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小川未明『赤い蝋燭と人魚』あらすじ【老夫婦の犯した罪と罰!】

名著から学ぶ(童話)
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はじめに【日本の人魚伝承について】

 人魚といえば、アンデルセンの『人魚姫』を思い浮かべる人が多いでしょう。このイメージから人魚イコール西洋の物語と思いがちです。が、日本でも実は、早くから人魚の存在が語られています。

 日本での最も古い人魚の記録は『日本書紀』です。

推古天皇27年4月4日、近江の国から「日野川に人のような形の生き物がいた」と報告があった。同年7月、摂津国の漁夫が水路に網を仕掛けたところ、人の子供のような生き物が捕れた。魚でもなく人でもなく、何と呼ぶべきか分からなかった。
(『日本書紀』)

 また聖徳太子が近江国(現:滋賀県)で人魚に会い、前世の悪行で人魚に姿を変えられたと聞いて手厚く供養したという話も残されています。このように人魚は昔から、神秘的な生き物として、例え姿は見えなくても、我々の近くに存在していたのです。

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小川未明『赤い蝋燭と人魚』あらすじ【老夫婦の犯した罪と罰!】

小川未明(おがわみめい)とは?

 大正15/昭和元(1926)年、『未明選集』全6巻の刊行を機に、童話作家として専念することを決意します。以後、『牛女』『赤い蝋燭(ろうそく)と人魚』『野薔薇』『考えこじき』など、数々の名作を描き続けました。

 昭和36(1961)年5月11日に脳出血のため東京都杉並区高円寺南の自宅で死去します。(没年齢・79歳)

   小川未明

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坪内逍遙(つぼうち しょうよう)とは?

 坪内逍遙(本名・坪内勇蔵)は明治から昭和前期の小説家、劇作家、評論家です。(1859~1935)

 坪内逍遙は、安政6年5月22日(1859.6.22)、美濃国太田村(岐阜県美濃加茂市)の尾張藩代官所役人の家に生まれます。東京大学文学部政治科を卒業し、後に早稲田大学の前身である東京専門学校の教授となります。この頃に小川未明が生徒となり指導をします。

 文芸誌『早稲田文学』(1891)の創刊、シェークスピアの研究・翻訳、また文芸協会を主宰して演劇運動にも尽力するなど、日本近代文学、演劇の発展史に大きな功績を残します。

 昭和10(1935)年2月28日、感冒に気管支カタルを併発し、死去します。(没年齢・75歳)

   坪内逍遙

童話『赤い蝋燭と人魚』について

 小川未明の童話『赤い蝋燭(ろうそく)人魚(にんぎょ)』は、大正10(1921)年2月16日から20日間にわたり『東京朝日新聞』の「新童話」欄に掲載されます。

 その三か月後に発刊された童話集『赤い蝋燭と人魚』(天佑社、大正10年)の表題作となった作品であり、未明の代表作と見なされてきた作品でもあります。

 ちなみに、この物語は、新潟県上越市大潟区の雁子(がんご)(はま)に伝わる人魚伝説から得た発想を元にしたといわれています。

雁子浜人魚伝説

 雁子浜の住吉(すみよし)神社が、まだ袴形(はかまがた)という所にあったころのお話です。袴形の神社は小高い丘の上にあり、遥か彼方には佐渡島が望めます。鳥居の南側には常夜灯が並び、悪天候でも欠かされることなく献灯されていました。

 この常夜灯の灯りを頼りに、毎夜佐渡島から渡ってくる不思議な女性がいます。さて、雁子浜に一人の若者がいました。若者には許嫁(いいなずけ)がいるのですが、ふとしたことから佐渡島の女性と恋仲になってしまったのでした。

 若者は毎晩家を抜け出して、常夜灯に献灯をしては、女性との逢瀬を楽しんでいたのです。ある日、このことを母から咎められた若者は、一夜だけ献灯を休んでしまいました。



 翌朝、若い女性の死体が袴形の崖下に打ち上げられます。その形相はさも恨めしそうで、見る人をゾッとさせるものでした。深く後悔をした若者も、女性の後を追って海に身を投げてしまいます。

 同情した村人達は、常夜灯の近くに二人を埋葬して、一基の比翼(ひよく)(づか)をつくり、地蔵尊像を安置して、菩提を弔ってやりました。明治41(1908)年に、この明神様は崩山に移されましたが、いつしかこの比翼塚のことを「人魚塚」と呼ぶようになります。

 ちなみに現在、神社の跡地は整地されて、石碑と灯籠一基を残すのみとなっています。

『赤い蝋燭と人魚』あらすじ(ネタバレ注意!)

 月の明るく照らす晩のことです。ある北の海で、ひとりの人魚が、岩の上に休みながら物思いに耽っていました。人魚は女性で、お腹に子供を宿しています。

 人魚は常日頃、(自分たちの心も姿も、人間と似ているのに、どうして魚や獣などと一緒に、冷たく暗い海の中に暮らしているのだろう)と、思っていました。

―――「人間はこの世界で一番優しくて、可哀想な者は決して虐めない。しかも住む町は美しく、賑やかで明るい。」と、聞いています。

 ですから人魚はいつしか(生まれてくる子供は人間の手に委ねよう)と、考えるようになったのです。遥か彼方の小高い山には神社の(ともし)()が見えます。人魚は陸の上で産み落とそうと決心し、その方向へと泳いで行きました。

―――我が子とは、二度と会えなくなるのを知りつつも・・・。

 海岸の小さな町に一軒の蝋燭(ろうそく)屋がありました。その蝋燭屋はお爺さんとお婆さんが夫婦二人だけで商っています。辺りの人は、山の上の神社にお詣りをするとき、この店に立ち寄って蝋燭を買い、山に登るのが常でした。

 ある晩のことです。「私達がこうして、暮らしているのも、山の上の神社の神様のおかげです。」と、お婆さんはお爺さんに言い、一人でお詣りに出かけることにしました。

 お詣りを済ませたお婆さんが、山を降りて来ると、石段の下でなんと―――赤ん坊が泣いているではありませんか。(これを見捨ててはきっと神様の罰が当たる)そう思ったお婆さんは赤ん坊を家に連れて帰ることにします。

 お爺さんも「まさしく神様のお授け子だ。」言い、夫婦で赤ん坊を育てることにします。ところがこの赤ん坊、女の児でしたが、胴から下は魚の形をしていました。そこでお爺さんも、お婆さんも(これは話に聞く、人魚に違いない)と思うのでした。

 二人は赤ん坊を大事に育てます。その甲斐あってか、赤ん坊は美しく利口で、とてもやさしい娘へと成長していきました。ある日、娘は(きっと白い蝋燭に絵を描いたらみんな喜んで買ってくれるだろう)と思い付きます。

 そのことをお爺さんに話すと「お前の好きな絵を書いて見るがいい。」と、答えました。それから娘は、白い蝋燭に赤い絵具で魚や貝の絵を描き始めます。するとその蝋燭はたちまち評判となり、蝋燭屋は繁盛します。

 更には、絵が描かれた蠟燭を神社で灯し、その燃えさし(燃え残り)を身に付けて、海の仕事に出ると、どんな大暴風雨(おおあらし)の日でも災難がなく、無事に帰って来れるといった噂が、いつからか広がっていきます。

 神社には、遠方からも船乗りなどが、やって来るようになり、蝋燭の火は昼も夜も絶えなくなります。こうして町も蝋燭屋も栄えていったのでした。けれどもその一方で、娘は、育ててくれた恩を返そうと、手の痛みもこらえて絵を描き続けていました。

 そんな優しい娘を可哀想にと思う者は誰一人としていなかったのです。疲れ果てた娘は、いつしか月夜に窓から顔を出して、遠い北の海を恋しがって涙ぐむようになっていきました。

 ある日のことです。南の方の国から、香具師(やし)がやって来ました。どこから聞いたのか、それとも自分で見たのかは分かりませんが、その香具師は、娘が人魚であることを見抜いていました。

香具師(やし) 盛り場・縁日・祭礼などに露店を出して商売したり、見世物などの興行をしたりする人。

 香具師は、「大金を出すから、その人魚を売ってくらないか?」と、老夫婦に申し出ます。勿論老夫婦は「この娘は、神様のお授けだから。」と言って、その申し出を断りました。

 ところが、香具師は諦めずに何度もやって来て、「昔から、人魚は不吉だと言われている。」などと、言葉巧みに老夫婦を説得します。大金にも心を奪われた老夫婦は、とうとう娘を売ると約束してしまうのでした。

 娘は「どんなにも働きますから、私を売らないで下さい。」と、懇願します。けれども、欲に目が眩んだ老夫婦の耳には、もはや届きませんでした。そして、ついに売られていく日がやって来ます。

 その日も娘は、いつものように座って蝋燭に絵を描いていました。老夫婦はそんな娘を見て、いじらしいとも哀れとも思いませんでした。()き立てるように連れ出そうとするばかりです。

 娘は蝋燭に絵を描くことも出来ず、真っ赤に塗ってしまいます。―――そしてその赤い蝋燭を悲しい思い出の形見にと、残して行くのでした。

 娘を乗せた船が、ちょうど沖に出た晩のことです。夜遅くにも関わらず、一人の女性が蝋燭を買いに訪れます。見るとその女性はずぶ濡れでした。女性は赤い蝋燭を買って店を出て行きますが、後からその銭を見ると、それはお金ではなくて貝殻だったのです。

 その晩、急に空模様が変わり、近頃にない大暴風雨となりました。この夜、沖では数多くの船が難破しました。それからは神社に、赤い蝋燭が灯されるようになります。不思議なことに赤い蝋燭が灯される晩は、大暴風雨になるのです。

 老夫婦は「神様の罰が当ったのだ。」と言い、それきり蝋燭屋をやめてしまいました。しかし、その後も毎晩、何処からともなく、赤い蝋燭が灯され続けます。やがて赤いの蝋燭が灯るのを見た者は災難に遭い、溺れ死ぬという噂まで広がるのでした。

 昔は霊験あらたかだった神社も、参詣する者もいなくなります。船乗りは神社のある山を眺め、恨み恐れるのでした。こうして、間もなく神社の下の町は亡んで無くなってしまったのです。

青空文庫 『赤い蝋燭と人魚』 小川未明
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あとがき【『赤い蝋燭と人魚』の感想を交えて】

 明治38(1905)年、早稲田大学を卒業後した小川未明は、翌年に日本女子大卒の山田キチと結婚します。その後、貧しいなりに執筆活動を続けていた未明でしたが、三十二歳の時、長男の哲文を病気のために亡くします。

 この頃から未明は、児童文学を多く執筆するようになっていきます。そして三十六歳の時、長女晴世までもが病気のために命を落としてしまいます。二人目の子供を亡くした三年後、未明は『赤い蝋燭と人魚』を描いたのです。

 小川未明は、子供を題材とした多くの作品を残しています。中には『赤い蝋燭と人魚』と同じく、虐げられた子供を描いた作品も複数見られます。それは「子を失ってからでは遅い!」といった、未明の謂わば後悔のようにも思えます。

 さて、物語の中で、人魚の娘がこの後どうなったかは描かれていません。人魚なのですから、船が沈没したとしても溺れ死ぬことはないでしょう。例え窮地に陥ったとして、母親が助けてくれたに違いありません。

 それから、人間の醜い世界をまざまざと見せつけられた人魚の親子は、陸には決して近づかなくなるでしょう。そして願う筈です。―――話に聞いた “ 優しくて誰も虐めたりしない ” 人間になることを。

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