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菊池寛『形』と『常山紀談』【虚妄を誇示し虚妄に裏切られる!】

一読三嘆、名著から学ぶ
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はじめに【故事「虎の威を借る狐」】

 「虎の()()る狐」―――良く耳にする言葉ではないでしょうか。
このことわざは、中国、前漢末期に(りゅう)(きょう)が編纂したとされる『(せん)国策(ごくさく)』に書かれている話に基づいたものです。

 紀元前四世紀の半ば、中国・戦国時代のことです。楚の国の王が、自国の大臣が外国から恐れられているという噂を聞いて「それは本当なのか?」と、家臣たちに尋ねました。すると、ある家臣が次のように答えました。

―――虎に捕まえられた狐が、こんなふうに言ったそうです。「私を食べてはいけません。私は、天帝から命じられた百獣の長なんです。うそだと思うなら、私の後に付いてきてください。みんな、恐がって逃げていきますから。」



 虎が狐について行くと、確かに動物たちは逃げていきます。虎は、自分が恐がられているのだとは気づかずに、すっかりだまされてしまいました。あの大臣が外国から恐れられているのは、王の軍隊を恐れているだけのことですよ。

 虎の威を借る―――皆さんもこのような人を見たことあるのではないでしょうか?

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菊池寛『形』と『常山紀談』【虚妄を誇示し虚妄に裏切られる!】

菊池寛(きくちかん)とは?

 明治から昭和初期にかけて活躍した小説家です。菊池(かん)。(1888-1948)
本名菊池(ひろし)は香川県高松市に生まれ、名門、第一高等学校へと進みますが諸事情により退学。結局、紆余曲折の末に京都帝国大学文学部で学びます。

 大正5(1916)年、京都大学を卒業後、「時事新報」の記者を勤めながら創作活動を始め、『恩讐の彼方に』『藤十郎の恋』等の短編小説を発表します。

 新聞小説『真珠夫人』が評判となり、作家としての地位を確立していく一方で、1923年、『文藝春秋』を創刊、文芸家協会会長等を務めます。

 しかし、終戦後の昭和22(1947)年、GHQから公職追放の指令が下され、翌年の昭和23(1948)年1月に、狭心症を起こして急死してしまいます。(没年齢59歳)
『芥川龍之介賞』『直木三十五賞』の創始者。


   菊池寛

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菊池寛『形(かたち)』について

 『形』は、大正9(1920)年1月2日「大阪毎日新聞」に発表された菊池寛の短編小説です。物語は、江戸時代中期に成立した説話集『常山紀談』が元になっています。

『常山紀談(じょうざんきだん)』とは?

 常山紀談とは江戸時代の雑史随談集のことで、岡山藩士の儒学者・湯浅常山が著したものです。
[本編25巻・拾遺4巻・付録1巻]

 戦国時代から江戸時代初期にわたる約50年間の名将・傑物の言行を伝える説話集です。

湯浅常山(ゆあさ-じょうざん)とは?


       岡山城

 湯浅常山は、江戸時代中期の岡山藩士・儒者です。(1708~1781)
岡山で禄高400石の中級藩士の家に生まれた常山は、古学派に学び、歴史や漢詩、武芸にも通じた秀才でした。

 24歳で家督を継ぎ、藩命で江戸に出た際には、荻生徂徠(おぎゅうそらい)の門人である服部(はっとり)南郭(なんかく)太宰(だざい)(しゅん)(だい)に学びます。岡山に戻った後は池田継政から3代の藩主に仕え、寺社奉行や町奉行を務めますが、直言が藩政批判と看做(みな)されて隠居を命じられます。

 以後は著述に専念した常山でしたが、『常山紀談』の他にも、徂徠学派の言行をまとめた『文会雑記』、随筆『常山楼文集』などが残されています。

『形(かたち)』あらすじ(ネタバレ注意!)

 摂津国(大阪府北部)の半分を治めていた松山(まつやま)新介(しんすけ)の侍大将・中村新兵衛は、五畿内中国に名を轟かせた剛勇の武士でした。その頃の機内で、「槍中村」を知らない者は一人もいなかったでしょう。

 新兵衛は戦場に出るとき、猩々(しょうじょう)()の陣羽織と、(とう)冠金纓(かんきんえい)(中国風の冠)の兜を身につけていました。この「槍中村」の武者姿は戦場の華であり、味方にとってはたのもしく、そして敵にとっては、どれほどの脅威であったか分かりません。

 ある日のことです。新兵衛の主君、松山新介の側室の子でもあり、自らが守り役として慈しみ育ててきた若侍が「初陣だから華々しい手柄を立ててみたい。ひいては、猩々緋と唐冠の兜を貸して下さらぬか。」と、言ってきました。

 新兵衛はこの申し出を快諾し、「あの陣羽織や兜は、言うなれば中村新兵衛の “ 形 ” じゃ。あれを身に着ける以上、われらほどの肝魂(きもたま)を持って戦いに挑むように。」と言い、高らかに笑いました。

 次の日、松山勢は大和の筒井順慶の兵と合戦をしました。戦いが始まる前、猩々緋と唐冠の兜を身に着けた武者が、一気に敵陣へと乗り込んで行きます。すると敵陣は乱れ、武者は軽く三、四人を槍でつき伏せて、味方の陣へと引き返して来ました。

 その日、黒革(くろかわ)(おどし)の鎧と南蛮鉄の兜を身に着けていた新兵衛は、武者ぶりを眺めて(自分の “ 形 ” に、これほどの威力があるのだ)と、大きな誇りを感じます。新兵衛は、二番槍は自分がと、駒を乗り出して敵陣へと向かって行きました。

 けれども、さっきまで猩々緋の武者の前では、浮き足立っていた敵陣も、黒革威の武者には復讐せんとして猛り立っています。新兵衛はいつもと勝手が違うことに気がつきます。

 いつもなら虎に向かってくる羊のような怖気が敵にはありました。狼狽えているところを突き伏せることは簡単です。けれども、このときの雑兵(ぞうひょう)は勇み立ち、向かって来ます。

―以下原文通り―

敵の鎗の鋒先が、ともすれば身をかすった。新兵衛は必死の力を振るった。平素の二倍もの力さえ振るった。が、彼はともすれば突き負けそうになった。

手軽に兜や猩々緋を()したことを、後悔するような感じが頭の中をかすめたときであった。敵の突き出した鎗が、縅の裏をかいて彼の脾腹(ひばら)を貫いていた。

青空文庫 『形』 菊池寛
https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/4306_19830.html


『常山紀談』拾遺巻之四「松山新助の勇将中村新兵衛が事」

摂津半国の主松山新介が勇将中村新兵衛、度々の手柄を(あらわ)しければ、時の人これを(やり)中村と号して、武者の棟梁とす。羽織は猩々緋、兜は唐冠金纓なり。敵これを見て、すはや例の猩々緋よ、唐冠よとて、(いまだ)戦はざる先に敗して、(あえ)てむかひ近づくものなし。

或人、(しい)て所望して、中村これを与ふ。その後戦場にのぞみ、敵、中村が羽織と兜を見ざるゆゑに、競ひかかりて切り崩す。中村戈(ほこ。槍)を振つて敵を殺すことそこばくなれども、中村を知らざれば敵恐れず。中村つひに戦没す。

これによつて曰く、敵を殺すの多きを以て勝つに非ず、()を輝かして気を奪ひ、勢を(たまわ)すの理をさとるべし。
(『常山紀談』拾遺巻之四)

摂津国(大阪府北部)の半分を治めていた松山(まつやま)新介(しんすけ)の家臣に、数々の武勲を立てて「鎗中村」と恐れられた中村(なかむら)新兵衛(しんべえ)という豪傑がいた。猩々(しょうじょう)()の陣羽織と、(とう)冠金纓(かんきんえい)の兜がトレードマークで、戦場でそれを見ると敵は「鎗中村だ!」と恐れおののき、戦う前から逃げ出してしまう。

ところが、ある者が「どうしてもその兜と陣羽織を貸して欲しい」と言うので新兵衛は仕方なくこれを貸し与え、自分は別の甲冑で出陣した。すると敵兵たちは、その武者が「鎗中村」とは思っていないものだから少しも怯まず襲いかかり、新兵衛は奮戦むなしくついに討死にをしてしまう。

この事から得られる教訓は、戦に勝つにはただ敵を多く殺せばよいのではなく、威を発揮して敵の戦意をそぎ、実力を発揮させないことが肝要なのである。
(『常山紀談』拾遺巻之四(現代語訳))

『常山紀談』と菊池寛『形』の比較

  1. 猩々緋(と唐冠の兜を貸した相手
    『形』――――――新兵衛が守り役として我が子のように慈しみ育ててきた「若い侍」で快く貸している。
    『常山紀談』―――「ある人」で渋々貸している。
  2. 新兵衛の最期について
    『形』――――――二、三人突き伏せることさえ容易ではなく、貸したことを後悔している。そして「槍が彼の脾腹を貫いていた。」で物語を終える。
    『常山紀談』―――「多数の敵を殺しながら死んでしまった。」で、物語を終える。
  3. 教訓の部分
    『形』――――――教訓じみたことは書かれていない。
    『常山紀談』―――「敵を殺すの多きを以て勝つにあらず。威を輝かして気を奪ひ、勢を(どう)すの理を(さと)るべし。」と戦いに勝つための必勝法が書かれている。
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あとがき【『形』の感想を交えて】

 「人間は外見よりも内面(心)が大切」と思っている人は多いと思います。けれども実際は、外見に、裕福さや美しさ、またはスタイリッシュさを追い求めています。

 このような矛盾こそが “ 人間の精神構造 ” と言えるでしょう。
内面は接して見なければ分かりません。けれども一方で外見は一目で分かります。そこで、「虎の威を借る何とやら」が登場します。

 新兵衛から猩々緋と唐冠の兜を借りた若侍がまさしくそれです。つまりは新兵衛の言うところの “ 形 ” の威力を良く理解していました。

 その新兵衛は勿論、武勇を重ねて “ 形 ” を手に入れます。けれども次第に、己の実力よりも “ 形 ” のほうが勝っていくことに気付きませんでした。いつの間にか新兵衛自身も「虎の威を借る何とやら」になっていたのです。

 似たようなことを現代でも目にすることがあります。
大企業の肩書を捨てた途端に、ただの人になってしまう。とか、いつも自慢をしていた知り合いの有名人が落ちぶれたら、鼻にもかけられなくなった。等々。

 確かに “ 形 ” も大事です。が、“ 形 ” に振り回されないように、常日頃から自分自身を見つめることが必要です。謙虚さを忘れずに。

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