はじめに【「先入観」について】
「“ 先入観 ” に囚われたが為に失敗をしてしまった」そんな経験をした方も多いと思います。わたし自身、仕事やプライベート、特に対人関係において多くの失敗をしてきました。
“ 先入観 ” とは、最初に知ったことにより形成された固定的な観念のことです。固定観念を持ってしまうのは人間として自然なことと言えるでしょう。けれども、先入観に固執してしまうことで大事なことを見失ってしまう場合もあります。
今回ご紹介する島崎藤村の随筆『三人の訪問者』は、そんな気付きを読者に与えてくれる作品です。
島崎藤村『三人の訪問者』あらすじと解説【先入観に囚われず!】

島崎藤村(しまざきとうそん)とは?
島崎藤村(本名・島崎春樹)は、明治から昭和にかけて活躍した詩人、小説家です。(1872~1943)
島崎は、明治5(1872)年2月17日、筑摩県第八大区五小区馬籠村(現在は岐阜県中津川市馬籠)に代々庄屋を務める旧家の四男として生まれます。
明治14(1881)年、修学のために上京し、泰明小学校、三田英学校(現・錦城中学)、共立学校(現・開成中学)を経て、明治24(1891)年に明治学院本科((現・明治学院大学)を卒業します。卒業後は『女学雑誌』に寄稿する一方で、明治女学校の教師となります。
しかし教え子の佐藤輔子との恋愛に悩んで辞職し、関西へと放浪の旅に出ます。明治29(1896)年、東北学院の教師となって宮城県仙台市に一年間ほど赴任します。翌年この頃の詩作をまとめた詩集『若菜集』を刊行し、詩人としての名声を高めます。

明治32(1899)年、信州小諸義塾(現在の小諸市にかつてあった私塾)の英語教師となり結婚した頃から小説を執筆するようになります。その後上京し、明治39(1906)年、『破戒』を自費出版し、初の本格的な自然主義の小説として激賞されます。
その後、『春』『家』『桜の実の熟する時』『新生』『嵐』などの発表を経て、昭和10(1929)年、維新における父親・正樹をモデルに膨大な歴史小説『夜明け前』を完成させます。昭和18(1943)年8月22日、『東方の門』執筆中に脳溢血のために急逝します。(没年齢・71歳)

自然主義とは?
19世紀後半のフランスにおこった文芸思潮で、現実のありのままを、まったく客観的な立場で観察し描写する芸術的態度や手法のことです。
日本では、小杉天外や永井荷風が手法を試み、島崎藤村の『破戒』や田山花袋の『蒲団』によって文壇の主流となり、明治末期に全盛を誇りました。しかし大正期にかけて白樺派の台頭などもあり力を失っていきます。

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随筆『三人の訪問者』について
『三人の訪問者』は、大正8(1919)年、雑誌『開拓者』1月号に掲載されます。その後昭和37(1962)年に、平凡社から出版された『世界教養全集』の別巻1日本随筆・随想集に収録されます。
『三人の訪問者』あらすじ(ネタバレ注意!)

一人目の訪問者「冬」
「冬」が訪ねて来ました。私が待ち受けていたのは、貧しそうに震えた、酷く皺枯れた老婆のような「冬」です。けれども予想していたものとは反対でした。私が、「お前は冬か。」と尋ねると、「お前は私を見損なって居たのか。」と答えます。
「冬」は私に、色々な樹木を指して見せました。満点星(ツツジの一種)の若枝にはすでに新芽が見られます。椿の緑葉には輝きがあり、密集した葉と葉の間からは大きな蕾が顔を出していました。それはまるで冬の焔が流れて来たかのようです。
私は三年の間、パリで暗い冬を送って来ました。パリの冬景色は、灰色な深い静寂な、シャヴァンヌ(フランスの画家)の『冬』の色調のようでした。久しぶりで東京の郊外に冬籠りをすると、冬の日の光が屋内まで輝き満ちてきます。それは確かに武蔵野の「冬」でした。

私は、毎年訪ねて来る「冬」という訪問者を見直すようになります。「冬」で思い出すのは、かつて信濃(長野)で逢った「冬」でした。毎年、五カ月もの間「冬」と一緒に暮らしましたが、山の上では一切のものは潜み隠れ、「冬」の笑顔というものを見たこともありませんでした。
この「冬」が、私には先入主になってしまったのです。信濃で七度も「冬」を迎えましたが、私の眼に映る「冬」はただ灰色のものでした。パリで逢った「冬」の色調も同じです。ですから、久しぶりに訪ねて来た「冬」を見た時、どうしても信じられませんでした。
※先入主(せんにゅうしゅ) 先入観と意味は同じ。最初に得た知識によって形成された固定的な観念のこと。
遠い旅から帰って三度目の「冬」を迎えた年、私は、常盤樹の若葉をしみじみと見たものです。初冬の若葉は、一年を通して最も美しいものの一つでした。「冬」はその年も、槇(イヌマキ)の緑葉や万両の紅い実を指して見せました。
※常盤樹(ときわぎ) 常緑広葉樹林のこと。
「冬」は私に言います。「今年はお前の小さな娘のところへ土産まで持って来た。あの児の紅い頬辺もこの私のこころざしだ。」と。

二人目の訪問者「貧」
「貧」が訪ねて来ました。子供の時分からの馴染のような顔付きをして、馴れ馴れしく私の側へ来たのです。私はこの客に対し「冬」以上の醜さを感じていました。けれどもその顔を見ているうちに、今迄思いもよらなかったような優しい微笑を見つけたのです。
私が、「お前は貧か。」と尋ねると、「そんなに長くお前は私を知らずに居たのか。」と答えました。「稀にお前に笑われると、厭な気がしたものだ。ただお前に慣れたのか、側にいてくれると一番安心する。」と私が言うと、「貧」は笑ってこう言ったのでした。
「私は自分の歩いた足跡に花を咲かせることも出来る。私は自分の住居を宮殿に変えることも出来る。私は一種の幻術者だ。斯う見えても私は世に所謂「富」なぞの考えるよりは、もっと遠い夢を見て居る。」

三人目の訪問者「老」
「老」が訪ねて来ました。これこそが「貧」以上に醜く考えていたものです。けれども不思議なことに「老」までもが私に微笑みを見せたのです。私はまた同じ調子で、「お前が老か。」と尋ねました。ところが顔をよく見ると、今まで私が胸に描いていたものとは違います。
それは真実の「老」ではなく「萎縮」だったことが分かってきたのです。もっと光ったもので、有難みのあるものでした。けれども私がこの訪問者に逢ってからまだ日は浅く、知らないことばかりです。ただ「老」の微笑ということが分かってきただけで、どうかしてこの客のことを知りたいと思うのです。
まだ誰か訪ねて来たような気がします。私はそれが「死」だと感知します。おそらく三人の訪問者から、自分の先入主の間違いを教えられたように、「死」もまた思いもよらないことを私に教えてくれるのかも知れないのです・・・。
青空文庫 『三人の訪問者』 島崎藤村
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『三人の訪問者』【解説と個人的な解釈】
島崎藤村は、明治32(1899)年、小諸義塾の英語教師として長野県北佐久郡小諸町(現在の小諸市)に赴任し、7度の冬を経験します。雪深い信州の「冬」ですから、灰色の色調に見えたのでしょう。
同時にその色調はフランスのパリも同じだったと島崎は語ります。大正2(1913)年、フランス・パリに渡った島崎は、大正5(1916)年の7月に帰国します。異国での生活という孤独感も手伝ってのことでしょうが、島崎にとって「冬」のイメージは暗く寂しげなものだったのです。
「貧」について、島崎は、栄養失調で我が子を次々に亡くすといった悲惨な経験をしています。こういった事実を踏まえても島崎にとって「貧」は身近なものであり、残酷な存在でした。そんな「貧」に対しても「冬」と同様に違う一面を見ようとします。
島崎は「老」について、真実の「老」ではなく「萎縮」だったと語りますが、確かに「老」を目の前にすると気持ちが先に衰えていくものなのでしょう。ともかくとして、自分の置かれている状況次第で物事の見方は変わってきます。
「冬」にしろ「貧」にしろ、また「老」や「死」にしろ、見る角度で表情は変わります。つまり好奇心からくる観察眼や、広い視野を持つことが人間にとって大切なのだと、島崎は作品を通して教えてくれているような気がします。
あとがき【『三人の訪問者』の感想を交えて】

北国(雪国)に暮らす人々にとって「冬」という季節は、まさに “ 招かざる客 ” といったところでしょうか。とは言うものの、好むと好まざるとにかかわらず毎年必ず訪れます。「とにかく一日も早く通り過ぎて欲しい」と思う人も多いことでしょう。
そんな「冬」という季節ですが、島崎藤村のような視点を持つことで、新たな付き合い方を発見できるのかも知れません。「貧」も同じで、「貧」という経験をすることで見えてくるものもあります。
この随筆の中で特に印象深い言葉として、「私は自分の歩いた足跡に花を咲かせることも出来る。」があげられますが、「貧」のときに種子を育むからこそ、花を咲かせることができるのでしょう。
ともかくとして、『三人の訪問者』を読んで思うことは「先入観に囚われず!」ということです。それは新たな可能性を見つける第一歩なのかも知れません。
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