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菊池寛『形』と『常山紀談』あらすじと解説【虚妄に裏切られる!】

一読三嘆、名著から学ぶ
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はじめに【故事「虎の威を借る狐」】

 「虎の()()る狐」―――良く耳にする言葉ではないでしょうか。
このことわざは、中国、前漢末期に(りゅう)(きょう)が編纂したとされる『(せん)国策(ごくさく)』に書かれている話に基づいたものです。

 紀元前四世紀の半ば、中国・戦国時代のことです。楚の国の王が、自国の大臣が外国から恐れられているという噂を聞いて「それは本当なのか?」と、家臣たちに尋ねました。すると、ある家臣が次のように答えました。

―――虎に捕まえられた狐が、こんなふうに言ったそうです。「私を食べてはいけません。私は、天帝から命じられた百獣の長なんです。うそだと思うなら、私の後に付いてきてください。みんな、恐がって逃げていきますから。」



 虎が狐について行くと、確かに動物たちは逃げていきます。虎は、自分が恐がられているのだとは気づかずに、すっかりだまされてしまいました。あの大臣が外国から恐れられているのは、王の軍隊を恐れているだけのことですよ。

 虎の威を借る―――皆さんもこのような人を見たことあるのではないでしょうか?

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菊池寛『形』と『常山紀談』あらすじと解説【虚妄に裏切られる!】

菊池寛(きくちかん)とは?

 明治から昭和初期にかけて活躍した小説家、劇作家です。菊池(かん)。(1888~1948)
菊池寛(本名・菊池(ひろし))は明治21(1888)年12月26日、香川県高松市に生まれます。明治43(1910)年に名門、第一高等学校文科に入学します。

 第一高等学校の同級に芥川龍之介、久米正雄、山本有三らがいましたが、諸事情により退学してしまいます。結局、紆余曲折の末に京都帝国大学文学部に入学し、在学中に一校時代の友人、芥川らの同人誌『新思潮』に参加します。

   芥川龍之介

 大正5(1916)年、京都大学を卒業後、「時事新報」の記者を勤めながら創作活動を始め、『(ただ)(なお)(きょう)行状記』『恩讐の彼方に』『藤十郎の恋』等の短編小説を発表します。大正9(1920)年、新聞小説『真珠夫人』が評判となり、作家としての地位を確立していきます。

 大正12(1923)年、『文藝春秋』を創刊し、出版社の経営をする他にも文芸家協会会長等を務めます。昭和10(1935)年、新人作家を顕彰(けんしょう)する「芥川龍之介賞」「直木三十五賞」を設立します。

 しかし、終戦後の昭和22(1947)年、菊池寛は、GHQから公職追放の指令が下されます。日本の「侵略戦争」に『文藝春秋』が指導的立場をとったというのが理由でした。その翌年の昭和23(1948)年3月6日、狭心症を起こして急死してしまいます。(没年齢・59歳)

    菊池寛

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菊池寛『形(かたち)』について

 『形』は、大正9(1920)年1月2日「大阪毎日新聞」に発表された菊池寛の短編小説です。物語は、江戸時代中期に成立した説話集『常山紀談』が元になっています。

『常山紀談(じょうざんきだん)』とは?

 常山紀談とは江戸時代の雑史随談集のことで、岡山藩士の儒学者・湯浅常山が著したものです。
[本編25巻・拾遺4巻・付録1巻]

 戦国時代から江戸時代初期にわたる約50年間の名将・傑物の言行を伝える説話集です。

湯浅常山(ゆあさ-じょうざん)とは?


       岡山城

 湯浅常山は、江戸時代中期の岡山藩士・儒者です。(1708~1781)
岡山で禄高400石の中級藩士の家に生まれた常山は、古学派に学び、歴史や漢詩、武芸にも通じた秀才でした。

 24歳で家督を継ぎ、藩命で江戸に出た際には、荻生徂徠(おぎゅうそらい)の門人である服部(はっとり)南郭(なんかく)太宰(だざい)(しゅん)(だい)に学びます。岡山に戻った後は池田継政から3代の藩主に仕え、寺社奉行や町奉行を務めますが、直言が藩政批判と看做(みな)されて隠居を命じられます。

 以後は著述に専念した常山でしたが、『常山紀談』の他にも、徂徠学派の言行をまとめた『文会雑記』、随筆『常山楼文集』などが残されています。

『形(かたち)』あらすじ(ネタバレ注意!)

 摂津国(大阪府北部)の半分を治めていた松山(まつやま)新介(しんすけ)の侍大将・中村新兵衛は、五畿内中国に名を轟かせた剛勇の武士でした。その頃の機内で、「槍中村」を知らない者は一人もいなかったでしょう。

 新兵衛は戦場に出るとき、猩々(しょうじょう)()の陣羽織と、(とう)冠金纓(かんきんえい)(中国風の冠)の兜を身につけていました。この「槍中村」の武者姿は戦場の華であり、味方にとってはたのもしく、そして敵にとっては、どれほどの脅威であったか分かりません。

 ある日のことです。新兵衛の主君、松山新介の側室の子でもあり、自らが守り役として慈しみ育ててきた若侍が「初陣だから華々しい手柄を立ててみたい。ひいては、猩々緋と唐冠の兜を貸して下さらぬか。」と、言ってきました。

 新兵衛はこの申し出を快諾し、「あの陣羽織や兜は、言うなれば中村新兵衛の “ 形 ” じゃ。あれを身に着ける以上、われらほどの肝魂(きもたま)を持って戦いに挑むように。」と言い、高らかに笑いました。

 次の日、松山勢は大和の筒井順慶の兵と合戦をしました。戦いが始まる前、猩々緋と唐冠の兜を身に着けた武者が、一気に敵陣へと乗り込んで行きます。すると敵陣は乱れ、武者は軽く三、四人を槍でつき伏せて、味方の陣へと引き返して来ました。

 その日、黒革(くろかわ)(おどし)の鎧と南蛮鉄の兜を身に着けていた新兵衛は、武者ぶりを眺めて(自分の “ 形 ” に、これほどの威力があるのだ)と、大きな誇りを感じます。新兵衛は、二番槍は自分がと、駒を乗り出して敵陣へと向かって行きました。

 けれども、さっきまで猩々緋の武者の前では、浮き足立っていた敵陣も、黒革威の武者には復讐せんとして猛り立っています。新兵衛はいつもと勝手が違うことに気がつきます。

 いつもなら虎に向かってくる羊のような怖気おじけが敵にはありました。狼狽うろたえているところを突き伏せることは簡単です。けれども、このときの雑兵(ぞうひょう)は勇み立ち、向かって来ます。

―以下原文通り―

敵の鎗の鋒先が、ともすれば身をかすった。新兵衛は必死の力を振るった。平素の二倍もの力さえ振るった。が、彼はともすれば突き負けそうになった。

手軽に兜や猩々緋を()したことを、後悔するような感じが頭の中をかすめたときであった。敵の突き出した鎗が、縅の裏をかいて彼の脾腹(ひばら)を貫いていた。

青空文庫 『形』 菊池寛
https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/4306_19830.html

『形』【解説】

『常山紀談』拾遺巻之四「松山新助の勇将中村新兵衛が事」

摂津半国の主松山新介が勇将中村新兵衛、度々の手柄を(あらわ)しければ、時の人これを(やり)中村と号して、武者の棟梁とす。羽織は猩々緋、兜は唐冠金纓なり。敵これを見て、すはや例の猩々緋よ、唐冠よとて、(いまだ)戦はざる先に敗して、(あえ)てむかひ近づくものなし。

或人、(しい)て所望して、中村これを与ふ。その後戦場にのぞみ、敵、中村が羽織と兜を見ざるゆゑに、競ひかかりて切り崩す。中村戈(ほこ。槍)を振つて敵を殺すことそこばくなれども、中村を知らざれば敵恐れず。中村つひに戦没す。

これによつて曰く、敵を殺すの多きを以て勝つに非ず、()を輝かして気を奪ひ、勢を(たまわ)すの理をさとるべし。
(『常山紀談』拾遺巻之四)

摂津国(大阪府北部)の半分を治めていた松山(まつやま)新介(しんすけ)の家臣に、数々の武勲を立てて「鎗中村」と恐れられた中村(なかむら)新兵衛(しんべえ)という豪傑がいた。猩々(しょうじょう)()の陣羽織と、(とう)冠金纓(かんきんえい)の兜がトレードマークで、戦場でそれを見ると敵は「鎗中村だ!」と恐れおののき、戦う前から逃げ出してしまう。

ところが、ある者が「どうしてもその兜と陣羽織を貸して欲しい」と言うので新兵衛は仕方なくこれを貸し与え、自分は別の甲冑で出陣した。すると敵兵たちは、その武者が「鎗中村」とは思っていないものだから少しも怯まず襲いかかり、新兵衛は奮戦むなしくついに討死にをしてしまう。

この事から得られる教訓は、戦に勝つにはただ敵を多く殺せばよいのではなく、威を発揮して敵の戦意をそぎ、実力を発揮させないことが肝要なのである。
(『常山紀談』拾遺巻之四(現代語訳))

『常山紀談』と菊池寛『形』の比較

  1. 猩々緋(と唐冠の兜を貸した相手
    『形』――――――新兵衛が守り役として我が子のように慈しみ育ててきた「若い侍」で快く貸している。
    『常山紀談』―――「ある人」で渋々貸している。
  2. 新兵衛の最期について
    『形』――――――二、三人突き伏せることさえ容易ではなく、貸したことを後悔している。そして「槍が彼の脾腹を貫いていた。」で物語を終える。
    『常山紀談』―――「多数の敵を殺しながら死んでしまった。」で、物語を終える。
  3. 教訓の部分
    『形』――――――教訓じみたことは書かれていない。
    『常山紀談』―――「敵を殺すの多きを以て勝つにあらず。威を輝かして気を奪ひ、勢を(どう)すの理を(さと)るべし。」と戦いに勝つための必勝法が書かれている。
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あとがき【『形』の感想を交えて】

 「人間は外見よりも内面(心)が大切」と思っている人は多いと思います。けれども実際は、外見に、裕福さや美しさ、またはスタイリッシュさを追い求めています。

 このような矛盾こそが “ 人間の精神構造 ” と言えるでしょう。
内面は接して見なければ分かりません。けれども一方で外見は一目で分かります。そこで、「虎の威を借る何とやら」が登場します。

 新兵衛から猩々緋と唐冠の兜を借りた若侍がまさしくそれです。つまりは新兵衛の言うところの “ 形 ” の威力を良く理解していました。

 その新兵衛は勿論、武勇を重ねて “ 形 ” を手に入れます。けれども次第に、己の実力よりも “ 形 ” のほうが勝っていくことに気付きませんでした。いつの間にか新兵衛自身も「虎の威を借る何とやら」になっていたのです。

 似たようなことを現代でも目にすることがあります。
大企業の肩書を捨てた途端に、ただの人になってしまう。とか、いつも自慢をしていた知り合いの有名人が落ちぶれたら、鼻にもかけられなくなった。等々。

 確かに “ 形 ” も大事です。が、“ 形 ” に振り回されないように、常日頃から自分自身を見つめることが必要です。謙虚さを忘れずに。

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