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志賀直哉『清兵衛と瓢箪』あらすじと解説【型に嵌めたがる社会!】

一読三嘆、名著から学ぶ
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はじめに【杓子定規】

 杓子定規(しゃくしじょうぎ)という四文字熟語があります。辞書で調べると「何でも、いつでも、同じ規準や考え方などで物事を判断・処理しようとして、融通の利かないこと。」と出てきますが、このような人間がわたしの周りにも多数存在しています。

 いや、もしかしたら気が付いていないだけで、わたし自身もそんな人間なのかもしれません。いわゆる「頭が固い」ってやつですが、大人になるにつれてこの傾向が強くなっていくように感じます。

 自分の価値観を押し付けるような言動をされたら、誰しもいい気持ちはしません。他人なら相手をしなければ済むはなしですが、それが家族ともなればさらに問題は複雑になっていきます。

 「多様性」という言葉が叫ばれるなか、これからは “ 心の寛大 ” さが必要となってくることでしょう。

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志賀直哉『清兵衛と瓢箪』あらすじと解説【型に嵌めたがる社会!】

志賀直哉(しがなおや)とは?

 大正から昭和にかけて活躍した日本を代表する作家です。(1883~1971)
志賀直哉は、明治16(1883)年、宮城県石巻に生まれ、その二年後東京に移り住みます。

 学習院高等科を経て、明治39(1906)年、東京帝大英文科に入学しますが、後に中退します。明治43(1910)年、学習院時代からの友人、武者小路実篤らと同人誌『白樺』を創刊し『網走まで』を発表します。

  武者小路実篤

 その後、『剃刀』『大津順吉』『清兵衛と瓢箪(ひょうたん)』『(はん)の犯罪』などを書き、文壇に認められます。しかしこの頃、父親との関係が悪化し、尾道、赤城山、我孫子(あびこ)等を転々とします。

 また同時期には、武者小路実篤の従妹・()()()小路(こうじ)康子(さだこ)と家の反対を押し切って結婚します。その後父親と和解し、『城の崎にて』『小僧の神様』『和解』『暗夜行路』等、次々と傑作を生みだしていきます。

 晩年は東京に居を移し、積極的な創作活動はしませんでした。昭和46(1971)年、肺炎と老衰により死去します。(没年齢・88歳)

   志賀直哉

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短編小説『清兵衛と瓢箪』(せいべえとひょうたん)について

 『清兵衛と瓢箪』は、大正2(1913)年1月1日の『読売新聞』に発表されます。志賀直哉は大正元(1912)年11月10日、広島県尾道市に転居しますが、その翌々日、船で四国に渡っています。このとき船上で耳にしたはなしが元となっています。

大正元(1912)年秋、尾道市のある店に一つの瓢箪が二十銭で売られていた。ひとりの子供がこれを購って学校にまで持っていくが、先生に叱られ、両親にも「ヒドク怒られた」。だが、母親がこの瓢箪を売り払おうと道具屋に持っていったところ、驚くべきことに元の三十五倍の値となる七円で引き取られたのであった。
(志賀直哉『創作余談』)

『清兵衛と瓢箪』あらすじ(ネタバレ注意!)

 清兵衛は十二歳の小学生で、瓢箪(ひょうたん)作りに()っていました。皮つきの瓢箪を十(ほど)も持っていて、暇さえあれば種を出したり、(せん)を作ったり、または父親の飲みあました酒で(しき)りに(みが)くなどしていました。

 その凝りようは(はげ)しく、禿()げ頭を見ても「立派な(ひょう)じゃ。」と思ってしまうくらいです。清兵衛は学校から帰ると誰とも遊ばずに、よく町へ瓢箪を見に出かけます。そして夜は瓢箪の手入れをし、それを飽きずに眺めていました。

 古瓢(こひょう)には余り興味がなく、口も切っていない皮つきに興味を持っています。しかも所謂(いわゆる)瓢箪型の平凡な恰好(かっこう)のものに興味がありました。父親の客からも「もっと奇抜なもんを買わんかいな。」と言われますが、清兵衛は「こういうがええんじゃ。」と、済まして答えます。

 そんな清兵衛を父親は快く思っていませんでした。父親が「()(きん)の瓢箪という奴は素晴らしいもんじゃったのう。」と、話したときも「わしには面白うなかった。」と反論し、怒りを買う始末です。

※馬琴(ばきん) 滝沢馬琴(1767-1845)。江戸時代後期の読本作者で代表作に『南総里見八犬伝』『椿説(ちんせつ)弓張月(ゆみはりづき)』などがあります。

 ある日、清兵衛が裏通りを歩いていると、いつもは見慣れない場所に屋台が出され、二十ばかりの瓢箪が売られていました。その中に一見形は普通だけれども、清兵衛にとっては震えるほどに見事な瓢箪を見つけ、それを十銭で購入します。

 それからの清兵衛はこの瓢箪を離せなくなり、学校にまで持って行くようになります。そして授業中でも瓢箪を磨くようになっていきました。この事が担任の教員に見つかってしまいます。しかも修身(道徳)の時間だっただけに教員は激怒し、その瓢箪は取りあげられてしまいました。

 そればかりではなく、教員は清兵衛の家にまで乗り込んで来て説教をします。父親は激怒し、清兵衛を捕まえて散々殴った挙句に、家にあった瓢箪を一つ残らず玄能(金づち)で割ってしまいました。清兵衛ただ青くなって黙っているしかありません。

 一方、取り上げられた瓢箪は教員から小使い(学校用務員)の手に渡ります。小使いが骨董屋に持ち込むと、なんと五十円の値をつけます。それは小使いの給与四ヶ月分にあたる金額でした。その後骨董屋は、瓢箪を地方のとある豪家に六百円で売りつます。このことまでは誰にも想像できませんでした。

 清兵衛はそれから、絵を描くことに熱中します。けれども父親は、絵を描くことにも小言を言い出してきたのでした。

『清兵衛と瓢箪』【解説と個人的な解釈】

 志賀直哉が広島県尾道市に転居した理由に「小説家」という職業をめぐる父・(なお)(はる)との対立があったことはよく知られています。

 『清兵衛と瓢箪』は「尾道から四国へ渡る汽船で聴いた話が元になっている」と書きましたが、「書く動機は自分が小説を書く事に(はなは)だ不満であった父への私の不服」と『創作余談』の中で語っています。つまり、父親との確執が創作の背景にあります。

 清兵衛は瓢箪に関して独自の「世界観」を持っていました。けれども周りの大人たちはそのことを理解しようとはしません。教員は自分の好悪で生徒を判断し、父親は自分の価値観を押し付けるばかりです。

 しかし、このことは時代背景と密接な関連があります。明治末期から大正初頭にかけて、国は国家主義教育を推奨していきました。その中心に据えられたのが「修身教育」です。この教育は天皇崇拝を軸とした家族国家思想を理念としていました。

 要するに現代とは違い、家族の形も主従関係のようなものだったのです。父親は絶対的な権限を持ち、父親の価値観によって家族のあり方は決められます。ですから到底理解のできぬ清兵衛の「世界観」など認める筈がありませんでした。

 そして物語の結末は、清兵衛に再び同じような不幸が繰り返されることを暗示して終わりますが、清兵衛に限らず、この時代はどこの家族も同じようなものだったと想像できます。それは作者の家族も同様でした。

 作者が『清兵衛と瓢箪』という作品に込めた思い、それは、親子の関係性は勿論のこと、家族国家思想への抵抗だったのではないかと、わたしは考えています。なぜなら、あえて「修身の授業中」に、清兵衛に瓢箪を磨かせたような気がするからです。

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あとがき【『清兵衛と瓢箪』の感想を交えて】

 最初に「杓子定規」な人間について書きましたが、個人に限らず社会全体が再びこのような傾向に陥っているような気がします。そのいい例が「同調圧力」でしょう。

 言うまでもなく、少数意見を持つ人に対して、周囲の多くの人と同じように考え行動するよう、暗黙のうちに強制することですが、余りにも多く見受けられるようになりました。

 このような社会で「多様性」云々語るのは矛盾していると思うのですが、それはわたしの思い過ごしでしょうか・・・。『清兵衛と瓢箪』という作品は時代を超えて、 “ 型に嵌めようとする社会 ” に対して警笛を鳴らしているような気がします。

 ちなみにこの作品で志賀直哉は原稿料として三円を受け取ります。この金額は骨董屋が地方の豪家に売ったとき値段、六百円の二百分の一です。もしかしたら志賀自身「小説家」として原稿料六百円を貰える日を夢見ていたのかもしれません。

 ともかくとして、人々が夢を見続けていられるようにするには、わたしたち一人一人が「杓子定規化」しないよう心掛けることが大切だと考えます。『清兵衛と瓢箪』は、そんな当たり前のことを思い起こさせてくれる作品です。

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