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森鴎外『最後の一句』【痛快なる役人への一言!】

一読三嘆、名著から学ぶ
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はじめに【お役所仕事について】

 お役所仕事」という言葉があります。市民の利便性を考えずに行われる行政事務を批判して使われる言葉ですが、わたしも何度かこういった場面に遭遇したことがあります。

 いちいち言うと愚痴になるので、詳しくは言いませんが、「手続きのためにいくつもの役所の部署を歩き回り、大量の紙の書類を提出する。なんとか手続きが終わったとしても結果は数週間後・・・。」

 多分、このような経験をしたのは、わたし一人だけではないでしょう。

 某市役所に勤めている知人も「お役所仕事」を認めています。けれども、役所内の改革はわたしが考えているよりも、複雑で難しいみたいです。知人はボソリと言いました。
 「誰も責任を取りたがらないもんな。」

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森鴎外『最後の一句』【痛快なる役人への一言!】

森鴎外とは?

 明治・大正期にかけて活躍した小説家です。本名・森林太郎。(1862-1922)
石見国鹿足郡津和野町(現:島根県津和野町)に生まれ、東大医学部を卒業後、陸軍軍医になります。

 4年間のドイツへ留学を経て、帰国後には、留学中に交際していたドイツ女性との悲恋を基に処女小説『舞姫』を執筆し、以後は軍医といった職業のかたわら、多数の小説・随想を発表していくことになります。

 近代日本文学を代表する作家の一人で、『高瀬舟』や『舞姫』の他にも、『青年』『雁』『阿部一族』『山椒大夫』『ヰタ・セクスアリス』といった数多くの名作を残しています。


   鴎外

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『最後の一句』解説

 森鴎外の『最後の一句』は、元文三(1738)年初冬に大阪で起こった実際の出来事を題材にしています。原話は、江戸時代の文人、大田南畝(なんぽ)が『一話一言』に記した「元文三午年大坂堀江橋近辺かつらや太郎兵衛事」です。

 鴎外はこのはなしにアレンジを施します。ちなみに題名となった、いちの「お上の…」の言葉は原文にはなく、鴎外の創作です。

 『一話一言』では、娘の孝心と権力者の厚情を描いているのに対し、『最後の一句』では娘のマルチリウム=献身さと反骨心を主題としていて、全く違った切り口となっています。

物語の時代背景

 元文の頃とは、八代将軍徳川吉宗の統治の時代です。吉宗が目安箱を設置したことは有名ですが、このことでそれまでぞんざいに扱われていた庶民からの訴状も、お上に取り上げられるようになります。


  八代将軍徳川吉宗

 当時の大坂は「天下の台所」と呼ばれていました。さまざまな物資が大坂に集積されていたのです。当然のように海運業は盛んになり、大坂の街は発展していきました。

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大田南畝(おおた‐なんぽ)とは?

 大田南畝(本名は(たん))は、江戸幕府に仕える下級武士です。その一方で、江戸後期の狂歌師。そして洒落本、滑稽本の作者でもありました。別号は、(しょく)山人(さんじん)四方(よもの)(あか)()寝惚(ねぼけ)先生です。(1749‐1823)

 (から)(ごろも)橘州(きっしゅう)(あけ)()(かん)(こう)とともに狂歌三大家と呼ばれ、著に『万載狂歌集』『徳和歌後万載集』『鯛の味噌津』『虚言八百万八伝』『一話一言』などがあります。


大田南畝 近世名家肖像

『最後の一句』あらすじ(ネタバレ注意!)

 元文(げんぶん)三(1788)年、十一月二十三日のことです。大阪の市中に高札(こうさつ)が建てられました。高札には、「船乗り業、桂屋(かつらや)の主人・太郎(たろ)兵衛(べえ)という者、三日間さらした上に(ざん)(ざい)に処する」と、書かれています。

 このことを桂屋へ知らせに来たのは、太郎兵衛の女房の母です。女房の母は、桂屋にいる五人の子供にとても慕われていて、おばあ様と呼ばれています。それは、女房の里方が裕福なので、子供たちに、いつも良いお土産を持って来てくれるからです。

 五人の子供とは、十六歳になる長女のいち、十四歳の次女まつ、女房の里方(さとがた)からの養子で十二歳の長太郎(ちょうたろう)、八歳になる三女のとく、そして、太郎兵衛初めての男子、六歳になる初五郎(はつごろう)のことです。

 ところが、二年前に太郎兵衛が入牢(にゅうろう)してからのおばあ様は、暮らし向に役立つ物を持って来るようになります。そのことは五人の子供たちを多少失望させましたが、それでも元気で賑やかな生活を続けています。

 一方これと反対に、太郎兵衛の女房は、泊りがけで来る母親に向かって、丸二年間も同じように、器械的に立ち働いては繰り言を言い、そして泣いているのでした。

 それは、高札の立った日も同じです。 母が来て、太郎兵衛の運命が決まったことを話しても、いつもと同じで、繰り言を言っては泣くだけでした。しかし、いつもと違うことがひとつだけありました。

―――この会話を長女のいちが、襖越(ふすまご)しに聞いていたことです。

 桂屋太郎兵衛は北国船の船主です。とは言っても実際には新七(しんしち)という男を船に乗せて、運送業を営んでいました。元文元年の秋のことです。秋田から米を積んで出帆した新七の船が、不幸にも嵐に遭遇し、積み荷の半分を流失してしまったのです。

 新七は残った米を金に換えて大阪に帰って来ました。そして太郎兵衛にこう言います。
 「この金は、米主に返すには及ぶまい。船をしたてる費用に当てようじゃないか。」

 それまで正直に商売をしてきた太郎兵衛でしたが、現金を目の前にして、ふと良心を忘れてしまいます。結局その金を受け取り、これが米主の知ることになります。

 米主は大坂奉行所に訴え出ます。新七は逃走しますが、太郎兵衛は牢に入れられ、とうとう死罪を言い渡されることになったのです。

 おばあ様が来て、桂屋の女房に死罪のことを告げた晩のことでした。長女のいちが布団の中で「ああ、そうしよう。きっとできるわ」と、ひとり言を呟きます。次女のまつがそれを聞きつけます。

 いちはまつに「わたし、いいことを考えたから。」と言い、小声でこういったことを囁きます。それは、願書(ねがいしょ)を書いてお奉行様さまに提出するというものでした。

 しかもその内容は、「父親を助けてもらう代わりに、子供たちを殺して欲しい。けれども長太郎は本当の子供ではないから、長太郎だけはいっしょに殺さないで欲しい。」といった切実なものです。

 いちは朝までかけて願書を書きあげます。そして次女のまつを起こして身支度を始めます。そのとき、長太郎が目を覚ましました。お姉さんたちから「父親のことで大事な用がある。」と聞いた長太郎は「そんならおいらもゆく。」と言います。

 当時の町奉行は、東が稲垣(いながき)淡路(あわじ)(のかみ)(たね)(のぶ)で、西が佐佐又四郎(ささまたしろう)(なり)(むね)でした。その月は西の佐佐が月番です。姉妹と弟は西奉行所に行きました。けれども、門がまだ閉まっています。いちは、門番所の窓に向かって「もしもし!」と、何度も叫びました。

 しばらくして、門番の男が窓から顔を覗かせます。いちは丁寧に「お奉行様にお願いがあってまいりました」と言い、事情を説明します。けれども門番の男は子供だと思って相手にしません。「帰れ帰れ!」こう言って窓を閉めてしまいます。

 三人の子供は門が開くのをしばらく待ちました。やがて門は開きます。いちが門内に入るとまつと長太郎が後ろに続きます。すると先ほどの門番の男がまたしても「さっき帰れと言ったじゃないか。」と言い、行く手を阻みます。

 しかし、いちは「わたくしどもはお願いを聞いていただくまで、帰らないつもりでございます。」そう言って譲りません。そのうち、二三人の(つめ)(しゅう)が出て来て、子供たちを取り巻きます。いちは、懐中から書付(かきつけ)を出して、一人の与力の前に差し出しました。

 門番は「こいつらは桂屋太郎兵衛の子供で、親の命乞いをするのだと言っています。」と説明します。与力はとりあえず、いちから願書を受け取り、上に伺いを立てることにしました。

 西町奉行の佐佐にとって、いちからの命乞いの願いは、迷惑なものでしかありませんでした。事件が一段落し、重荷を下ろしたような気持ちになっていたからです。それでも佐佐は一応、願書に目を通します。

 そして、「いちという娘は何歳になる。」と与力に聞き、不審そうな顔をしました。それは書付の文章が子供らしくはなく、条理が整っていて(もしかして、大人が書かせたのではあるまいか。)といった疑念が湧いたからでした。

 刑を執行するまでには、まだ時間があります。佐佐は同役に相談し、上役(うわやく)に伺いを立てて見ようと考えます。ちょうどそのとき、城代の太田備中守(おおたびっちゅうのかみ)(すけ)(はる)が私用でたずねて来ました。

 佐佐は太田に自分の考えを述べて、指図を請います。そして、昼過ぎに改めて子供たちを呼んで、東町奉行の稲垣も同席の上で、その真意を確かめて見ようということで決着します。

 十一月二十四日の(ひつじ)下刻(げこく)(現在の午後2時から3時の間)のことです。
西町奉行所の白州(しらす)に、町年寄らに連れられ、桂屋太郎兵衛の女房と五人の子供が姿を見せました。

 尋問は女房から始められます。しかし、「いっこうに存じませぬ」と言うだけです。次は長女のいちが調べられます。いちは(おく)する様子も見せずに、ことの一部始終を陳述します。取調役(とりしらべやく)は「まつの他には誰にも相談はいたさぬのじゃな」と、問います。

 いちははっきりと「だれにも申しません。」と答えます。そして「四人の命をさしあげて、父をお助けくださるように願うのだと申したら、長太郎も、それでは自分も命をさしあけたいと申して、わたしに願書を書かせました。」と告げます。

 いちが言い終えると、長太郎がふところから書付を出しました。取調役はそれを開きます。「自分も姉や弟妹と一緒に、父の身代わりになって死にたい。」といった内容の願書でした。

 取調役はまつに「お前は姉といっしょに死にたいのだな」と問います。まつは「はい」と言ってうなずきます。長太郎も「わたし一人、生きていたくはありません」と、はっきり答えます。

 同じことを聞かれたとくは黙ったまま目に涙をためています。末子の初五郎は首を振りました。このとき、佐佐が「いち」と呼びます。続けて「お前の申し立てにはうそはあるまいな。もしも間違いがあったら、そこに並べてある道具で、誠の事を申すまで責めさせるぞ。」と言い、責め道具のある方角を指さします。

 いちは少しの動揺も見せずに「いえ、申した事に間違いはございません。」と、言い放ちます。佐佐は「そんなら今一つお前に聞くが、身代わりをお聞き届けになると、お前たちはすぐに殺されるぞよ。父の顔を見ることはできぬが、それでもいいか。」と訊ねます。

 いちは「よろしゅうございます。」と冷ややかな調子で答えます。そして、少し間を置いてから―――「お(かみ)の事には間違いはございますまいから。」と、付け加えるように言いました。この言葉は佐佐だけではなく、この場にいた役人一同の胸をも刺したのです。

 桂屋太郎兵衛の刑の執行は「江戸へ伺中(うかがいちゅう)日延(ひのべ)」となります。そして元文四年三月二日、恩赦により「死罪の赦免」を言い渡され、「大阪からの追放処分」に決定します。こうして、桂屋の家族は、父に別れを告げることができたのでした。


青空文庫 『最後の一句』 森鴎外
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あとがき【『最後の一句』の感想を交えて】

 『最後の一句』が執筆された時期は、森鴎外が陸軍から退くことを決断した時期と重なります。傍から見たら、エリート官僚といった誰もが羨むポストです。そのポストを捨てるには何らかの理由があったのでしょう。

 あくまでもわたし一個人による想像ですが、鴎外もまた「お役所仕事」に、嫌気をさしていて、いちの発した「お上の事には間違いはございますまいから。」という台詞も、もしかしたら官僚社会への皮肉だったのかも知れません。

 それはそうとして、わたしはこの物語に対して、素直に “ 子供の純粋な親を思う心 ” に惹かれてしまいます。実際にあった出来事なのですから驚くばかりです。

 さて、現代の世の中にこのような孝心は存在しているのでしょうか。親の身代わりになって死を選ぶなど、わたし自身も想像ができません。儒教の教えが一般庶民にまでいき渡っていた証明と言えます。

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 まあ、当時の行き過ぎた儒教教育には少し思うところもありますが、それはともかくとして、冒頭部分で話した市役所勤めの知人ですが、同期で一番遅く係長になったと言います。

 そんな会話の中で知人は最後の一句をわたしに言いました。
 「役人で出世が遅いのは勲章だ!」
 自虐的なその言葉はわたしの胸に突き刺さりました。

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