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森鴎外『二人の友』あらすじと解説【花開かぬまま散る才能!】

一読三嘆、名著から学ぶ
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はじめに【真の友】

 人生において、何百人、何千人、いや、何万人もの人間と巡り合うでしょう。けれどもその中で友達と呼べる人間は限られてくると思います。そして “ 真の友 ” となると、またまた少なくなってくるでしょう。

 考えてみれば、わたし自身、 “ 真の友 ” と呼べる人間がいただろうか?ついついそんなことを考えてしまう瞬間があります。自分は親友だと思っていても、相手からはただの友達としか見られていなかったことが何度もあるからです。

 わたくしごとはともかくとして、今回は、森鴎外が友を描いた短編小説『二人の友』をご紹介します。

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森鴎外『二人の友』あらすじと解説【花開かぬまま散る才能!】

森鴎外(もりおうがい)とは?

 明治・大正期の小説家、評論家、軍医です。本名・森(りん)太郎(たろう)。(1862~1922)
森鴎外は文久2(1862)年、石見国(島根県)津和野藩主の典医、森静男の長男として生まれます。明治14(1881)年、東京大学医学部を卒業後、陸軍軍医となります。

 4年間のドイツへ留学を経て、帰国後には、留学中に交際していたドイツ女性との悲恋を基に処女小説『舞姫』を執筆します。以後は軍医といった職業のかたわら、多数の小説・随想を発表していくこととなります。

 軍医の職を退いた森鴎外は、大正7(1918)年、帝国美術院(現・日本芸術院)の初代院長に就任します。その後も執筆活動を続けていましたが、大正11(1922)年7月9日、腎萎縮、肺結核のために死去します。(没年齢・満60歳)

 近代日本文学を代表する作家の一人で、『舞姫』の他にも、『高瀬舟』『青年』『雁』『阿部一族』『山椒大夫』『ヰタ・セクスアリス』といった数多くの名作を残しています。

    森鴎外

短編小説『二人の友』について

短編小説『二人の友』は、大正4(1915)年6月1日、雑誌『ARS』第1巻第3号に掲載されます。

『二人の友』あらすじ(ネタバレ注意!)

 豊前(ぶぜん)(現在の福岡県東部及び大分県北西部)の小倉で役所勤めをしていた「私」の家に、ある日、二十歳くらいの青年が訪ねて来ます。この青年をF君と言います。「私」と同じ石見(現在の島根県西部)の人でした。

 「私」は、青年に訪問の理由を訊ねます。すると「私」からドイツ語を学びたいと言うのです。「私」はF君に、一冊のドイツ語の本を渡して、「1ページ読んで、その意味を聞かせて貰いたい。」と言います。

 F君は、その本の巻末に近い一章を、発音の良いドイツ語ですらすらと読み、原文の意味を苦もなく解き明かしたのでした。F君のドイツ語の能力に驚いた「私」は、「ドイツ語研究の相談相手にならなってもいいが、ところで小倉での生活はどうするつもりだ?」と訊ねます。

 するとF君は、「金は東京から来る汽車賃に全部使ってしまった。」と話し、「当分あなたの所に置いて下さるわけには行きますまいか。」と言ったのでした。F君のこの言葉に「私」は失望します。けれどもF君のドイツ語の能力は奇跡とも言えました。

 そこで「私」は、自分の懇意にしている宿屋を紹介して、仕事も斡旋(あっせん)し、そこからの報酬で宿屋の勘定を払えば良いという提案をします。F君は格別有難がる様子もなく「私」に同意しました。

 F君は、立見(たちみ)という宿屋の世話になることになります。そして、小倉にある青年の団体のドイツ教師に就くことになりました。F君は毎日のように「私」の所に来て、ドイツ語研究の相談をするようになり、いつしか「私」もF君が来るのを待つようになっていきました。

 ある日、(F君がどんな生活をしているのだろうか?)と思い立った「私」は、役所帰りに立見を訪ねて見ます。立見のおかみさんは、F君は朝晩寒くなったというのに単物(ひとえもの)一枚で生活していると言いました。

 「私」は、(さてはお金がないのでは?)と思いますが、宿代は前払いしていると言います。二階のF君の部屋に行った「私」は、そこに新しい大きなドイツ語の辞書が三冊あることに気がつきます。

 F君は、「教師の仕事をするには、このくらいの本が無いと心細いのです。」と言いました。家に帰った「私」は、古袷(ふるあわせ)一枚を女中に持たせてF君のところへ行かせます。(宿代を前払いし、辞書まで買っていたら給料はすぐに無くなってしまう)と思ったからでした。

 「私」は最初、F君と多少の距離を置いて接していました。けれども時が経つにつれて、その距離は段々縮まっていきます。学問好きを認めた為もありましたが、主な理由は、F君の童貞を発見したからでした。F君はほとんど異性に対する知識が無かったのです。

 「私」とF君は毎日のように会って、時として一日中、一緒にいることさえありました。そのうち周囲の人間は、二人を兄弟かと勘違いするようになります。そのことをF君に話すと、「他人の空似そらにも随分ある。」と言い、尾道に行ったときの話しを「私」に教えてくれました。

 尾道の宿屋で一人の芸者が突然部屋に現れて、「もしかしたら行方知れずになっている兄ではないでしょうか?」と訊ねられたと言うのです。そんな芸者にF君は、「尾道には始めて来た。早く帰るが良い。」と答えたと言うのでした。芸者の言葉を真実だと思って話すF君に、「私」は驚きます。

 「私」が「それは芸者が君に好意を抱いていたからだ。」と話すと、今度はF君が驚きました。F君は学問の為に性欲を制していたのです。それからF君を注意深く観察した「私」は、F君が、そっちの方面で未経験だと知ったのでした。こんな事があって二人の距離は縮まったのです。

 小倉に来てから六ヶ月、「私」は、フランス語の稽古を始めました。この事が再び、二人の距離を遠くします。F君はドイツ語の教師をして暮らし、「私」は役人をしながらフランス語の稽古をして暮らします。そして時々逢って遠慮のない会話をするという世間並みの友人関係が成り立ちました。

 「私」が小倉に来てから三年目、F君は、山口高等学校へ教師として赴任します。翌年に「私」は東京に転勤しました。東京に帰った「私」の後を追うように、小倉から来た人がいます。その人はまだ年の若い僧侶で、「私」たちは安国寺(あんこくじ)さんと呼んでいました。

 小倉時代、「私」が安国寺さんにドイツ哲学入門の訳読をして上げて、反対に安国寺さんが「私」に唯識論(ゆいしきろん)の講義をしてくれるという間柄でした。ですから「私」が小倉を立つとき、別れを一番惜しんでくれたのが安国寺さんでした。

 その安国寺さんが、「私」との交際を絶つのは耐え難いと、住職をしていた寺を人に譲って、東京の「私」の住む家の近くにある下宿に引っ越して来たのです。けれども「私」の東京生活は小倉の頃とは違って忙しく、前のように安国寺さんとの間で、知識の交換が出来ないでいました。

 ちょうどそこへ、F君が山口での教師の職を捨てて、東京へやって来たのです。そして安国寺さんと同じ下宿で暮らすようになります。そこで安国寺さんは、「私」の代わりに、F君に、ドイツ哲学入門の訳読をして貰うことになりました。

 しばらくしてF君は、第一高等学校の教師になります。けれども同じ下宿に住み続け、安国寺さんとの交流を続けました。一年余り経った時、安国寺さんが帰省して来ると「私」に言います。安国寺さんが帰った後で「私」は、F君に関する噂を耳にしました。

 その噂とは、安国寺さんがF君の使いで四国へ行ったと言うのです。F君が同じ下宿に住む女学生と恋仲になり、結婚しようとしたのですが女学生の親元が反対しているとの事でした。そこで親たちを説得する為に、安国寺さんを四国に行かせたと言うのです。

 安国寺さんが説得してくれたお陰で、F君は結婚することができ、二人は小石川に家を持ちました。一年後、「私」は、ロシアとの戦争が起きたため、戦地の満州へと赴きます。満州で「私」は、安国寺さんからの手紙を受け取りました。

 手紙には、安国寺さんは重い病気の為に、房州(現在の千葉県南部)辺りの海岸に転地療養に行くと書いてありました。「私」は、直ぐに返事を書いて慰めます。「私」が満州から帰った時には、安国寺さんは九州に帰っていました。小倉の山に近い寺で住職をすることになったのです。

 F君は相変わらず小石川に住み、第一高等学校に勤めていました。F君と「私」は、二人揃って忙しく、時々巣鴨三田線の電車の中で会話を交わすだけでした。それから四、五年の後、「私」は突然F君の訃報を知ります。咽頭(いんとう)(がん)のために急に亡くなったとの事でした。

青空文庫 『二人の友』 森鴎外
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『二人の友』【解説と個人的な解釈】

 『二人の友』は、森鴎外の実体験をもとに書かれた小説です。
F君は森鴎外の同郷の青年、福間博のことで、安国寺さんは曹洞宗の僧侶、太平山安国寺(北九州市小倉)の玉水俊虠(しゅんこ)のことです。

 明治32(1899)年10月12日、鴎外と福間は、小倉の地で始めて会います。翌年の11月23日、鴎外は玉水と知人になります。そして鴎外は明治35年(1902)年3月、東京に帰ります。

 鴎外を追うように東京にやって来た二人ですが、福間は明治36(1903)年、第一高等学校でドイツ語の教師になり、明治38(1905)年に正式に教授になります。ちなみに芥川龍之介や菊池寛は、第一高等学校時代に福間博のドイツ語の授業を受けています。

 日露戦争のとき第二軍軍医部長として、明治37(1904)年2月から明治39(1906)年1月まで中国大陸に出征していた鴎外は、この間に玉水の病気(結核)を知ります。福間博は明治45(1912)年2月3日、咽頭(いんとう)がんで急死し、玉水俊虠も病気が再発し、大正4(1915)年10月4日に死亡します。

 『二人の友』が掲載されたのが大正4(1915)年6月1日です。この頃、玉水は闘病中だったと思われます。その点を踏まえると『二人の友』は、玉水に向けて書かれたと考えられます。と同時に、才能豊かな二人の友人を小説として残して置きたいといった鴎外の思いもあったと個人的に解釈しています。

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あとがき【『二人の友』の感想を交えて】

 冒頭の続きとなりますが、“ 真の友 ” と呼べる人間は、生涯を共にする伴侶と同じくらい大切な存在と言えます。親友――単なる親しき友ではなく、真友――まことの友のことです。

 月並みですが、人生は山あり谷ありです。谷にいるときに力になってくれる人間が “ 真の友 ” と言えるでしょう。けれども残念ながらそんなときに離れていく友ばかりというのが現実です。

 森鴎外にとって二人の友が “ 真の友 ” だったかは分かりませんが、F君にしろ安国寺さんにしろ鴎外を心底慕っていたのは事実でしょう。それだけ鴎外が文筆家や軍医として優れていただけではなく、人間的にも魅力があったということです。

 いずれにしても、自分自身に人間的魅力がないと “ 真の友 ” はできないということなのでしょう。つまり、わたし自身がダメダメなんだと、この小説を読んで気づかされた次第です。

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