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魯迅『些細な事件』あらすじと解説【初心忘るべからず!】

一読三嘆、名著から学ぶ
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はじめに【初心忘るべからず】

 わたしたちが何気なく使っている言葉に、「初心忘るべからず」というものがあります。この言葉ですが、能楽者・世阿弥(ぜあみ)が書いた能楽論書『()(きょう)』に載っている言葉で、芸事を極める上での心構えとして用いられています。

 けれども今ではご承知のように、芸事に限らず様々な分野で用いられています。わたし自身にも言えることですが、物事が上手くいっているとき、人はとかく高慢(こうまん)になっていきます。ときには度を越して傲慢(ごうまん)になることさえも・・・。

 そんなとき、「初心忘るべからず」を胸に行動しようと思いますが、なかなかどうして、簡単なことではありません。どこかで必ず増長しているものです。ともかくとして、そんな人間の本質を鋭く突いた、魯迅の『些細な事件』をご紹介します。

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魯迅『些細な事件』あらすじと解説【初心忘るべからず!】

魯迅(ろじん)とは?

 魯迅(本名は周樹人(しゅう‐じゅじん))は中国の小説家、翻訳家、思想家です。(1881‐1936)
魯迅は1881年8月3日、浙江省(せっこうしょう)(しょう)(こう)の裕福な階級の家に生まれます。しかし幼時に没落し、苦労も体験しながら、18歳のとき南京の江南水師学堂(海軍養成学校)に入学します。

 その3年後の明治35(1902)年、官費留学生として日本に派遣され、仙台医学専門学校に入学します。しかし中退し、文学の道を志します。明治42(1909)年に帰国し、文学の研究・翻訳をしながら『狂人日記』『阿Q正伝』を著します。

 その後、『故郷』『祝福』『孤独者』などの小説と散文詩や、多くのエッセーを書き中国文学の中心的存在となります。1930年、左翼作家連盟発足後はその実質的な指導者となります。1936年10月19日、持病の喘息の発作で急逝します。(没年齢55歳)

 中国で最も早く西洋の技法を用いて小説を書いた作家であり、その作品は、中国だけでなく、東アジアでも広く愛読されていて、日本でも中学校用の国語教科書に作品が収録されています。

    魯迅

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随筆『些細な事件』(『小さな出来事』)について

 随筆『些細ささい事件じけん』は、1919年12月1日の『晨報(しんほう)・周年記念増刊』に発表されます。その後小説集『吶喊(とっかん)』に収録されました。

『些細な事件』あらすじ(ネタバレ注意!)

 都に出て役所勤めをし、六年が経過した「私」は、「この生活が自分の悪い癖を増長させただけ」と語ります。そして自分が、「日に日に見るに足らない人間」になっていると語り、けれども “ 一つの小さな出来事 ” が忘れられず、そのことが自分を「悪い癖から引き放す」と述べ、二年前のことを回想していきます。

 民国6(1917)年の冬、その日は強い北風が吹いていました。仕事のために毎朝早く出かけなければならなかった「私」は、一台の人力車(じんりきしゃ)(ひろ)い、S門へと向かわせました。大通りを進んだ人力車がS門に近づいた時です。車が人を引っ掛けて、引き倒してしまったのです。

 引き倒されたのはみすぼらしい老女でした。車夫は急いで避けたのですが、(かじ)(ぼう)にひっかかってしまったのです。車夫は足を止めます。「私」はこの時、老女が怪我しているようにも見えないので、「何でもないよ。早く行ってくれ」と車夫を(うなが)しました。

 けれども車夫はそんな「私」の言葉を聞き入れず、お節介にも老女を助け起こし、「どうかなさいましたか?」と聞いたのです。老女は、「突傷(つききず)が出来ました。」と答えました。「私」は(怪我するはずもないのに、本当に憎らしい奴だ。車夫も余計なことをして)と、腹立たしく思います。

 ところが車夫は、老女の声を聞くと少しも躊躇(ちゅうちょ)せずに、老女を支えながら、近くの派出所の方に向かって歩き出したのでした。「私」はこの時、異様な感覚にうたれます。車夫の全身ほこりまみれの後ろ姿が、歩くにつれて大きくなり、仰向(あおむ)いてようやく見えるくらいになったのです。

※仰向く(あおむく) (首をそらし、または体を横たえて)上を向く。あおのく。

 そんな車夫の姿は、「私」に一種の威圧を与え、自分の内側に隠された “ 小さなもの ” を絞り出そうとするのでした。「私」は、じっと座ったままでいると巡査がやって来て、車夫が車を引けなくなったことを告げます。

 その時「私」は、深い考えもなく、巡査に銅貨をひとつかみ渡して、「車夫に渡して下さい。」と言い路上を歩き出しました。歩きながら「私」は考えます。(今のあのひとつかみの銅貨はなんのつもりだったのか?)「私」は自分自身の問いに答えることが出来ませんでした。

 この出来事を今になっても時々思い出すと「私」は語り、このために、「つとめて自分自身のことを想到(そうとう)しようとする」と述べます。さらに少年時代に読んだ「()(のたまわく)(しに)(いう)」は少しも暗誦(あんしょう)できないが、この “ 一つの小さな出来事 ” だけは、いつも眼の前に浮かんでくると語ります。

※想到(そうとう) 考えがそこまで及ぶこと。
※子日詩云(しのたまわくしにいう) 論語の始めの言葉。「孔子がおっしゃるには、詩に書かれている」。
※暗誦(あんしょう) 文章などをそらで覚えていて、口に出してとなえること。

 そして時には、むしろ鮮やかさを増して、「私」を恥じさせ、心を新たにさせ、同時に私の勇気と希望を増してくれる。と語り、文章は結ばれます。

青空文庫 『些細な事件』 魯迅 井上紅梅訳
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『些細な事件』【解説と個人的な解釈】

 短編小説『故郷』にも書かれているように、魯迅は、使用人を抱える裕福な階級の家に育ちました。ですから『些細な事件』の冒頭で語られる「自分の悪い癖」とは、環境により身に沁みついていた「特権階級意識」からくる高慢(こうまん)さ」と言えるでしょう。

 家は一度没落したものの、1912年に中華民国政府が成立すると、魯迅は、教育部の官吏の職に就き、北京に住むようになります。ちなみに当時の魯迅の月収は三百元と言われ、対して物語に登場する車夫の月収は十元程度と三十倍もの格差がありました。

 作品が書かれたのは1919年の11月で、魯迅が北京市内の高級住宅地に引っ越した時期と重なります。そのことは『魯迅日記』に記されています。

四日 晴。徐吉軒とともに八道湾に羅氏と仲介人などに会いに行く。千三百五十元を支払う。家の受け渡しすべて完了。(後略)
二十一日 晴。午前、二弟の家族とともに八道湾の家に転居。
(『魯迅日記』)

 千三百五十元の家ですから大邸宅と言えます。つまり、魯迅に再び「特権階級意識」が芽生えていた時期だったのでしょう。ですから自己反省的な意味を込めて、二年前の “ 車夫の偉大な姿 ” を思い浮かべ、随筆にしたのです。

 物語の中で「私」は、深い考えもなしに、「車夫に渡して下さい。」と、巡査に銅貨を渡しますが、それは身分や給料の高さとは関係なしに “ 人格 ” というものは備わるということを発見したからではないでしょうか。と同時に、車夫の「大きさ」と自分の「小ささ」を認めたからだとわたしは考えます。

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あとがき【『些細な事件』の感想を交えて】

 たとえ金があって社会的地位が高かったとしても、その人間が人格者とは限りません。けれども残念ながら世間というものは、そのような人間をおおかた人格者とみなします。一方、身なりがみすぼらしく、貧しい生活をしているだけで世間は愚者と(さげす)みます。

 『些細な事件』はそんな現実を読者に突き付けてくれると同時に、人間として一番大切なことは何か?を考えさせてくれます。

 物語に登場する「私」は、車夫の中に潜んでいた “ 善良で偉大な人格 ” に触れることで自分を見つめ直しますが、このことをわたし自身に置き換えて見ると、果たしてそんな心境になっただろうか?と疑問に思います。

 きっと、(本当に憎らしい奴だ。車夫も余計なことをして)と思っただけでやり過ごすことでしょう。このほんのちょっとの「気付き」が人間として大きな差を生みます。つまり気が付いた物語の「私」も、やはり人格者と言えるのでしょう。

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