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中島敦『弟子』あらすじと解説【認め合う美しき「師弟愛」!】

一読三嘆、名著から学ぶ
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はじめに【以沫相濡(いまつそうじゅ)】

 「荘子」にこういう話があります。
泉の水が涸れたため、池にいた魚たちは、陸地に放りだされてしまいました。そこで魚たちは互いに水を吹きあって、つばをかけあって相手に水分を与えて助けあいます。

 けれども魚たちは、そういう無意味な助けあいなどよりも、豊かな水の中でお互い付き合うこともなく、安心して生活するほうがましだと考えます。

 そこから「以沫相濡」―――(まつ)(つばや水など)を(もっ)()()らす。という言葉が生まれます。

 「荘子」の思想とは、いわゆる儒教の全面否定です。つまり現代に置き換えるなら、人間社会を拒否して、自由に生きていこうとする人たちのことです。

 一方「儒教」は、美しいものに絶対基準を作り、そこから遠ざかるにしたがって、美しくないとする思想です。人間社会の中にあって、人間として生きていこうとする人たちのことです。

 中島敦『弟子』の主人公・子路もまた、そんな人間でした。

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中島敦『弟子』あらすじと解説【認め合う美しき「師弟愛」!】

中島敦(なかじまあつし)とは?

 昭和初期に活躍した小説家です。中島(あつし)(1909-1942)は東京に生まれ、東京帝国大学国文科を卒業後、横浜高等女学校で教壇に立つかたわら執筆活動を始めます。

 持病の喘息と闘いながらも執筆を続け、1934年、『虎狩』が雑誌の新人特集号の佳作に入ります。1941年、南洋庁国語教科書編集書記としてパラオに赴任中、中島代表作のひとつ『山月記』を収めた[古譚(こたん)]を刊行しました。

 その後、創作に専念しようとしましたが、喘息が悪化し、急逝してしまいます。(享年33歳)
『弟子』『()(りょう)』等の代表作の多くは死後に発表され、その格調高い芸術性も死後に脚光を浴びることになります。

    中島敦

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『弟子』(ていし)とは?

 『弟子』とは、作者・中島敦の没後、昭和18(1943)年2月、『中央公論』に発表された短編小説です。その後、昭和21(1946)年2月に、小山書店から刊行された単行本『李陵』に収録されます。

 孔子の弟子・子路を主人公とした物語で、『孔子家語』『論語』を原典として描かれています。

孔子(こうし)とは?

 孔子(名は丘・字は仲尼)は中国・春秋時代の学者、思想家です。(前551-前479)
()(すう)(山東省)に生まれますが、幼くして父母を失い、貧苦のなか独学で学問を修めます。

 早くからその才徳は知られ、壮年になって魯に仕えます。しかし、のちに官を辞して諸国を遍歴し、十数年間、諸候に仁を説いて回ります。晩年は魯に戻り、弟子の教育に専念します。

 儒教の祖として尊敬され、日本の文化にも古くから大きな影響を与えます。弟子の編纂(へんさん)になる言行録『論語』は、現在でも世界中で読まれています。

湯島聖堂にある孔子像

子路(しろ)とは?

 子路(名は由、姓は仲)とは、中国・春秋時代の孔子の門人で十哲の一人です。(前543-前481)

 武勇に優れ、正義感が強く、師に対しても率直に意見を述べました。衛の蕢聵(かいかい)の内乱で戦死し、その死体は塩漬けにされ、孔子を悲しませたと伝わっています。

『論語(ろんご)』とは?

 『論語』は孔子の弟子たちによって編纂された、儒教の経典です。
『大学』『中庸』『孟子』とともに「四書」の一つに数えられています。

 その説くところは日常生活に即した実践的倫理であり、孔子の思想を最もよく伝えています。設立に関しては諸説あります。

 現在では孔子の弟子たちの伝えた言行録が3系統あったものを孟子(もうし)の時代に編集して、『論語』の原本とも言うべき『古論語』が成立し、それが漢代までに選択整理されたと考えられています。

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『論語』が生まれた時代背景

 孔子が生きた春秋時代の中国は、各地で領土を奪い合う、まさに群雄割拠の時代でした。

 孔子は、そんな世を憂いて、人間愛としての「仁」、心の主張としての「忠」、そして、親への孝行、年長者への(てい)(じゅん)などを説きました。また、利欲を離れて自己を完成させる「学」の喜びなども述べています。

日本人と論語について

 『日本書紀』によれば、『論語』が日本に伝わったのは、応神天皇16年、百済から伝来したといわれています。そこから徐々に広まり、平安時代には漢籍の一つとして貴族の間で読まれていました。

 その後、日本で儒教が正式な学問として確立したのは江戸時代になってからです。第五代将軍徳川綱吉の時代には、儒学講義の場として湯島聖堂が建立され、近代教育発祥の地とされています。

     湯島聖堂

 また、諸藩も藩校(藩士を育成するための学校)を建てるなどして、儒学教育に力を入れるようになっていきます。弘道館(水戸藩)や致道館(庄内藩)などが有名です。それだけではなく、庶民の間でも寺子屋などで儒学を学ぶようになっていきます。

 明治時代になると徐々に廃れて行きますが、日本資本主義の父・渋沢栄一が『論語と算盤』を刊行したことで、『論語』の存在が、強く日本人の心に印象づけられます。

 渋沢は「正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ」と、利益至上主義を諫めながら、企業活動にも『論語』の道徳が必要だと説いています。

『弟子』あらすじ(ネタバレ注意!)

 主人公の子路は、武を好む遊侠の徒でした。子路は思い立ちます。近頃賢者と噂になっている孔子に恥をかかせてやろうと。ところがこの子路、激しい問答の末に降参し、即日孔子の門人になることを決めたのでした。実は子路、孔子の姿を一目見たときから圧倒されていたのです。

※ 游侠(ゆうきょう) 仁義を重んじ、強きをくじき、弱きを助けること。男だて。また、その気風の人。侠客。「―の徒」

 門人になった子路にとって孔子は驚くべき人間でした。人間的に全てにおいて完璧なのです。それは子路の誇る武芸においてもでした。ただ用いないだけなのです。子路はすっかりとこの師に心酔してしまいます。

 孔子もまた子路という人間に驚いていました。それはこの弟子ほど「形」を軽蔑し、利害を考えない男も珍しかったからです。孔子は子路のこういった美点を高く買っていました。そんな子路、孔子の門人になってから親孝行になったと親戚中の評判です。

 ある日、子路は、かつての游侠仲間から師の悪口を言われました。そのことに腹を立てた子路は拳で殴ってしまいます。このことを知った孔子は「昔の君主は、他人が不善をおこなうとき、真心でこれを正し、他人から侵されようとするときは、仁の心によって身を守った。」と、説教をしたのでした。

 数日後、またもや町で師のことを悪く言う人間を目にします。子路がその人間の前に歩み出ると、その形相を見ただけで姿を隠してしまいます。それからは子路の姿が見えるだけで人々は口を(つぐ)むようになりました。一年ほど経ってから孔子は言います。「そなたが入ってから悪口を耳にしなくなった」と。

 弟子の中で子路ほど孔子に叱られ、また遠慮なく反問する者はいませんでした。それは心の奥底に決して譲れぬ部分があったからです。それは侠とも信とも義とも言えぬ複雑な心情です。孔子は子路のこういった性格的な欠点を魅力と考えていたのでした。

 当時、世の中は乱れに乱れていました。魯国でも内乱の末に昭公が国を追われ、宰相の陽虎が実権を握っていました。ところが陽虎が失脚したことで、孔子が中都の宰として用いられることになります。孔子は短い期間で驚異的な治績をあげました。

 驚嘆した主君の定公は、孔子に魯国の舵取りを任せます。そして孔子の推挙で子路も仕えることになりました。国は孔子の施政のもとに繁栄していきます。このことを恐れた隣国の斉は策を投じます。それは美女の集団を魯国に送るというものでした。

 やがて魯の定公は、美女たちに溺れ、政務も疎かになっていきます。それに従い宮廷内も乱れていきました。子路は憤慨し、官を辞してしまいます。孔子は粘り強く務めていましたがついに諦め、櫓を立ち退くことにしました。これより孔子の永きにわたる遍歴が始まったのです。

 子路には大きな疑問があります。それは悪が栄えて善が滅びるといったありきたりの事実についてでした。そしてもうひとつ、師が不遇に甘んじていることについてです。子路の心は決まっています。孔子のために生命を捨てようと。

 その後、孔子ら一行は諸国を巡ります。孔子を国賓(こくひん)として招こうという国もありました。弟子の幾人かを用いた国もありました。けれども、孔子の政策を実行しようとした国はどこにもありません。孔子の政策の理想は、かつて周の国で施行されていた古法だったのです。

 盲目的に孔子を尊敬していた子路でしたが、だからといって不満がない訳ではありませんでした。それは師が口にする「身を捨てることの愚かさ」についてです。子路にとって「身を捨てることは “ 義 ” 」でしかありませんでした。

 この議論について二人の意見は常に平行線でした。孔子は子路の将来を憂います。(あの男は恐らく尋常な死に方はしないだろう)と。そして、「わたしはただ、人を殺すのを忍ぶ心を取るだけ。」と、言いました。

 孔子と共に放浪をしているうち、子路は五十歳になり、威風堂々たる男になっていました。そんな子路を孔子は、衛の重臣・孔叔圉(こうしゅくぎょ)に推挙し、仕えさせます。当時の衛の国は、南子夫人の乱行を中心に、絶えず紛争を重ねていました。

 太子・蒯聵(かいがい)が、義母・南子の暗殺を企て、それに失敗し晋へと亡命します。やがて蒯聵の父・霊公が亡くなり、やむを得ず蒯聵の子・(しゅつ)(こう)が衛侯の位に就きました。つまり親である蒯聵が子の位を奪おうと、虎視眈々狙っている状況だったのです。

※ このときの詳しい情勢は 中島敦『盈虚』に見る人間の権力への執着と、その虚しさ に書いています。

 子路は衛で、()の地を治めることになります。このとき子路は孔子の教えを実践し、見事な善政を敷いたのでした。三年後、孔子が蒲の地を通ったとき、「()(かな)」と会わずしてその功績を褒めます。孔子は、地の乱れの無さを見ただけで、子路の(まつりごと)を知り、褒めたのでした。

 ところが―――子路が使える孔叔圉が亡くなったことで、衛の国ではまたもや紛争が起こっていきます。蒯聵が策謀し、子・出公の排斥に乗り出したのでした。これにより孔叔圉の子供で子路の現在の主人・孔悝(こうかい)が捕えられます。

 子路は、周囲の制止も聞かず、一人で主人の救出に向かいます。けれども、全身を切り刻まれて殺されてしまいます。死の直前、子路は冠の紐を結んで絶叫します。
 「見よ! 君子は、冠を、正しゅうして、死ぬものだぞ!」

 弟子の訃報を知った孔子は、何も言葉は言わず、ただ涙を流します。その死体が塩漬けにされたことを聞いた孔子は、家の塩漬け類を捨てさせ、それからは一切食膳に上がらせなかったということでした。

青空文庫 『弟子』 中島敦
https://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/1738_16623.html

『弟子』【解説と個人的な解釈】

子曰、由、誨女知之乎。知之爲知之、不知爲不知。是知也。

()(いわ)く、(ゆう)(なんじ)(これ)()るを(おしえ)んか。(これ)()るを(これ)()ると()し、()らざるを()らずと()す。()()るなり。 [為政(いせい)第二]

(現代語訳) 
先師がいわれた。――「(ゆう)よ、お前に “ 知る ” ということはどういうことか、教えてあげよう。知っていることは知っている、知らないことは知らないとして、素直な態度になる。それが知るということになるのだ」

 このように『論語』の中でも、子路は孔子に何度もたしなめられ、怒られています。しかし、子路ほど、長い放浪の苦難を通じて、孔子に従った者はいませんでした。他の弟子たちは、「孔子の弟子」であることを理由に仕官の途を求めていたのに対し、子路だけは純粋な敬愛の情だけで師に付き従います。

() そんな真っ直ぐな気質は、子路の短所であり、また長所でもありました。孔子はそんな弟子を心から愛し導こうとしますが、子路の持つ「単純な倫理観」だけは、生涯変えることができませんでした。

 「孔子のために命を捨てる。」―――もしかしたら孔子は、子路のこうした危うい考えを取り除こうとして衛に推挙したのかもしれません。そして任された蒲の地で、子路は驚くべき統治能力を見せます。師に変わり、理想の(まつりごと)を実践したのです。

 しかし結局は孔子の予言通り、子路は敢えて政変に関わり、命を落とてしまいます。死の直前、子路は冠の紐を素早く結びます。これは「孔門の徒」として死ぬためでした。一方で、自分の譲れない部分、「身を捨てる “ 義 ” 」を師に見せつけたと言ってもいいでしょう。

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あとがき【『弟子』の感想を交えて】

 冒頭部分で「儒教」は、美しいものに絶対基準を作ると書きましたが、それは決して難しい意味ではありません。孔子の教え関係なく、誰しもひとりひとりが「自分だけの倫理観や美点」を持って生きているのですから。

 恋人同士が別れるとき、理由に「価値観の違い」をあげます。それは自分の絶対的価値観が美しいと思っているからこそ譲れないのです。けれども、例え相容れなくても認めあうことが大切です。孔子と子路の師弟もそのような関係性でした。

 現代社会で「人を育てる」ということは「型にはめる」ことを意味します。つまりは扱いやすい人間を量産することで組織を保ち、社会を形成してきたのです。その点、孔子は子路の倫理観を認め、決して型にはめようとはしませんでした。

 「師弟愛」―――現代人にはどこか古くさく感じる言葉かもしれませんが、仮に上下関係があるとしても、人と人とが「自分だけの倫理観」を認めあい、許しあうなら、「パワハラ問題」など起こらないものと考えます。

 中島敦の『弟子』という作品は、このことを、わたしたちに教えてくれているような気がします。―――決してつばだけは、かけあわないように。と。

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