はじめに【小川未明の戦争観】
人間を殺していいという思想が私には既に怖しいのです。(中略)戦争と虐殺とは事実に於て同じです。戦争のある限り何処かに於て、やはり虐殺が行われている。殺すという思想を全く人類から取り去らない限りは、永久にこのあり得べからざる悲劇が演ぜられるであろう。
(『あり得べからざる悲劇』小川未明)
この文章は小川未明が言論雑誌『日本及日本人』第787号で、「尼港事件」についに寄稿したものです。戦争そのものを否定する未明の戦争観がこの文章に表れています。
尼港事件(にこうじけん)
出典:旺文社日本史事典 三訂版
1920(大正9)年,シベリア出兵中,日本軍とソ連パルチザンとの間におこった紛争。ニコライエフスク事件ともいう。シベリア出兵でニコライエフスク(尼港)を占領していた日本軍はパルチザン(非正規軍)に包囲されていったん降伏し,奇襲反撃に出たが再び敗れ,日本人居留民・将兵ら推定700余人が殺害され,122名が捕虜となった。その後日本援軍の侵攻を聞いたパルチザンは市中を焼き払い捕虜全員を殺害して撤退した。日本は,賠償を要求し北樺太 (からふと) を占領したが,1925年日ソ国交回復とともに撤兵した。
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小川未明(おがわみめい)とは?
小川未明(本名・小川健作)は、大正・昭和期の小説家、児童文学作家です。(1882~1961)
小川未明は、明治15(1882)年4月7日、新潟県中頚城郡高城村(現・上越市幸町)に生まれます。
東京専門学校(現・早稲田大学)英文科在学中、坪内逍遙の指導を受け、処女小説『霰 に霙 』 (1905) で文壇にデビューします。またこの頃、逍遙から「未明」の雅号をもらい、「小川未明」という名前で執筆を始めます。
その後は、短編集『愁人』『緑髪』『惑星』を次々と刊行していきます。大正期に入ってからの未明は社会主義的な傾向を強めていきます。また、この時期に創刊された『赤い鳥』なども影響し、童話も盛んに書くようになっていきます。
※『赤い鳥』 鈴木三重吉が創刊した童話と童謡の児童雑誌。
大正15/昭和元(1926)年、『未明選集』全6巻の刊行を機に、童話作家として専念することを決意します。以後、『牛女』『赤い蝋燭と人魚』『野薔薇』『考えこじき』など、数々の名作を描き続けました。
昭和36(1961)年5月11日に脳出血のため東京都杉並区高円寺南の自宅で死去します。(没年齢・79歳)
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『酒倉』(さかぐら)あらすじ(ネタバレ注意!)
(初出:1918年『読売新聞』)
甲と乙の隣り合った二つの国はよく戦争をしていました。ある戦争の時、甲は乙に破られ、劣勢に陥ります。乙の軍勢は国境を越えて甲の国に入ってきました。甲の国の大将は考えます。―――(何か策略を巡らせて防がなければ……)と。
そこで乙の軍勢が甲の小さな町を占領した時のことを考え、食べ物をすべて焼き払い、酒と水だけを残し、その中には毒を入れて撤退することにしました。乙の軍勢は凄い勢いで町を占領します。空腹の乙の兵士たちは当然のように酒や水をがぶがぶと飲みました。
すると、乙の兵士たちはみんな苦しみ始め、次々と倒れて、死んでいったのです。遠くからこの様子を見ていた甲の大将は逆襲を決意し、さんざんに弱った乙の軍勢を破り、自国へと退却させたのでした。この戦争は甲の勝利に終わり、甲の大将は人々から褒められます。
けれども、そんな束の間の平和は直ぐに破れ、二国は再び戦争を始めました。今度は甲の軍が優勢となり乙の国へと侵入し、乙の国のある村を占領します。村人はみんな逃げ、食べ物も全て焼き捨てられていました。
甲の大将は村の中を見回りながら思います。(いつかおれがやった策略だな)と。すると、草原の中に一人の少年が座っているのを大将は見つけます。訊ねると、「足が不自由なため一緒に逃げることができず仕方なくここにいます。」と、答えたのでした。
大将は少年に「どの井戸や酒倉に毒が入っているか?」と、脅すように訊ねます。少年は「この村の三軒の酒倉だけには毒が入っているが他には入っていない。」と、告げます。それを聞いた大将は「三軒の酒倉の酒を飲め。他には毒が入っているぞ!」と、叫びました。
兵士たちは争うようにして三軒の酒倉の酒を飲みました。大将も同じように酒を飲みました。すると、一人残らず甲の軍の兵土たちは死んでしまったのです。―――少年は嘘を言わなかったのでした。
青空文庫 『酒倉』 小川未明
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『酒倉』【解説と個人的な解釈】
通常なら “ 人を欺く ” といった卑劣な行為が、「戦争」という名の下においては “ 策略 ” として正当化されます。甲の大将が「毒」を用いたのもそんな理由からです。まさに「勝つためには手段を選ばぬ。」といったところでしょうか。
けれども、そのような思考は危険です。他の人間も自分と同じように “ 人を欺く ” ものだと考えてしまうからです。結局、少年の言葉を信用しなかったため、大将以下甲の兵士たちは全員死んでしまいます。
この童話は、互いの国を侵略することの愚かさと、人を信用しなくなることの危険性を読者に訴えています。
『強い大将の話』あらすじ(ネタバレ注意!)
(初出:1920年『読売新聞』)
ある国に、戦争にかけてはとても強い大将がいました。この大将は知略と勇武に優れ、どこの国と戦争をしても必ず勝利を収めてきました。そんな大将ですが、あるとき、隣の国と戦争をします。それは今までにないほどの大きな戦争でした。
大将の国は何とか勝利を収めますが、多くの兵隊を亡くしてしまいます。大将は生き残った兵隊たちと共に都に帰ろうと歩いていましたが道に迷ってしまいました。野原も森も戦争で荒れ果て、辺りの景色はすっかりと変わっていたからです。
このとき、目を泣きはらした貧しげな一人の老女と出会います。大将が道を尋ねると、老女は「どなたさまでございますか。」と、聞きました。「敵を負かした大将が俺だ。」と答えると、老女は大将の顔をじっと見つめ、一本の淋しい細道を指さします。
大将はわずかな兵隊たちを引き連れてその道を急ぎました。けれども、たどり着いたところは、いつか激戦のあった戦場だったのです。「あのお婆さんは、嘘を言ったな。」と怒った大将は翌日、来た道を引き返しました。
今度は髪を乱した裸足の娘に「俺は大将だが。」と言い、都への道を尋ねます。すると娘は大将の顔を眺め「この道を真っ直ぐに行きなされ。」と教えます。大将は(娘は嘘を言うまい)と、その道を急ぎますが、たどり着いたところは今度の戦争で亡くなった人たちの墓場でした。
さすがの大将も「なんで名誉ある俺を、みんなが欺くのだ。」と、酷く怒ります。仕方なく来た道を元の場所に戻ると、一人の杖をついたお爺さんが歩いていました。大将はお爺さんに今まであったことを話します。
するとお爺さんは、老女は息子を、娘は夫を、戦争で亡くしたことを教え、「深く悲しんでいるからでありましょう。」と、答えます。大将はお爺さんから正しい道を教えられ、都に帰って行きましが、その後、死んだ人に同情を寄せて大将の職を辞して、隠居をしたのでした。
青空文庫 『強い大将の話』 小川未明
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『強い大将の話』【解説と個人的な解釈】
例え「戦争」で勝利を収めたとしても、名誉を与えられるのは軍の要職を務める限られた一部の人間だけです。その栄光の影には戦場で倒れた多くの犠牲者がいて、また、巻き込まれて悲しむことしかできない一般人も多く存在します。
老女と娘は、大将に辛い現実を伝えたかったのでしょう。そして大将も「戦争」の愚かさに気付き、職を辞したのです。この童話には「戦争」で失われる命は勿論のこと、「戦争」によって失われゆく自然についても読者に伝えています。
あとがき【『酒倉』『強い大将の話』の感想を交えて】
『野ばら』にも言えることですが、小川未明の反戦童話はどこか遠い世界で起きている「戦争」を連想させます。反戦を叫ぶことも難しい軍国主義の時代だったからでしょうか。それとも子供たちに読ますことを踏まえ、あえて「戦争」の現実味を消したのでしょうか。
『酒倉』『強い大将の話』、この二つの童話はいずれも大将を主人公にし、大将の視点で描かれています。けれども、本当に未明が描きたかったのは一般市民だと言えるでしょう。『酒倉』に登場する少年、そして『強い大将の話』に登場する老女と娘です。
「戦争」で常に犠牲となるのは銃を持たない一般市民なのですから。冒頭でも書いたように未明は戦争そのものを否定していました。そして「戦争のある限り虐殺は行われる」と言い切っています。「戦争」という極限状態に置かれたら誰しもが悪魔に成り得るからです。
ともかくとして、こんな時代だからこそ小川未明の童話を、是非とも子供たちに読んで頂きたいものです。
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