はじめに【「能楽」という伝統芸能について】
「能楽」と聞いて、どのような印象をもたれるでしょうか。周りに聞いても、「なんか難しそう」「何を言っているのか分からない」「お面が恐い」などなど、そもそもちゃんと観たことがないといった意見がほとんどでした。
「能楽」の起源は奈良時代にまで遡ると言われています。かつては「猿楽」と呼ばれ、名前から想像されるように、笑いをとる寸劇や曲芸を中心とした庶民の為の娯楽でした。それが室町時代、世阿弥らが一気に芸術へと押し上げていきます。
そんな「能楽」を、三島由紀夫が現代風にアレンジした戯曲集『近代能楽集』から『卒塔婆小町』をご紹介します。
世阿弥(ぜあみ)とは?
左衛門太夫元清。室町時代の能役者・能作者。(1363-1443)観阿弥清次の子。父につぎ3代将軍足利義満の同朋衆として庇護をうけ、父の芸風に歌舞的要素と禅的幽玄美を加えて能を大成した。
出典:旺文社日本史事典 三訂版
のち6代将軍足利義教に、甥音阿弥が登用されると、子元雅とともに冷遇・圧迫されたが、逆境でさらに芸風を深めた。『風姿花伝』『花鏡』『申楽談儀 』など能楽書23部が伝わる。
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三島由紀夫(みしまゆきお)とは?
三島由紀夫(本名・平岡公威)は、戦後の日本文学界を代表する小説家、劇作家です。(1925~1970)
三島は、大正14(1925)年1月14日、東京市四谷区(現・東京都新宿区四谷)に生まれます。
昭和6(1931)年、学習院初等科に入学し、中等科在学中には三島由紀夫のペンネームで『花ざかりの森』を発表し、早熟の才をうたわれます。
その後、学習院高等科を経て昭和19(1944)年、東京帝国大学法学部に進みます。大学在学中に終戦を迎え、この頃、生涯にわたる師弟関係となる川端康成と出会います。
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昭和22(1947)年、東京大学を卒業し、大蔵省に就職しますが、まもなく退職、作家生活に入ります。昭和24(1949)年、『仮面の告白』で作家としての地位を確立します。
その後、『禁色』『潮騒』『美徳のよろめき』『金閣寺』『鏡子の家』など、次々と話題作を発表し、文学界の頂点に達します。昭和36(1961)年発表の『憂国』以後は、戦後社会を否定し、思想的に右傾していきます。
昭和43(1968)年、学生たちと「楯の会」を結成します。昭和45(1970)年11月25日、三島は自衛隊市ヶ谷駐屯地に乱入し、決起を訴えますが果たさず、割腹自殺します。(没年齢・45歳)
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戯曲『卒塔婆小町』(そとばこまち)について
戯曲『卒塔婆小町』は、昭和27(1952)年、雑誌『群像』1月号に掲載され、同年2月には文学座アトリエ第6回公演として初演されます。三島由紀夫が、謡曲(能の音楽部分のこと。謡とも呼ばれる)を近代劇に翻案した『近代能楽集』の三曲目にあたります。
※卒塔婆(そとば) お墓の後ろに並べて立てる縦長の木板のこと。
※翻案(ほんあん) 前にだれかがした事柄の大筋をまね、細かい点を造り変えること。特に小説・戯曲などについて言う。
ちなみに三島由紀夫は『卒塔婆小町』について覚書で次のように記しています。
小町は、「生を超越せる生」、形而上学的生の権化である。詩人は肉惑的な生、現実と共に流転する生の権化である。小町には、決して敗北しないといふことの悲劇があり、詩人には、浪漫主義的な、「悲劇への意志」がある。二人の触れ合ひはこの種の誤解と、好奇心と軽侮をまじへた相互の憧れに基いてゐる。
(『卒塔婆小町演出覚え書』三島由紀夫)
『卒塔婆小町』の原曲について
『卒塔婆小町』の原曲は、憑霊物・老女物の現在能です。
舞台は京都の郊外です。高野山の僧侶が旅の途中休んでいると、百歳の老婆がやって来て、そこにあった卒塔婆に腰をかけます。それを見た僧侶が、「卒塔婆は仏体である」と咎めると、老婆は仏法の奥義をもってこれに反論します。僧侶は感心して老婆に名を訊ねます。
すると老婆は、「小野小町の成れの果てである」とあかし、今の身の境遇を嘆きます。そのうち小町は、狂乱状態となってしまいます。小町には、自分を恋慕した深草少将(四位の少将)の怨霊が憑りついていたのです。
その昔、深草少将は、小町に恋心を打ち明けます。そのとき小町は、「百夜私のもとに通ってきたら、恋を受け入れましょう」と言います。深草少将は毎日通い、九十九夜まで通ったのですが、最後の一夜を残して死んでしまいます。
そんな深草少将の怨念が残り、老婆になった小町を苦しめていたのです。小町は狂乱の内に、深草少将の百夜通いの様子を見せます。そしてやがて我に返った小町は、「後世を願い、仏道を念じて悟りの道に入ろう」と言うのです。
『近代能楽集』(きんだいのうがくしゅう)とは?
『近代能楽集』は、三島由紀夫の戯曲集のことで、能の謡曲を近代劇に翻案したものです。国内のみならず海外でも舞台芸術として好評な作品群で、独自の前衛的世界を醸し出しています。
昭和31(1956)年に新潮社より刊行されたものには、『邯鄲』『綾の鼓』『卒塔婆小町』『葵上』『班女』の5曲が収録され、昭和43(1968)年刊行の新潮文庫版には、『道成寺』『熊野』『弱法師』の3曲を加えた全8曲が収録されました。
『卒塔婆小町』あらすじ(ネタバレ注意!)
夜の公園で、見るにみすぼらしい老婆が煙草の吸殻を拾っています。五つあるベンチでは五組の恋人たちが抱擁を交わしていました。老婆はそんな恋人が座る一つのベンチに腰を下ろします。老婆が来る前から座っていた一組の恋人同士は、腹立たしげに去ってしまいます。
その様子を見ている、ほろ酔いの詩人がいました。老婆はベンチを独り占めし、拾った吸殻を数えています。詩人は老婆に近づいて、「何だって決まった時刻にここに来て、折角座っている人を追い出してまでベンチに座るんだ?」と訊ねます。
老婆は、「わたしが座ると、あいつらが出て行くだけのことさ。」と、言い返します。詩人は、「ここは夜になるとアベック(カップル)用だよ。ここに座りたいと思っても遠慮する。」と言いました。
老婆は、「あんたの詩のタネあさりの場所なんだね。」と、詩人に言います。詩人は、「愛し合っている若い人たちの目に映る、百倍も美しい世界、そういうものを尊敬するんだ。」と言い、更に、「お婆さんが座るとお墓みたいに冷たくなる。卒塔婆で作ったベンチみたいだ。」と皮肉を浴びせました。
そんな詩人に対し老婆は、「あいつらは死んでるんだ。生きているのは、あんた、こちらさまだよ」と言い返します。そして自分は「九十九年生きている。」と言い、更に言葉を続けます。
「とんでいる鳩が人の声で、歌っているように見えたりするとき、……世界じゅうの人が楽しそうに、「おはよう」を言い合ったり、死んだ薔薇の樹から薔薇が咲くような気がするとき、……今から考えりゃあ、私は死んでいたんだ。……それ以来、私は酔わないことにした。これが私の長寿の秘訣さ。」
詩人は老婆に、「おばあさん、あなたは一体誰なんです。」と訊ねます。すると老婆は、「むかし小町といわれた女さ。」と答えました。そして、「私を美しいと云った男はみんな死んじまった。だから、今じゃ私はこう考える、私を美しいと云う男は、みんなきっと死ぬんだと。」と話します。
老婆の話しを半ば笑いながら聞いていた詩人は、小町と言われていた頃の、「八十年前の話をしてくれ。」と老婆に言います。老婆は、「私は二十の頃だったよ、参謀本部にいた深草少将が、私のところへ通って来たのは。」と言いました。
詩人は、「それじゃあ僕が、その何とか少将になろうじゃないか。」と言います。老婆は深草少将に、「百ぺん通ったら、思いを叶えてあげましょう。」と言ったと話し、「百日目の晩のこった。」と、鹿鳴館で舞踏会が開かれた日のことを回想し始めます。
(舞台背景は公園から鹿鳴館へと変わる)
詩人は深草少将となって、令嬢だった小町(老婆)とワルツを踊ります。ワルツが終わると、舞踏会に招かれた男女たちは、小町の周りに集まって、口々にその美貌を褒めそやします。
そんな中ある男が、「深草の少将もよくあそこまで打ち込んだよ。あの思いやつれた顔を見たまえ。三日も飯を食わんようだ。」と言うと、別の男が、「軍務はほったらかし、あれじゃあ参謀本部の同僚に、鼻つまみになるのも当然だ。」と陰口を話していました。
詩人は夢うつつに、「ふしぎだ……」と呟きます。すると小町(老婆)は、「きれいだ、と仰言るおつもりでしょう。それはいけないわ。それを仰言ったら、お命はありません。」と、詩人に言いました。
更に詩人は、「皺がひとつも見えない。」と言い出し、「今日が百日目。」と呟きます。そして、「もし今、僕があなたとお別れしても、百年たったらもう一度あなたにめぐり逢う。」と小町に言いました。
詩人は、「百日目の約束にまちがいはないでしょうね。」と言います。そして、「不思議だ。あなたのお顔が……」と言い出すのを小町は制止して、「私は九十九歳だよ。目をおさまし。じっと見てごらん。」と言います。
詩人は、「……そうだ、君は九十九歳のおばあさんだったんだ。」と一瞬我に返りますが、「……君は、ふしぎだ!若返ったんだね。何て君は……」と言うと小町は、「言わないで。私を美しいと云えば、あなたは死ぬ。」と繰り返し、言い含めます。
それでも詩人は、「何かをきれいだと思ったら、きれいだと言うさ、たとえ死んでも。」と宣言し、「君は美しい。世界中で一番美しい。」と言ってしまいます。そして、「……僕は又きっと君に会うだろう、百年もすれば、おんなじところで…」と言い残して死んでしまいます。老婆は、「もう百年!」と呟きました。
(舞台背景は再び公園へと戻る)
見回りをしていた巡査が、公園に横たわる詩人の死体を見つけます。巡査は老婆に状況を訊ねると、老婆は、「しばらく一人でぶつぶつ云ってて、そのうちに地面にたおれて、寝込んじまった様子でしたよ。」と答え、再び吸殻の数を数え始めました。
『卒塔婆小町』【解説と個人的な解釈】
三島本人が覚書でも言っているように、老婆(小町)は「生を超越せる生」として登場します。一方詩人(深草の少将)は現実を生き、「悲劇への意志」のある浪漫主義者として登場します。この戯曲の面白さは二人の対比性、そして能楽特有の幻想性にあると言えるでしょう。
次に原曲と三島の『卒塔婆小町』の大きな違いについて、原曲の小町は、僧侶との問答を経てその末に悟りの境地に入ります。一方三島の小町は、その言動からも受け取れるように最初から悟りの境地に到達しています。
三島の小町の境地とは、「愛に陶酔している人間は死んでいる」といった、一般的な感覚とは真逆のものです。わたしたちは、「人を愛し、愛に陶酔することで生きている」ことを実感します。詩人もまた同様の人種と言えるでしょう。
そんな詩人が、深草の少将と同様に「陶酔」の挙句に命を落としてしまいます。得てして人間という生き物は、「愛」に身を滅ぼしかねない生き物です。いや、「愛」に身を滅ぼすことも厭わない生き物と言えるでしょう。三島の小町はそんな浪漫主義者たちに警笛を鳴らしているような気がします。
あとがき【『卒塔婆小町』の感想を交えて】
正直わたし自身も、「能楽」にはほとんど触れてきませんでした。お祭りのとき神事として奉納される「能」を数回見た程度です。でも三島の『近代能楽集』を読んでからは俄然興味が湧いてきました。
さて、『卒塔婆小町』の感想についてですが、個人的には色々と考えさせられる作品でした。人間が「若く美しく」いられるのは人生の前半、ほんのわずかです。「老い」ていく時間のほうが圧倒的に長いものです。
そのほんのわずかな時間で、輝いていられたた人ほど、「老い」という現実に絶望することでしょう。恋に関しても同様です。恋の炎が燃えれば燃えるほどに、焼失したときの絶望感ははかり知れません。
けれども幻想と知りつつ「愛に陶酔」するのも人間らしさゆえの感情です。例え後に残る感情が絶望と空虚だけだったとしても・・・。
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