はじめに【群集心理(集団心理)について】
ネットでの誹謗中傷が後を絶たないようです。
ひとたび批判の標的とされたら、凄まじい勢いで攻撃をされ、とことんまで追い込まれてしまいます。
その反面、似ている考えを持つ代弁者のことはまるで教祖かのように信奉し、どこまでも信じて着いていきます。例えそれが虚像だったとしても・・・。
―――群衆心理とは、非常に危ういものです。
わたしたちの日常は、幻影に踊らされているといってもいいでしょう。
そんなネット社会を覗いているとき、ふと、中島敦『名人伝』の物語を思い出してしまいました。
中島敦『名人伝』あらすじと解説【幻影を祭り上げる群衆心理!】
中島敦とは?
昭和初期に活躍した小説家です。中島敦(1909-1942)は東京に生まれ、東京帝国大学国文科を卒業後、横浜高等女学校で教壇に立つかたわら執筆活動を始めます。
持病の喘息と闘いながらも執筆を続け、1934年、『虎狩』が雑誌の新人特集号の佳作に入ります。1941年、南洋庁国語教科書編集書記としてパラオに赴任中、中島代表作のひとつ『山月記』を収めた[古譚]を刊行しました。
その後、創作に専念しようとしましたが、喘息が悪化し、急逝してしまいます。
『弟子』『李陵』等の代表作の多くは死後に発表され、その格調高い芸術性も死後に脚光を浴びることになります。享年33歳。
中島敦
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『名人伝(めいじんでん)』について
『名人伝』は、昭和17(1942)年12月号の雑誌『文庫』(三笠書房刊)に発表された中島敦の短編小説です。中島は同月4日に病死しており、生前最後に活字化された作品です。
中島は『列子』の中の、いくつかの小話を素材として『名人伝』を書き上げました。ちなみに『列子』とは、中国、戦国時代の思想家・禦寇(ぎょこう)の作といわれる思想書のことで、8編から成っています。
『名人伝』あらすじ(ネタバレ注意!)
趙の都・邯鄲に紀昌という男がいました。紀昌には天下第一の弓の名人になろうという志があります。そこで、弓矢の名手として名高い、飛衛のもとを訪ねて、門人にしてもらいました。
飛衛は新入りの門人に、先ずは「瞬きをしないように」と命じます。紀昌は家に帰ると、妻の機織り台の下に潜り込みました。機躡が上下に往来するのを、瞬きをせずに見つめているといった修練をするためです。
※機躡・招木(まねき) 織機の道具の一つで、足の親指で踏んで綜を上下させる板のこと。
紀昌はこの修練を来る日も来る日も続けます。すると二年後には、完全に瞬くことをしなくなります。熟睡しているときでも、紀昌の目は見開いたままでした。
師の飛衛にこのことを教えると、次は「視ることを学べ」と命じます。紀昌は再び家に戻ると、虱を一匹探し出して、これを自分の髪の毛に繋いで、南向きの窓にかけます。
紀昌は終日、窓にぶら下った虱を見続けて暮らします。すると、三か月を過ぎた頃から、虱が蚕ほどの大きさに見えてきました。紀昌は虱を何十匹と取り換えながら、三年もの間この修練を続けました。
ある日、ふと気が付くと、窓の虱が馬のような大きさに見えます。表に出ると、人は高塔、馬は山のような大きさです。紀昌は家に帰り、虱を矢で射貫いてみました。その矢は見事に虱の心臓を貫いていたのです。
紀昌は早速、師にこのことを報告します。飛衛は初めて「出かしたぞ!」と褒めて、射術の奥儀秘伝を余すことなく、紀昌に授けたのでした。紀昌の上達は驚くほど速く、二か月もすると、師の飛衛さえも凌駕するほどの腕前に達していました。
※凌駕(りょうが) 他のものを越えてそれ以上になること。
―――もはや師から学ぶことはない。
そう考えた紀昌は、(天下第一の名人となるためには、師の飛衛を除かねばならない)と、密かにその機会を窺っていました。
そんなとき、荒野にて、一人で歩いていた飛衛に出くわします。紀昌はとっさに矢を射ります。飛衛もまた弓をとって応戦しました。この戦いは互角です。紀昌の心には慙愧の念が沸き起こります。二人は駆け寄って抱擁をしました。師弟愛とは分からぬものです。
※慙愧(ざんき) 恥じ入ること。
抱擁しながらも飛衛は、この危険な弟子について(甚だ危ない)と考えました。そして、紀昌に新たな目標を与えることにし、こう言います。
「西の霍山に隠棲する老師・甘蠅を訪ねよ。老師の技に比べれば、我々の射のごときは、児戯に等しい。」
※隠棲(いんせい) 俗世間をのがれて静かにくらすこと。
※児戯(じぎ) 子供の遊び事。いたずら。
紀昌は直ぐに西に向かって旅立ちます。児戯に等しいと言った師の言葉は、深く紀昌の自尊心を傷つけました。とにかく早く会って腕を比べたいと思ったのです。
一か月後、紀昌はとうとう霍山にたどり着きます。紀昌を迎えたのは、酷くよぼよぼの爺さんでした。腰は曲がっていて、年齢は百歳をも超えていそうです。
紀昌は「自分の技を見てもらいたい。」と述べると老人の返事を待たずに、空高くを飛んでいる渡り鳥の群れに狙いを定め、矢を射ります。すると、たちまち五羽の大鳥が落ちてきました。
それを見た老人は、微笑を浮かべながら「それは所詮射之射というもの、好漢いまだ不射之射を知らぬと見える。」と言い放ちます。そして、ムッとした紀昌を少し離れた断崖絶壁まで導きます。
老人は、その断崖から半分宙に乗り出した石の上に立って「どうじゃ。ここで先刻の業を今一度見せてくれぬか。」と言います。紀昌は言うとおりに、石の上に立って矢を射ようとしました。
そのとき、石が微かに揺れます。それでも勇気を奮い、矢を放とうとしますが、崖から小石が一つ転がり落ちました。その行方を目で追った紀昌は、思わず石の上に伏してしまいました。
老人は笑いながら、紀昌と入れ替わり、石の上に乗ります。そして、「では、射というものをお目にかけようかな。」と言いました。けれども老人は弓矢を手に持っていません。
ちょうど彼らの頭上高く、一羽の鳶が飛んでいます。老人は、見えざる矢を空に向けてひょうと放ちました。そしたら驚くことに、鳶が羽ばたきもせずに、空から落ちてくるではありませんか。紀昌は慄然とします。
※慄然(りつぜん) 恐ろしさにぞっとするさま。ふるえおののくさま。
―――九年の間、紀昌は老名人のもとに留まります。
九年後、山を降りてきたとき、紀昌の顔つきは変わっていました。精悍な面構えは影をひそめて、愚者のような容貌になっていたのです。
この顔付きを見た旧師の飛衛は感嘆して叫びます。
「これでこそ初めて天下の名人。我らのごとき、足元に及ぶものではない!」
邯鄲の都は、天下一の名人となって戻って来た紀昌を迎えて沸き返ります。その妙技がいずれ披露されると思ったからです。けれども紀昌は一向にその要望に応えようとはしませんでした。

紀昌は言います。
「至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなし。」
(究極の行為はもはや行わないことであり、究極の言葉はもはや発しないことであり、究極の弓の名手はもはや弓を取らないことだ)
弓をとらない弓の名人として、彼の無敵の評判はますます喧伝されていきます。そんな名人紀昌も次第に老いていきます。甘蠅師の許を辞してから四十年の後、紀昌は静かに世を去りました。その四十年の間、弓矢を持つことはおろか、射について口にすることもありませんでした。
※喧伝(けんでん) 世間に言いはやし伝えること。盛んに言いふらすこと。
紀昌が亡くなる一、二年前の話です。
知人の許に招かれた紀昌は一つの器具を目にします。確かに見覚えのある道具ですが、どうしてもその名前、そしてその用途が思い出せません。
紀昌老人は、その家の主人に「これは何か?」と尋ねます。
―以下原文通り―
「ああ、夫子が、――古今無双の射の名人たる夫子が、弓を忘れ果てられたとや? ああ、弓という名も、その使い途も!」
その後当分の間、邯鄲の都では、画家は絵筆を隠し、楽人は瑟の絃を断ち、工匠は規矩を手にするのを恥じたということである。
青空文庫 『名人伝』 中島敦
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『名人伝』【解説と個人的な解釈】
紀昌は「天下第一の弓の名人」になるため、飛衛の門に入って様々な修練を積みます。そして師・飛衛を殺めることで自らの「名」を高めようとします。そんな紀昌を危うく感じた飛衛は、霍山に隠棲する老師・甘蠅を紹介します。
そして甘蠅の「不射之射」の技を見た紀昌は九年間の修行の末に山を降ります。さてこの「不射之射」ですが、原典『列子』では甘蠅の物語ではなく、「黄帝第二 第五章」の伯昏無人の技として書かれていています。
そこには「神気変せず」、心の鍛錬の重要さが説かれています。中国では伝統的な民間療法として「気功」という心身鍛錬法があります。この「気功」を取り入れた武術が「太極拳」です。つまり甘蠅は、心の鍛錬の果てに「気」で矢を射ることができたと解釈することができます。
次に果たして紀昌は名人になれたのか?という点ですが、これは研究者の間でも意見が分かれています。余談になりますが宮本武蔵も晩年、無刀の境地に達したと云われています。幕末の坂本龍馬や勝海舟は信念のもとに刀を抜かなかったといいます。
宮本武蔵は無論のこと、坂本も勝も剣術に関しては免許皆伝の腕前でした。このことを考慮すると、紀昌はやはり名人でした。そのほうが個人的に腑に落ちます。
あとがき【『名人伝』の感想を交えて】

『名人伝』の主人公・紀昌は一度たりとも弓の腕を披露していません。旧師の飛衛が放った「これでこそ天下の名人!」の言葉と “ 弓をとらない弓の名人 ” といったいわゆるキャッチコピーで、その名人像は巨大化していきます。
現代社会でも似たような事例は多く見受けられます。例えば有名人の “ カリスマ性 ” などはマーケティング戦略の一環としてキャラ設定される場合もあります。わたしたちはそんな戦略にまんまと乗せられたりもします。
ある意味「虚像」とも呼べるものですが、やがてそんな虚像が本人の意識とは別に独り歩きし、あたかも本物の “ カリスマ性 ” かのように人々の頭に刷り込まれていきます。
名人伝』を読んで思うことは、冒頭でも書いたように「幻影」に踊らされることの危険性です。その幻影が自分の願望と異なる行動を取ったとき「可愛さ余って憎さが百倍」になる恐れもあるからです。
ともかくとして、何ごとに対しても一歩引いて冷静な目で見ることが大事なのでしょう。
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