はじめに【「朝鮮通信使」について】
応永11(1404)年、室町幕府第3代将軍・足利義満は、李氏朝鮮との間に対等な外交関係を結びます。以降、室町幕府は李氏朝鮮と、両国使節の往来による国書の交換を行うようになります。
このとき朝鮮から派遣された外交使節団のことを「朝鮮通信使」(正式名称を朝鮮来聘使)といい、政情不安などの諸々の事情から、15世紀半ばからしばらく途絶えたものの、その関係は明治維新まで継続されます。
ちなみに近世の「朝鮮通信使」は、慶長12(1607)年から文化8(1811)年まで12回来日しています。今回ご紹介する森鷗外の短編小説『佐橋甚五郎』は、慶長12(1607)年の、江戸幕府になってから最初の「朝鮮通信使」が物語の背景となっています。
森鴎外『佐橋甚五郎』あらすじと解説【家康と甚五郎との確執!】
森鴎外(もりおうがい)とは?
明治・大正期の小説家、評論家、軍医です。本名・森林太郎。(1862~1922)
森鴎外は文久2(1862)年、石見国(島根県)津和野藩主の典医、森静男の長男として生まれます。明治14(1881)年、東京大学医学部を卒業後、陸軍軍医となります。
4年間のドイツへ留学を経て、帰国後には、留学中に交際していたドイツ女性との悲恋を基に処女小説『舞姫』を執筆します。以後は軍医といった職業のかたわら、多数の小説・随想を発表していくこととなります。
軍医の職を退いた森鴎外は、大正7(1918)年、帝国美術院(現・日本芸術院)の初代院長に就任します。その後も執筆活動を続けていましたが、大正11(1922)年7月9日、腎萎縮、肺結核のために死去します。(没年齢・満60歳)
近代日本文学を代表する作家の一人で、『舞姫』の他にも、『高瀬舟』『青年』『雁』『阿部一族』『山椒大夫』『ヰタ・セクスアリス』といった数多くの名作を残しています。
短編小説『佐橋甚五郎』(さはしじんごろう)について
『佐橋甚五郎』は、大正2(1913)年4月、『中央公論』の第28巻第5号に掲載されます。『興津弥五右衛門の遺書』、『阿部一族』に次ぐ鴎外歴史小説の第三作で、同年6月に前二作とともに歴史小説集『意地』に収録されます。
鴎外は、江戸時代に書かれた『続武家閑話』『通航一覧』『甲子夜話』等を元にして、『佐橋甚五郎』を書き上げています。ちなみに歴史小説集『意地』の広告文に『佐橋甚五郎』は次のように紹介されています。
小山の城の月見の宴、城将甘利四郎三郎の寝首をかいた当年の美少年「左橋甚五郎」は、家康を鼻の先であぎ笑ふて、浜松を逐電して、窃かに朝鮮に往きて、慶長十二年に朝鮮国の使者となつて来朝して、済ました顔で家康に謁見して帰りたる奇人。意地強きすね者。流石の家康も警戒したる人物。その一代の奇しき運命の物語。
(『意地』の広告文『佐橋甚五郎』)
『佐橋甚五郎』あらすじ(ネタバレ注意!)
慶長十二(1607)年の四月、豊臣秀吉の朝鮮出兵から途絶えていた「朝鮮通信使」が、江戸幕府に派遣されて来ました。五月、将軍秀忠に国書を差し出した使者は、その月の二十日、駿府城に登城し、隠居していた家康に謁見します。
朝鮮王からの使者は、通政大夫呂祐吉ら三人で、次は上々官三人、上官二十六人、総人数二百六十九人という使節団でした。献上物が広縁に並べられます。家康は、翠色の装束に整えて、上壇に着座しました。
※広縁(ひろえん) 建築用語で「縁」もしくは「縁側」といい、その幅の広いものが「広縁」と呼ばれる。
三人の使者は下段へと進んで、二度半の拝をします。上々官の三人は広縁に並んで拝をしました。謁見を終えると使者たちは、また同じように拝をして退出して行きます。家康は六人の朝鮮人を見送ると、すぐに左右を見てこう言いました。
※拝(はい) からだをかがめて敬意を表する。おじぎする。おじぎ。
「あの縁にいた三人目の男を見知ったものはないか?」
側には本多正純を始めとして、十余人の近臣がいました。案内をしてきた宗対馬守義智が「三人目は喬僉知と申しまする。」と答えます。
家康は一座を見渡しながら、「太い奴、ようも朝鮮人になりすましおった。あれは佐橋甚五郎じゃぞ!」と言い、「とにかくあの者どもは早くここを立たせるがよい。土地のものと文通などをいたさせぬようにせい!」と、家臣らに命令したのでした。
使者らは本多の邸で饗応を受けて、その日のうちに駿府を発ちます。五月二十九日には京都に着き、大阪で船に乗り込んだのが六月十一日でした。このとき朝鮮征伐のときの俘虜、男女千三百四十余人も一緒に返還されます。
※饗応(きょうおう) 酒や食事を出して人をもてなすこと。
※俘虜(ふりょ) 戦争で敵軍にいけどりにされた者。 とりこ。 捕虜。
家康の嫡子・信康が十八歳のとき、小姓に佐橋甚五郎という、武芸、遊芸が巧者の者がいました。特に笛を上手に吹きます。ある日信康は、広い沼のはるか向こうに、一羽の鷺が下りているのを見つけました。
※巧者(こうしゃ) 物事に器用でたくみなこと。そういう人。
小姓の一人が、「あれが撃てるだろうか?」と言うと、甚五郎が、「撃てぬにも限らぬ。」と、独り言のようにつぶやきます。それを聞いた蜂谷という小姓が、「そう思うなら、撃ってみるがよい。」と言いました。
甚五郎は、「何か賭けるか?」と提案すると、蜂谷は「今ここに持っている物をなんでも賭けよう。」と言います。信康の許可を得た甚五郎は、鉄砲で見事に鷺を仕留めたのでした。
翌朝、蜂谷の死体が見つかり、甚五郎の行方が分からなくなります、身のまわりを調べると蜂谷の大小(刀)の代わりに甚五郎の物らしい大小が置かれていました。甚五郎の行方は分からぬまま、蜂谷の一周忌が過ぎます。
ある日、甚五郎が隠れていることを知った兄の佐橋源太夫が、家康に、助命を嘆願します。源太夫が話すには、甚五郎は、鷺を撃ったときの賭けの品として、蜂谷から大小を貰おうとしました。ところが蜂谷は、「由緒のある品だから」と、それを拒んで刀を抜こうとしたそうです。
そのとき甚五郎は当身を食らわせ、それきり蜂谷は息を吹き返さなかったと言うのです。それで甚五郎は蜂谷の大小を取り、自分の大小を代りに残して立ち退いたとの事でした。
これを聞いた家康はしばらく考えて、「所詮は間違うておるぞよ。」と言い、「甘利を討たせい。そしたら助命してつかわそう。」と、言い放ったのでした。
望月の夜のことです。遠江国の小山の城で月見の宴が催されていました。宴が終わると、甲斐の武田勝頼の城番、甘利四郎三郎は、新参の若衆一人だけを留め置きます。甘利は若衆の膝を枕にして横になり、笛を吹かせました。
※望月(もちづき) 陰暦十五夜の月。満月。
笛の音の心地よさに甘利の瞼は重くなっていきます。すると笛の音は途切れ、それと同時に氷のような冷たい物が、胸の奥深くに染み込んだのです。甘利は気が遠くなっていきました。
甘利を討った甚五郎を、家康は約束どおり召し抱えます。けれどもお目見えのとき家康は、甘利のことを一言も言いませんでした。後に武田家は亡び、本能寺の変が起きて、弔い合戦で羽柴秀吉が明智光秀を討ち取ります。同じ頃、小田原の北条氏直が攻めて来ました。
家康は八千足らずの兵で北条の五万の兵と対陣します。このとき甚五郎は若武者仲間の水野勝成と一緒に働いて負傷します。年の暮れに軍功のあった侍に加増があり、甚五郎も加増されましたが、藤十郎と甚五郎の二人には賞美の言葉もありませんでした。
※賞美(しょうび) ほめたたえること。
天正十一(1583)年、大阪に遷った羽柴家へ、祝いの使者として石川数正が行くことになります。近習の甚五郎が隣の間で聞いていると、家康は、「誰か心の利いた若い者を連れてまいれ」と言いました。数正は、「さようなら佐橋でも」と答えます。
※近習(きんじゅ・きんじゅう) 公家,武家を通じて主君の側近にあって奉仕する役。
すると家康は、「あれは手放しては使いとうない。甘利はあれをわが子のように可愛がっていたとな。むごい奴が寝首を掻きおった。」と話したのでした。
この言葉を聞いた甚五郎は、ふんと鼻から息をもらして、その場から退出します。それきり甚五郎の行方は知れなくなりました。甚五郎は普段から、小判百両を入れた胴巻を身に着けていたそうです。
果たして甚五郎と喬僉知が同一人物なのかは、誰にも分かりませんでした。けれども佐橋家で、根が人形のように育った人参の上品を多く貯えていることが後に知れて、「あれはどうして手に入れたものか?」と、いぶかしがる者があったとのことでした。
青空文庫 『佐橋甚五郎』 森鴎外
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『佐橋甚五郎』【解説と個人的な解釈】
武士を語る言葉として、「忠臣は二君に仕えず」をイメージする人も多いかと思います。けれどもそれは江戸時代以降の武士の価値観であり、藤堂高虎が語ったとされる、「七度主君を変えねば、武士とはいえぬ」が、戦国時代の武士の価値観でした。
ですから、佐橋甚五郎が家康の前から姿を消して行方不明になるのも不思議ではありません。そもそも家康と甚五郎、この主従関係には、しこりがありました。事の始めは甚五郎が同じ小姓仲間の蜂谷を殺害したことです。
甚五郎にすれば、例え賭けとはいえ約束事を守らぬ蜂谷が悪いという、甚五郎独自の武士感に基づいた行動です。けれども家康にすれば、あくまで蜂谷は家康の家臣であり、死に場所は主君が与えるもので、甚五郎のした事は決して許せるものではありませんでした。
そこで家康は助命の条件として、「甘利の暗殺」を命令するわけですが、その命令を遂行して帰ってきた甚五郎に、家康は甘利のことを一言も口に出しませんでした。北条軍との戦いで負傷したときも、甚五郎には賞美の言葉がありません。
その理由については、家康の「あれは手放しては使いとうない」で明らかになるわけですが、この言葉から分かるように、家康は甚五郎をかなり警戒していました。今度は自分が寝首を掻かれるかも知れないといった怖れがあったのです。
家康の胸の内を知った甚五郎はそのまま行方知れずになります。小判百両をいつも身に着けていたというのですから、常日頃から主君を見限る準備はしていたということです。それから二十四年を経て、甚五郎が、朝鮮通信使の一員として家康の前に現れます。家康は慌てたことでしょう。
様々な書物に名前が記載されていることから、「佐橋甚五郎」は間違いなく実在していた人物と言えます。甚五郎と喬僉知が同一人物かについて鴎外は曖昧にしていますが、もしも喬僉知なら痛快そのものです。天下人になった家康に一泡吹かせたのですから。
あとがき【『佐橋甚五郎』の感想を交えて】
「いつか見返してやる!」
失恋したとき、上司に認めて貰えないとき、友人に裏切られたとき等々、このように思うこともあると思います。一言で表すと「復讐心」と言えるかも知れません。
けれども、こういった負と言える感情も、ときには人を成長させる原動力になり得る場合もあります。まさに「佐橋甚五郎」が典型的な例です。人間性には問題があるものの、甚五郎は、戦国時代の武士としては優秀でした。
「出る杭は打たれる」という言葉がありますが、甚五郎が杭だったことは確かでしょう。それも家康にして見れば、いつか自分の心臓をえぐるかも知れない危険な杭だったのです。
ともかくとして、甚五郎のように己の力で生き抜く人間を羨ましく思う一方で、そのような生き方ができない自分に安堵するところもあります。
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