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森鴎外『舞姫』あらすじと解説【立身出世と恋愛どっちを選ぶ?】

一読三嘆、名著から学ぶ
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はじめに【「私(俺)と仕事、どっちが大事なの?」】

 「私(俺)と仕事、どっちが大事なの?」―――恋愛ドラマでよく耳にする台詞ですが、実際に言われた経験のある方もいるのではないでしょうか。当然、どちらも大事です。二者択一の選択などできるものではありません。

 ところが、この発言がきっかけで、恋愛関係を解消する男女は意外と多いようです。きっと売り言葉に買い言葉的に、一時の感情をぶつけてしまうのでしょう。後から「しまった!」と後悔しても遅かったりします。

 このような言葉を思わず使ってしまう場合は大概にして “ 不安定な心理状態 ” のときです。相手の心が安定するよう努力をすることで解決ができます。

 いずれにしても、わたしたちは幸せな時代に生きていると言えます。このような台詞を口にできるのですから。少し前までは仕事はおろか、恋愛の選択すら不自由でした。ともに “ 家柄を重んじ親の意志により決められた ” のですから。

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森鴎外『舞姫』あらすじと解説【立身出世と恋愛どっちを選ぶ?】

森鴎外(もりおうがい)とは?

 明治・大正期の小説家、評論家、軍医です。本名・森(りん)太郎(たろう)。(1862~1922)
森鴎外は文久2(1862)年、石見国(島根県)津和野藩主の典医、森静男の長男として生まれます。明治14(1881)年、東京大学医学部を卒業後、陸軍軍医となります。

 4年間のドイツへ留学を経て、帰国後には、留学中に交際していたドイツ女性との悲恋を基に処女小説『舞姫』を執筆します。以後は軍医といった職業のかたわら、多数の小説・随想を発表していくこととなります。

 軍医の職を退いた森鴎外は、大正7(1918)年、帝国美術院(現・日本芸術院)の初代院長に就任します。その後も執筆活動を続けていましたが、大正11(1922)年7月9日、腎萎縮、肺結核のために死去します。(没年齢・満60歳)

 近代日本文学を代表する作家の一人で、『舞姫』の他にも、『高瀬舟』『青年』『雁』『阿部一族』『山椒大夫』『ヰタ・セクスアリス』といった数多くの名作を残しています。

    森鴎外

小説『舞姫(まいひめ)』とは?

 『舞姫』とは、森鴎外の短編小説で、処女作でもあります。明治23(1890)年1月3日発行の『国民之友』で発表されました。

 森鴎外自身のドイツ留学、及び現地での恋愛経験を元にした創作であると考えられています。ちなみに舞姫とは「踊り子」のことで、鴎外がいた1880年代当時のベルリンには「踊り子」の舞いを観る劇場が35くらいあったと言われています。

『舞姫』【物語の時代背景】

   司法省赤レンガ棟

 明治時代に入ると、明治新政府は近代国家の仲間入りを果たすために、「富国強兵」「和魂洋才」などというスローガンを掲げ政策を進めていました。従って外国留学が重要な国策の一つとなります。

和魂洋才(わこん-ようさい) 日本人固有の精神をもって西洋伝来の学問・知識を取捨・活用するという行き方。

 明治年間のこうした官私費留学生は全体で約2万4千人以上とされ、森鷗外のそのうちの一人です。森鴎外は明治17(1884)年にドイツ留学します。ちなみに留学の目的は、ドイツ帝国陸軍の衛生制度を調べるためでした。

 森鴎外が留学した翌明治18(1885)年、日本では内閣制度ができます。また、帰国した明治21(1888)年の翌年の明治22(1889)年には、大日本帝国憲法が発布されました。

『舞姫』あらすじ(ネタバレ注意!)

 時は明治時代の中頃です。主人公の太田豊太郎は、サイゴンの港に停泊中の船の客室で、一人思い悩んでいました。豊太郎は五年間のドイツ留学を終えて、帰路の途中なのです。

 船に乗ってから既に二十日経っています。その間ずっと、豊太郎は人知れぬ恨みに悩まされていました。そこで豊太郎は筆を取る決心をします。それはドイツ滞在中の未練を断ち切るためでした。

 父親を早くに亡くした豊太郎でしたが、学問は常に優秀でした。大学の法学部を首席で卒業した豊太郎は、とある省の官吏となります。その三年後には海外赴任を命じられます。功名心の強い豊太郎は、こうして遥々(はるばる)ベルリンの都に立ったのでした。

    ベルリン・ブランデンブルク門

 最初の三年は夢のように過ぎました。そのあいだ豊太郎は、父や母の教えに従い、また国の期待に応えようと、あらゆる誘惑を断ち切り、勉学に(いそ)しみます。ところがその一方で、 “ 個人の尊重 ” といったヨーロッパの自由な思想にも触れていくのでした。

 ある日の夕方、豊太郎が散歩をしているときのことです。教会の前で、十六、七才くらいの少女が泣き濡れているのに出くわします。その少女の美貌(びぼう)に一目で心を奪われた豊太郎は、思わず足を止め、声をかけました。

 泣いている理由を訊ねると、少女は「私を救って下さい。父親が死んで、明日には葬儀をあげなければならないのに、家には一銭のお金もないのです。」と、涙ながらに打ち明けます。

―――豊太郎は父親の葬儀代を工面してあげることにします。
このことをきっかけに、豊太郎と少女は、交際することになったのでした。

 少女の名はエリスといいます。父親の亡くなった今、母親と二人で暮らしています。エリスの職業は舞姫でした。家庭の貧しさのため、充分な教育を受けられず、舞姫として働くしかなかったのです。

 そんな豊太郎とエリスの交際は、いつしか仲間たちの知るところになります。(女遊びばかりしている)と、上司に告げ口をする人間まで出てくる始末です。その結果、豊太郎は―――免職を言い渡されたのでした。

 豊太郎の不幸はさらに続きます。それは国元から―――“ 母の死の知らせ ” が届いたことでした。
豊太郎は苦悩します。(このまま帰国すれば汚名を負う。けれども、留まるにしてもその費用は無い・・・。)

 そんな豊太郎に救いの手を差し伸べた人間がいました。東京で大臣の秘書官を務めている相沢謙吉という友人です。相沢は豊太郎に、新聞社のドイツ駐在通信員という職を用意してくれました。

 豊太郎は、エリスの家に寄寓(きぐう)し、通信員として働くようになります。報酬は少なく、勿論心配事はありましたが、それでもエリスとの楽しい日々を送っていたのでした。

寄寓(きぐう) 他人の家に一時世話になること。また、仮のすまい。

 そんな冬のある日、エリスが舞台で倒れます。―――実は、豊太郎の子を身篭(みごも)っていたのでした。豊太郎は我が身の将来に不安を覚えます。そんなとき、相沢から便りが届きます。内容は「大臣に同行し、ドイツに来ているから、急ぎ会いたい。」というものでした。

 豊太郎は大臣と面会し、翻訳の仕事を依頼されます。その面会後、豊太郎は相沢に「お前の学識、才能を無駄にするな。早く関係を断ち切れ。」と、(いさ)められます。その言葉に動揺した豊太郎は「断つ。」と、約束してしまいます。

 相沢は豊太郎に、“ 大臣のロシア訪問の随行員 ” といったチャンスを与えます。一時は静まり返っていた豊太郎の功名心も(よみがえ)ってきます。ロシア出張で豊太郎は、その語学力を遺憾(いかん)なく発揮し、大臣の信頼を得ることに成功したのでした。

 こうした状況で豊太郎は、(出仕コースに戻り、国家のために尽くすべきか、それとも愛情を選ぶべきか)といったジレンマに陥っていきます。ベルリンに戻ってから二、三日後のことです。豊太郎は大臣に招かれ、その席で「日本へ一緒に戻らないか。」と、誘われます。

 豊太郎は即座に―――「承諾します。」と、答えていたのでした。

 帰国を決めた豊太郎でしたが、エリスに真実を告げられないでいました。その心労からか、豊太郎は何週間か寝込んでしまいます。その間、相沢が訪ねてきて、エリスに真実を話してしまいました。

 エリスは衝撃の余り「私の豊太郎、(だま)していたのね!」と、叫んで倒れ込んでしまいます。目を覚ましたとき、エリスは精神を病んでいました。医者からはパラノイアと診断され、治癒の望みが無いと告げられます。

※ パラノイア(paranoia) 精神病の一つ。患者が抱く妄想は論理的には一貫しており、行動・思考などの秩序が保たれているもの。偏執病。妄想症。

 豊太郎は相沢と相談し、生計が立てられるだけのお金をエリスの母に与え、帰国の途に就きます。―――そしてこう思うのでした。

 「ああ、相沢ほどの素晴らしい友はこの世に二人といない。ただ私の脳裏に一点だけ、彼を憎む心が残ってしまった・・・。」

青空文庫 『舞姫』 森鴎外
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小説『舞姫』と【森鴎外の諸事情】

 明治17(1884)年6月17日、当時陸軍二等軍医だった森鴎外はドイツ留学を命じられ、同年8月24日に、他の留学生9名とともに、フランス船メンザレー号に乗り込み、横浜港をあとにします。このとき鴎外は22歳でした。

 メンザレー号は10月11日、ドイツに到着します。それから鴎外は、ライプチッヒ、ドレスデン、ミュンヘンを回り、ベルリンの地に至ります。この間、先進国の医療と衛生制度を学んだ鴎外は、明治21(1888)年9月4日に帰国します。

 この際、鴎外を追って一人のドイツ人女性が来日します。女性の名前は「エリーゼ」といいました。鴎外が横浜の地を踏んでから四日後のことでした。

 このとき男女間でどのような話し合いをされたかは定かでありませんが、エリーゼは日本に約一か月間滞在した後、一人で帰国することになります。

 鴎外はこの後、かねてより進められていた縁談話を受け、翌明治22(1889)年3月7日、海軍中将赤松則良男爵の長女登志子と結婚します。けれども、この結婚生活は長くは続かず、翌年に破局を迎えます。

 このような状況の中、翌明治23(1890)年に森鴎外は『舞姫』を発表します。

『舞姫』【解説と個人的な解釈】

 前述したように『舞姫』は、作者・森鴎外が、自身の経験したドイツ留学と現地での恋愛を素材とし、それに脚色を加えて創作したものです。

 主人公の豊太郎はベルリンの大学で学ぶことで、ヨーロッパ的な「自由な思想」に触れていきます。それは「自我」の目覚めとも言えるものでした。けれども結局、この豊太郎の「自我」が自らを窮地に追い込んでいきます。エリスとの恋愛が上司に知られ免職処分となります。

 その後、一時は通信員として働き、エリスと共に生きようとしたものの、今度は以前から持ち合わせていた功名心といった「自我」に駆られていいます。恋愛と功名心、ふたつの「自我」の狭間で豊太郎の心は揺れ動いていきます。

 結果、豊太郎は功名心、つまりは出世という「自我」を選びます。けれどもそれは同時に、「自我」を捨てることにも繋がります。組織に帰属し、上司の命令どおり、駒のように勤めを果たす日々に戻るのですから。

 そして物語の結末、豊太郎が相沢に対して、「憎む心が残ってしまった。」と語ります。あくまで個人的な解釈ですが、合理的な相沢と優柔不断な豊太郎、この二人の登場人物は作者の分身、つまり自身の矛盾する感情を二人に当てはめた作品のように思えます。

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あとがき【『舞姫』の感想を交えて】

 森鴎外は「舞姫は事実に拠つて書いたものではありません。能くあゝいふ話しはあるものです。」と語っています。

 実際、当時の留学生は、いわゆる「現地妻」をつくっていたようです。明治という時代はまだ、身分の高き者は(めかけ)(愛人)を囲うという慣習が残っていました。森鴎外が「能くあゝいふ話しはあるもの」と語っているのも頷けます。

 どうしても『舞姫』という作品は、豊太郎の優柔不断さに着目されがちです。特に女性目線で見たら、明らかに最低男に映るでしょう。けれども少し擁護するなら、まだ封建制度の気風も残されていた時代だったです。

 豊太郎のみならず、当時の役人になる人間は、元をたどれば武士階級がほとんどです。人間形成には儒学の影響が色濃く現れていたでしょう。つまりは、「お国のため・お家のため」という気持ちが勝つのは当たり前なのです。

 もしも今の時代なら、『舞姫』の豊太郎、そして作者・森鴎外も、すんなりと国際結婚をしていたかもしれません。余談ですが、SNSの普及により、国際結婚が増えていると思いきや、そんなでもないようです。国境を超えた恋愛には、今もなお、見えない壁があるようですね。

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