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菊池寛『奉行と人相学』あらすじと解説【人は見かけで分かる?】

一読三嘆、名著から学ぶ
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はじめに【第一印象について】

 ビジネスにおいて、またはプライベートにおいても、第一印象がその後の人間関係を築いていくうえで重要な要素になると言われています。第一印象には服装やメイク、そして声のトーンや話し方、または香りなども含まれます。

 そう言えば、詐欺師は第一印象を良く見せることに、細心の注意を払っていると何かの本で読んだことがあります。それだけ、第一印象とは大切なものなのでしょう。

 一方でまた「人は見かけによらぬもの」といった言葉も良く耳にします。確かに深い関係にならなければ、真実の人となりは見えないものです。しかしながら、やはり第一印象が悪ければ、そういった関係性に至ることすらありません。

 そこで「じゃあ、人間をどうやって見分けるの?」といった、ひとつの疑問にぶつかります。この疑問を解き明かすべく、古代ギリシャでは、ヒポクラテスやアリストテレス、そしてプラトンといった哲学者たちが『人相学』について研究をしました。

 中国では紀元前から「相人」「相人術」と呼ばれる人相占いがあり、それは政治や文化にも様々な影響を与えます。もしも『人相学』で人間を判断できたらどんなに楽でしょう。きっと詐欺師に騙されることもなくなります。

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菊池寛『奉行と人相学』あらすじと解説【人は見かけで分かる?】

菊池寛とは?

 明治から昭和初期にかけて活躍した小説家、劇作家です。菊池(かん)。(1888~1948)
菊池寛(本名・菊池(ひろし))は明治21(1888)年12月26日、香川県高松市に生まれます。明治43(1910)年に名門、第一高等学校文科に入学します。

 第一高等学校の同級に芥川龍之介、久米正雄、山本有三らがいましたが、諸事情により退学してしまいます。結局、紆余曲折の末に京都帝国大学文学部に入学し、在学中に一校時代の友人、芥川らの同人誌『新思潮』に参加します。

   芥川龍之介

 大正5(1916)年、京都大学を卒業後、「時事新報」の記者を勤めながら創作活動を始め、『(ただ)(なお)(きょう)行状記』『恩讐の彼方に』『藤十郎の恋』等の短編小説を発表します。大正9(1920)年、新聞小説『真珠夫人』が評判となり、作家としての地位を確立していきます。

 大正12(1923)年、『文藝春秋』を創刊し、出版社の経営をする他にも文芸家協会会長等を務めます。昭和10(1935)年、新人作家を顕彰(けんしょう)する「芥川龍之介賞」「直木三十五賞」を設立します。

 しかし、終戦後の昭和22(1947)年、菊池寛は、GHQから公職追放の指令が下されます。日本の「侵略戦争」に『文藝春秋』が指導的立場をとったというのが理由でした。その翌年の昭和23(1948)年3月6日、狭心症を起こして急死してしまいます。(没年齢・59歳)

    菊池寛

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『奉行と人相学』あらすじ(ネタバレ注意!)

 大岡(おおおか)越前(えちぜんの)(かみ)は、江戸町奉行になってから人相に興味を持ち始めます。それは毎日のように犯罪者の顔を見ているからでした。大抵はその罪状どおりで、凶悪な顔をしています。

 ところが、中には虫も殺さないような美しい顔をしていても、人殺しのような凶悪な犯罪をしている場合があります。そこで越前は、人相学というものを研究しなくてはならないのかと、考えていました。

 ちょうどその頃、旗本の山中()(ぜん)と知り合いになります。左膳は儒学において、室鳩巣(むろきゅうそう)の代講までするほどの秀才でしたが、途中から易学に凝り出して、易、人相、手相などの研究をしていました。


    室鳩巣(むろ きゅうそう)

 ある酒席のことでした。人相が話題に上ります。越前が人相に興味があることを話すと、左膳は「では少し御伝授(ごでんじゅ)いたそう。拙者、お(やしき)に出向いてもよい」と言います。

 越前は(物を教わるのに、こちらから出向かない法はない)と考え、その申し出を辞退します。けれども左膳は、「拙者、手弁当で出かける。」と、大変な張り切りようです。

 これでは越前も断れなくなります。とうとう、左膳の人相学の教授が始まりました。左膳は三日とあげずやって来ます。教授を受けて見ると、なかなか興味深くて、越前も真剣に耳を傾けました。



 こうして二カ月半、左膳の教授を受けます。すると、もう左膳のほうは教えることがなくなりました。最後の教授の日、左膳は越前にこう言います。

 「普通の人相見は、実際にその人間の性根や行状を調べることが出来ない。ところが、貴殿はそれが出来る。そのお志があれば、天下第一の人相見になれるだろう」と。

 しかし越前は(裁判は、あくまで自分の良識に依ることにし、人相はあくまで、参考に止めて置こう)と考えていました。

―――そんなある日、盗賊の()(ねずみ)長吉(ちょうきち)が白洲に引かれてきます。

 越前が目を通していた調書には[義賊と云う噂がある。金銭を恵まれたる貧民は、数限りもないほどである]という備考書がついていました。

 本来なら佐渡送りの罪科でしたが、備考書に心を動かされた越前は、三年位の島送りにしてやろうと思っていました。が、白洲で直接本人の顔を見たとき、越前の心はさらに動いてしまったのでした。

 それは、長吉の人相に―――隠徳の相が出ていたからです。

※ 隠徳・陰徳(人に知られないようにひそかにする善行。隠れた、よい行い。)

 越前は、長吉と話をして見たくなります。そして(出来ることなら更生させてやりたい)と考えます。「長吉とやら、何歳になるか。」越前が話しかけます。その場にいる与力達が驚きます。奉行が直接犯人に話しかけるなど珍しいことだからです。

 「へい、二十五でございます」長吉は平然と答えました。越前が「近隣の貧しい者達に、時々金銭を合力していたのか」と聞くと「時折、煙草(たばこ)(せん)ぐらいは……」と、やけにあっさりとしたものです。


      慶長一分判

 「裕福そうなお人を見ると、つい盗んでやりたくなります。貧乏なお人を見ると、ついくれてやりたくなります。もって生れた性分です。」越前は、長吉の罪状を軽くします。笞刑(ちけい)鞭打(むちう)ちの刑)という処分でした。

 ところが―――木鼠長吉は、改心しませんでした。
やがてまた捕らえられます。新しい罪状書を見た大岡越前は、眉をひそめてしまいます。犯行がいっそう酷くなっていたからでした。

 こうなると、一度は処罰を軽くした責任もあるから、死罪の判決を下すしかありません。死罪の場合は、将軍の裁可を受けることになっています。越前は書類に長吉の名を加え、幕府に提出しました。

 それから十日ばかり経つと、書類が戻ってきました。ところが、長吉には死罪の裁可が下りていません。これは明らかに将軍の不注意です。越前は同心らと、もう一度提出するべきかどうかを相談します。



 しかし、書類は正式なものでした。越前は、もう一度長吉を許してやろうと決心します。そして、意地でも更生させてやろうと思ったのでした。

 判決の日がきました。長吉は面目なさそうに、うつむいたままでした。
越前は長吉に「死罪は、覚悟しているだろうな。」と言います。長吉は「はりつけでも獄門でもどうぞ、御存分に……」と答えます。

 越前はじっと長吉の顔を見ました。ところが、長吉の顔には、ますます、はっきりと隠徳の相が浮かび上がっています。

 「長吉、もう一度お上の慈悲を受けることになったぞ……」
越前が言うと、長吉は縛られている身体を左右にふりながら「お奉行そりゃいけません。生かしておくと、またやります。どうぞ、スッパリとやって下さいませ。」と、心の底から訴えます。

 越前は長吉に「お前の恩を、泣いて喜んでいる者が、いく人か居るに違いない。思い出して見い!」と言います。長吉は黙っていましたが、越前の催促にたまらず、少しずつ口を開いていきました。

 三日間も食べていないという、夜泣き蕎麦の小僧にお金を恵んでやり、その後も何かと面倒を見ていたこと。また、五十両を盗まれて、身投げをしようとしていた老人を助け、盗みを働いてその金を用立ててあげたことを、越前に話しました。

 越前は長吉に言います。
 「長吉よく物を考えて見よ、そちも、人の金を盗むことで、その人の生命を奪っていることもあるのだぞ。」

 長吉は言葉を返します。
 「お言葉を返すようでございますが、私は金持のお武家や町人ばかりを狙っていますので、その金で向う様が、首を吊るとか身を投げるとか……」

 越前はその言葉を遮って判決を言い渡します。
 「江戸お構いにし、わしの知行所である越前へ送ろう。が、庄屋へ添状をつけてやるから、百姓をいたすがよかろう。わしの知行所の村は、お前が恵んでやりたいような貧乏人もいない、またそちが金を取りたくなるような金持もいない。長吉、そこへ行って見るか。」

 「怖れ入りました。ありがとうございます」長吉は頭を下げたまま、上げることができませんでした。越前は、人相の鑑定が当たった嬉しさと、甘やかしているかもしれないという、自分自身の反省に、しばらくの間悩まされました。

青空文庫 『奉行と人相学』 菊池寛
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『奉行と人相学』【解説】

物語の時代背景

 菊池寛の短編小説『奉行と人相学』の主人公は、ドラマや映画にも度々登場する、名奉行・大岡越前守です。つまり、江戸時代の中期、8代将軍・徳川吉宗が享保の改革を進めていた頃の物語です。


  8代将軍・徳川吉宗

 徳川吉宗の統治の時代には、それまで権力者の裁量に任されていた量刑を、一定の法によって裁定する『公事方御定書科』が完成しています。のちに「大岡裁き」と呼ばれる名奉行ぶりも、こういった時代背景から生まれたものです。

大岡越前守(おおおか‐えちぜんのかみ)とは?


  大岡忠相

 大岡越前守とは江戸時代中期の幕臣、そして江戸町奉行・大岡忠相(ただすけ)のことです。(延宝5(1677)年~宝暦元(1751)年)

 忠相が山田奉行時代、当時、紀州藩主だった徳川吉宗に認められます。そして後年、吉宗が将軍に就任したとき、江戸町奉行に抜擢されました。

 町奉行を 20年間勤め上げ、その後、寺社奉行となり、寛延1 (1748) 年には加増を受けて、1万石の大名に列せられます。

山田奉行(やまだ‐ぶぎょう)
 〘名〙 江戸幕府の遠国奉行の一つ。老中の支配に属し、伊勢国(三重県)山田に駐在して、伊勢神宮の警衛および造営の奉行役にあたるとともに、伊勢・志摩の天領の支配および鳥羽港の船舶の点検にあたった。

出典:精選版 日本国語大辞典
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あとがき【『奉行と人相学』の感想を交えて】

 わたし自身、かつて詐欺というかちょっとした投資話に引っかかったことがあります。
話を持ちかけてきたのは、一見、気の弱そうな、それでいて会話が丁寧で、間違いなく騙されるほうのタイプといった感じの人間でした。

 知り合いが二人、すでに投資していたというのもあって、少額ですがその人間にお金を預けました。ところが数日経ったらその人間と連絡が取れません。投資会社のホームページは閉鎖されていました。

 知り合いと一緒に警察に被害届を出しましたが、結局そのお金は戻ってきませんでした。それからです。初対面の人間に身構えるようになってしまいました。確かに人は見かけによりませんね。

 まあ、わたし事は置いといて、『奉行と人相学』の大岡裁きは見事なものです。
長吉の「裕福そうなお人を見ると、つい盗んでやりたくなります。貧乏なお人を見ると、ついくれてやりたくなります。」という言葉に、喝采を浴びせたくなります。

 つまるところ、格差はいつの時代にもあります。大岡越前の言う「貧乏人もいなければ金持ちもいない。」そんな理想郷は、この世界のどこにも存在しないでしょう。

 得てして人は、搾取され、搾取して、生きる動物なのですから。

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