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有島武郎『小さき者へ』あらすじと感想【恐れぬ者に道は開ける!】

一読三嘆、名著から学ぶ
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はじめに【魯迅が翻訳した『小さき者へ』】

 小説家・有島武郎という名は、中華人民共和国にも広く知れ渡っています。それはかの魯迅が翻訳したことで、学校の教科書にも掲載されているからです。その魯迅が最初に翻訳した有島作品が『小さき者へ』でした。

 『小さき者へ』を読んだ魯迅は、「とてもいい言葉がたくさんある」と、当時、中華民国の新文化運動の中心的な役割を担っていた雑誌『新青年』(1919年11月号)の読者に向けて話しています。

 『新青年』の創刊の趣旨は、「儒教道徳と中国古来の家族制度から子供たちの解放」だったと言われています。有島の言葉には、当時、中華民国の知識人に響く何かがあったのでしょう。

魯迅(ろじん)とは?

     魯迅

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 魯迅(本名は周樹人(しゅう‐じゅじん))は中国の小説家、翻訳家、思想家です。(1881‐1936)
魯迅は1881年8月3日、浙江省(せっこうしょう)(しょう)(こう)の裕福な階級の家に生まれます。しかし幼時に没落し、苦労も体験しながら、18歳のとき南京の江南水師学堂(海軍養成学校)に入学します。

 その3年後の明治35(1902)年、官費留学生として日本に派遣され、仙台医学専門学校に入学します。しかし中退し、文学の道を志します。明治42(1909)年に帰国し、文学の研究・翻訳をしながら『狂人日記』『阿Q正伝』を著します。

 その後、『故郷』『祝福』『孤独者』などの小説と散文詩や、多くのエッセーを書き中国文学の中心的存在となります。1930年、左翼作家連盟発足後はその実質的な指導者となります。1936年10月19日、持病の喘息の発作で急逝します。(没年齢55歳)

 中国で最も早く西洋の技法を用いて小説を書いた作家であり、その作品は、中国だけでなく、東アジアでも広く愛読されていて、日本でも中学校用の国語教科書に作品が収録されています。

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有島武郎『小さき者へ』あらすじと感想【恐れぬ者に道は開ける!】

有島武郎(ありしまたけお)とは?

 有島武郎は大正時代の小説家です。(1878-1923)
明治11(1878)年3月4日、東京に生まれます。学習院初・中等科を経て、札幌農学校(北海道大学の前身)に入学します。

 卒業後の明治36(1903)年に渡米し、ハバフォード大学、ハーバード大学で学びます。その後ヨーロッパにも渡り明治40(1907)年に帰国し、母校(当時は東北帝国大学農科大学)で英語を教えます。

 明治43(1910)年4月、武者小路(むしゃのこうじ)実篤(さねあつ)志賀(しが)(なお)()らと同人誌『白樺』に参加し、『かんかん虫』『お末の死』『二つの道』などを発表します。大正5(1916)年に妻・安子と父を相次いで亡くしたことをきっかけに本格的な作家生活に入ります。

   志賀直哉

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 その後『カインの末裔(まつえい)』『実験室』『小さき者へ』『或る女』『『生れ出づる悩み』などを発表していき、一躍流行作家となります。けれども次第に創作力不振に陥り、悩むようになっていきます。

 大正12(1923)年6月9日、軽井沢の別荘浄月庵で人妻・波多野秋子と心中し、その生涯を閉じます。(没年齢45歳)

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短編小説『小さき者へ』(ちいさきものへ)について

 大正5(1916)年、有島武郎の妻・安子は肺結核で亡くなります。(没年齢27歳)安子の死から約一年半後の大正7(1918)年、有島は短編小説『小さき者へ』を文芸雑誌『新潮』1月号で発表します。

 同年11月、『小さき者へ』を含む七つの小品を収録した、有島武郎著作集第七号『小さき者へ』(叢文閣(そうぶんかく)刊)に収録されます。刊行の際、『新潮』をはじめとする新聞雑誌に寄せた広告文の中で、有島は次のように語っています。

この(しゅう)には私の小品七種を集めた。ある物には私の経験が可なり直接に取り扱つてある。文壇の一部では芸術と云ふ事が出来ないと非難されたものだ。ある物には私から思ひ切り飛び離れた生活が、私一個の批判の対象として寓意(ぐうい)(ひん)(じゅ)として描かれてゐる。

これ又文壇の一部から生命のない平描として非難されたものだ。私は然し恐れないで其等の作品を私の著作集の中に組み入れる。何者私自身は是等の作品を恥じないからだ。而してそれは私の生活とはやはり分離する事が出来ないと思ふからだ。

※輯(しゅう) とり集めて一つにする。集める。集まる。特に書物の材料を集める。
※寓意(ぐうい) 他の物事にかこつけ、ほのめかして表した意味。
※賓主(ひんじゅ) 客と主人。また、その位置。

『小さき者へ』あらすじ(ネタバレ注意!)

 物語は、母を失った三人の幼い子供たちに向けた、有島の手記といった形式となっています。

 「お前たちが一人前の人間に育ち上った時、この小さな書き物(『小さき者へ』)も眼の前に現われ出るだろう。そのとき私の思想の未熟で頑固(がんこ)なのを(わら)うかも知れない。けれども遠慮なく私を踏台にして、乗り越えて進んで欲しい。」と、冒頭で有島は語ります。

 そして、「お前たちは去年、たった一人の母親という生命にとって一番大事な養分を奪われてしまった。」と子供たちの不幸を哀れみ、七年前の出産時を回想し、「大きな天と地との間に一人の母と一人の子とがその刹那(せつな)忽如(こつじょ)として現われ出た。」と語ります。

 「その時、新たな母は私を見て弱々しく微笑んだ。私はそれを見ると涙が眼がしらに(にじ)み出て来た。」と回想し、「生れように難易の差こそあれ、お前たち三人はこのようにして世の光を見た。」と、いかに愛されて生まれてきたかを子供たちに語ります。

 三人の子供の父親になった頃、「心の中に色々な問題をあり余る(ほど)持っていた。ある時は結婚を悔いた。ある時はお前たちの誕生を憎んだ。」と、有島は当時の心境を正直に明かし、「お前たちの母上を屡々(しばしば)泣かせたり、お前たちに厳しい折檻を加えたりした。」と語ります。

 「然し運命が私の我儘(わがまま)と無理解とを罰する時が来た。」と有島は語ります。それは妻が結核という不治の病を患って入院することになったからでした。有島は、「妻の入院以来、仕事と子育ての両立に、心身ともに疲れ果てていた。」と、当時の苦悩を語ります。

 ある日、妻が「早く退院がしたいと言い出した。」と語り、そのときの妻の心境は、「お前たちから一刻も離れてはいられなくなっていたのだ。」と、有島は推測しています。そして退院の日は、「(あられ)の降る、寒い風のびゅうびゅうと吹く悪い日だった。」と回想します。

 北国の寒さは厳しく、「私たち親子は、小さく固まって身を(まも)ろうとする雑草の株のように、互により添って暖みを分ち合おうとしていたのだ。(しか)し五人の暖みでは間に合わない程寒かった。」と、有島は妻の療養のため、東京への転居を決意したと語ります。

 東京に移り住んだ有島家族ですが、「母上は程なくK海岸にささやかな貸別荘を借りて住む事になった。」と語り、正月早々には、「お前たちの母上は自分の病気の真相を()かされねばならぬ羽目になった。」と有島は回想します。

 そのとき妻は、「死に対する Resignation(諦め)と共にお前たちに対する根強い執着がまざまざと刻まれていた。私は凄惨(せいさん)な感じに打たれて思わず眼を伏せてしまった。」と、有馬は回想します。

 再び再び入院することになった妻は、「全快しない限りは死ぬともお前たちに逢わない覚悟の(ほぞ)を堅めていた。」と回想し、けれども別れの際に流した母親の熱い涙は、「お前たちだけの(とうと)い所有物なのだ。」と、有島は語ります。

※臍を堅(固)める。(ほぞをかためる) 固く心を定める。決心を固める。覚悟を決める。堅固に用心する。

 「それからお前たちの母上が最後の気息を引きとるまでの一年と七箇月の間、私たちの間には烈しい戦が闘われた。」と有島は語り、「母上は血の涙を泣きながら、死んでもお前たちに会わない決心を(ひるがえ)さなかった。」と、妻の姿を回想します。

 そればかりではなく、妻は子供たちに、葬儀の参列まで認めませんでした。「幼児に死を知らせる事は無益であるばかりでなく有害だ。」と、思っていたと有島は語ります。そして母親の遺書の一句を紹介しています。

 「子を思う親の心は日の光 世より世を照る大きさに似て」

 有島は、妻の臨終に子供たちを立ち会わせなかったことを、「残酷だと思う時があるかも知れない。けれどもお前たちはまだ小さい。お前たちが私の(とし)になったら私のした事を、(すなわち)母上のさせようとした事を価高く見る時が来るだろう。」と語ります。

 そして、「お前たちの母上は亡くなるまで、金銭の(わずら)いからは自由だった。飲みたい薬は何んでも飲む事が出来た。食いたい食物は何んでも食う事が出来た。私たちは偶然な社会組織の結果からこんな特権ならざる特権を享楽した。」と、自分たちが恵まれていることを子供たちに諭します。

※享楽(きょうらく) 快楽にふけって、十分に楽しむこと。

 有島は、「お前達と私とは、血を味った獣のように、愛を味った。」と、妻から受けた愛の恩恵を語り、「私はお前たちを愛した。そして永遠に愛する。」と、自信の覚悟の程を子供たちに伝え、「力強く勇ましく私を振り捨てて人生に乗り出して行くがいい。」と語ります。

 そして最後に有島の心からのメッセージが告げられます。

―以下原文通り―
小さき者よ。不幸なそして同時に幸福なお前たちの父と母との祝福を胸にしめて人の世の旅に登れ。前途は遠い。そして暗い。然し恐れてはならぬ。恐れない者の前に道は開ける。
 行け。勇んで。小さき者よ。

青空文庫 『小さき者へ』 有島武郎
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あとがき【『小さき者へ』の感想を交えて】

 文中で「恐れない者の前に道は開ける」と話していた有島武郎でしたが、彼の生涯にも記しているように不倫の末の心中といった悲惨な最期を迎えます。けれども、その瞬間の子供たちへの思いは本物だったでしょう。

 親馬鹿という言葉があるように子供というものは本当に可愛いものです。ともあれ、有島の残した「力強く勇ましく私を振り捨てて人生に乗り出して行くがいい。」という言葉はまさに将来を暗示しているかのようです。

 物語の途中、「私たちは偶然な社会組織の結果からこんな特権ならざる特権を享楽した。」と語る場面がありますが、有島はこの「特権ならざる特権」に始終悩まされ続けていました。当時流行していた社会主義思想の影響もありますが、有島は特にこの点で正直過ぎました。

 結局はこの正直さに自ら追い込まれ、死にゆく事になるわけですが、このような自分に真っ正直な人間が今の時代少ないような気がします。何にせよ「行け。勇んで。小さき者よ。」と、胸を張って言える世の中にしなければなりませんね。正直者の救われる世の中に。

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