは寄り集まって、今朝の出来事について語り合っていました。あの時兄は事務室にいて、閃光(せんこう)が走ると間もなく跳ね飛ばされ、家屋(かおく)の下敷きになったと言います。そこから這い出した兄は、学徒の救出に奮闘したと話します。

 妹は玄関で光線を見て、大急ぎで階段の下に身を潜めたため、あまり負傷を受けなかったと言います。みんなは始め、自分の家だけが爆撃されたと思っていましたが、外に出てみると、どこも一様にやられているので唖然(あぜん)としたと語っていました。

 「私」は、水際まで降りてみます。すると流れてきた箱から玉葱(たまねぎ)がはみ出て、あたりを(ただよ)っていました。「私」がそれを拾っていると、木片に取り(すが)りながら、一人の少女が流れて来ます。久しく泳いだことのない「私」でしたが、少女の救出に成功したのでした。

 (しばら)く静まっていた(むこう)(ぎし)の火が狂い出します。やがてその火が収まると、今度は竜巻が発生し、数多(あまた)の樹木が引き抜かれ、空を舞っていきました。竜巻が過ぎると、火傷を負った次兄(じけい)と兄嫁が姿を見せます。向岸の河原から次兄の子を連れた女中の叫び声が聞こえました。

 「私」のいる岸にも火が迫って来ていました。そこで長兄たちは橋を廻って向岸に行くことにし、「私」と次兄たちは渡し船を求めて上流へと向かうことにしました。その道中で「私」は始めて、言語(げんご)(ぜっ)する人々の(むれ)を見たのです。

※言語に絶する(げんごにぜっする) 程度がはなはだしくてことばでいいあらわせない。 ことばで説明できないほどの光景である。

 男女の区別もつかない(ほど)、顔がくちゃくちゃに腫れ上がっている人々が、岸の上にも下にも溢れていたのです。石段のところには二人の女性が(うずくま)っていて、その顔は約一倍半も膨脹し、醜く(ゆが)んでいました。これは一目見て、憐愍(れんびん)よりも身の毛のよだつ姿でした。

※憐愍・憐憫(れんびん) ふびんに思うこと。あわれみの気持。

 「私」たちは小さないかだを見つけて、向岸の方へ漕いで行きます。あたりはもう薄暗くなっていました。一人の兵士が、「死んだ方がましさ」と吐き捨てるように呟きます。「私」も(うなず)き、愚劣なものに対する、やりきれない憤りが、我々を無言で結びつけているように感じたのでした。

 その場所で「私」は、次兄の女中と出逢います。女中の顔は光線の影響で腫れていました。「私」たち河原を立ち退き、土手の(くぼ)みで一夜を明かすことにします。幼い日の「私」は、この(つつみ)を通って、魚を獲りに来たことがありました。思えば、夢のように平和な景色があったものです。

 夜が明けた8月7日、長兄と妹は家の焼跡の方へ廻り、二番目の兄たちは東練兵場(れんぺいじょう)にある施療所(せりょうじょ)へと向かいました。「私」もその後に続きます。施療所は東照宮の鳥居の下に設置されていました。次兄たちはそこで、一人はぐれていた長女と再会を果たします。

 「私」は、次兄の家の女中に付き添って、施療所の行列に加わっていました。女中の顔はしだいに酷く膨れ上がっていきます。「私」と次兄とその妻、次兄の子供二人、そして女中の6人は、境内の(いし)(がけ)に薄い材木を並べて屋根のかわりにし、多くの負傷者に混じって、そこで二四時間余り暮らしたのでした。

 翌8月8日は、夜明け前から念仏の声がしきりにしていました。ここでは誰かが、絶えず死んで行くらしいのです。次兄にはまだ長男と末の息子がいました。しかし二人とも市内の学校へ行っていたので、まだ消息は不明でした。

 火傷した(めい)たちはひどく(なき)(わめ)き、女中は(しき)りに水をくれと訴えます。みんながほとほと弱っているところへ長兄が荷馬車を雇って戻って来ました。そこで「私」たちは、馬車に乗って、施療所近くの避難場所を引き上げることになったのです。

 馬車が泉邸入り口の方へと向かった時の事です。次兄が、()(おぼ)えのある一人の死体を見つけます。それはまぎれもなく(おい)の文彦(次兄の末の息子)の死体でした。次兄と兄嫁は文彦の爪を剥ぎ、形見にバンドを取ってそこを立ち去りました。それは、涙も乾きはてた遭遇だったのです。

 馬車は市内の目抜きの焼け跡を一覧する形で進んで行きます。「私」はそこで銀色の虚無のひろがりを見ます。赤むけの膨れ上がった死体がところどころに配置されていました。それはまるで精密巧緻(こうち)な方法で実現された新地獄です。すべて人間的なものは抹殺されていました。「私」はそうした印象を詩に描き改めます。

※巧緻(こうち) きめこまかく上手にできていること。

 ギラギラノ破片ヤ
 灰白色ノ燃エガラガ
 ヒロビロトシタ パノラマノヨウニ
 アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキミョウナリズム
 スベテアッタコトカ アリエタコトナノカ
 パット剥ギトッテシマッタ アトノセカイ
 テンプクシタ電車ノワキノ
 馬ノ胴ナンカノ フクラミカタハ
 ブスブストケムル電線ノニオイ

 日が暮れた頃、馬車は八幡村に到着します。そして翌日、8月9日から「私」たちの悲惨な生活が始まりました。元気だった者も食料不足からだんだん衰弱していきます。火傷した女中の腕はひどく化膿し、蝿が群れて、(うじ)()くようになりました。彼女は一ヶ月あまり後、死んで行きます。

 八幡村へ移って四、五日目に、行方不明だった中学生の甥(次兄の長男)が帰って来ました。甥はあの朝、学校で被爆しました。逃げのびた生徒は四、五名だけで一緒に逃げた友人の所で世話になっていたと言います。

 この甥もこちらへ帰って来て、一週間で頭髪が抜け出しました。頭髪が抜け、鼻血が出だすと助からないという噂が広まっていました。それから十二、三日目に、甥はとうとう鼻血を出しました。医者は危険を宣告しましたが、重態のまま持ちこたえていきました。

 Nは汽車で出かけて行く途中、トンネルの中であの衝撃を受けます。目的地に着いたNは、引き返すようにして汽車に乗ります。街に着くと一番に妻の勤めている女学校へ行きました。けれども見つからず、次に大急ぎで宇品の自宅の方へ行きますが、そこにも妻の姿はありません。

 それから通勤路に(たお)れている死体を一つ一つ調べて見ましたが、どこにも妻の姿はなく、収容所を訪ね廻って負傷者の顔を覗きこみますがそこにも妻はいません。Nは最後にまた妻の勤め先の女学校の焼跡を訪れたのでした。

青空文庫 『夏の花』 原民喜
https://www.aozora.gr.jp/cards/000293/files/4680_18529.html

『夏の花』【解説と個人的な解釈】

 物語は、「私」(原民喜)が、妻(貞恵・前年の昭和19(1944)年9月28日没)の墓参りに行く場面から始まります。その二日後の昭和20(1945)年8月6日(月曜日)午前8時15分、広島市上空に原爆が落とされます。

 原民喜の実家は、「原製作所」という陸軍・官庁御用達商として被服工場を営み、当時は長兄の信嗣(のぶつぐ)が家業を切り盛りし、次兄の守夫がそれを手伝っていました。妻の貞恵が結核のため前年に死去したこともあり、原民喜は翌昭和20(1945)年1月31日、実家に疎開して来ます。

 被爆時、「私」は、厠(便所)にいたために一命を取り留め、川の方へ避難します。そこで「魂の抜けはてた」夫人の顔を見かけ、「感染しそうになる」とありますが、 “ 生きる気力を失った顔に自分も影響を受けそうになる ” といった意味なのでしょう。

 そして自分が生き残った意味を考えた「私」は、(このことを書き残さねばならない)と固く決意します。しかし、「その時はまだ、この空襲の真相を殆ど知らなかった」とあるように、『夏の花』は手記といった形式を取りながらも、後に知った情報や耳にした生々しい体験談などを交えながら展開していきます。

 川岸に避難し、対岸の火災を見ていた「私」たちを突如雨が襲いますが、実際に広島市内は爆発後30分頃から大火に見舞われました。この大火は嵐を引き起こし、それが上昇気流となって黒雲となり、放射性降下物を含む泥雨(黒い雨)を激しく降らせます。それは夕方まで続いたと伝われています。

 更に「私」たちを、竜巻が襲います。ちなみにこれも火災嵐の影響で、午前11時から午後3時にかけて、局所的に激しい「竜巻」(旋風)が発生したと云われています。火が迫ってきた為、対岸へと移動する「私」は、“ 言語に絶する人々の群れ ” を見ます。

 そして翌日、東練兵場(尾長・大須賀地域の軍事施設)にある施療所へ向かった「私」たちは、そこで多くの人の死を目の当たりにします。それから「私」たちは馬車に乗って八幡村まで移動しますが、その途中、甥の文彦(7歳)の死体を見つけます。

 作中において、実名で表記されているのはこの文彦だけです。文彦は、「私」にとって被爆直後に死亡した唯一の親族でした。ですからあえて実名で記したのでしょう。まさに「涙も乾きはてた遭遇」だったのです。また途中で目にした衝撃的な光景を詩に描き改めます。

 八幡村に着いた「私」たちには “ 悲惨な生活 ” が待っていました。次兄の家の女中が死に至り、行方不明だった次兄の長男は帰って来たものの、頭髪が抜け、鼻血が止まらずに重篤に陥っていきますが何とか持ちこたえます。ちなみに原民喜が八幡村に疎開していたのは昭和20年8月8日から翌年の3月27日までの約8ヶ月間でした。

 そして物語は「N」の体験談で締めくくられます。消息不明になった妻を「N」が果てしなく探し求めるといった内容ですが、冒頭に墓参りの場面が置かれているように、原民喜にとって亡き妻は忘れることのできぬ存在でした。

 つまり「N」の体験は、もしも「私」の妻が存命だったなら、まさに「私」の身にも起こり得た体験であり、決して他人事とは思えなかったのでしょう。『夏の花』という作品は、原爆の惨劇を記すとともに、亡き妻への追慕の思いを綴った作品と言えます。

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あとがき【『夏の花』の感想を交えて】

 広島市のHPによると、「原爆によって死亡した人の数については、現在でも、正確には分かっていません。」としながらも、「昭和20(1945)年12月末までに、約14万人が亡くなられたと推計しています。」とあります。

 また三日後の8月9日午前11時2分、長崎市にも原爆が落とされ、約7万4千人が死亡しました。つまり二つの原子爆弾によって21万人以上の尊い命が失われ、15万人以上の人々が負傷したのです。

 戦後、GHQの統治下にあった日本は、厳しい言論統制のもとに置かれていました。そんな状況下で「原爆文学」を世に出すことは並大抵の苦労ではなかったでしょう。原民喜も原題の『原子爆弾』から『夏の花』と改めています。

 内容も淡々と体験したことや見たこと、または聞いたことを綴り、出来るだけ感情を押し殺しています。昭和26(1951)年3月13日、原民喜は自ら命を絶ちますが、そこに至るまで想像を絶する苦しみがあったことでしょう。

 なにはともあれ、二度と「原爆文学」なるものを書くことの無い世の中を望むところです。

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