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井伏鱒二『太宰治のこと』要約【桜桃忌に読みたい作品④!】

一読三嘆、名著から学ぶ
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はじめに【妻・美知子に宛てた太宰の遺書】

 太宰の死から約50年後の平成10(1998)年5月23日、遺族らは太宰の遺書を公開します。

 妻の美知子宛には、「お前を誰よりも愛してゐました」続けて「子供は皆、あまり出来ないやうですけど陽気に育ててやって下さい。たのみます」と書かれ、「あなたをきらひになったから死ぬのでは無いのです。小説を書くのがいやになったからです。」と、自殺の動機を語っています。

 そして、このとき公開されなかったとされているのが、「みんな、いやしい欲張りばかり。井伏さんは悪人です。」の文言です。
(※山崎富栄の部屋に残されていた遺書の下書きには、この一文が書かれている)

 実際に書かれているかどうかは定かではありませんが、この「井伏さんは悪人です」の文言をめぐり、当時から関係者や研究者、作家らの間で、様々な憶測が飛び交いました。そんな太宰から言わせると悪人・井伏鱒二ですが、後年『太宰治のこと』という随筆を残しています。

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井伏鱒二『太宰治のこと』要約【桜桃忌に読みたい作品④!】

井伏鱒二(いぶせますじ)とは?

 井伏鱒二(本名・満寿二(ますじ))は昭和から平成にかけて活躍した日本の小説家です。(1898~1993)
広島県深安郡加茂村(現・福山市)に、地主の次男として生まれます。学生時代は、早稲田大学英文科や日本美術学校に在籍しますが、どちらも中退をしてしまいます。

 のちに、長い同人誌習作時代を経て、昭和4(1929)年、『山椒魚』『屋根の上のサワン』その他の先品で文壇に認められます。昭和13(1938)年、『ジョン萬次郎漂流記』で第6回直木賞を受賞します。

 面倒見のよい人柄で知られ、多くの弟子を持ちます。特に太宰治には目をかけ、昭和14(1939)年、山梨県甲府市出身の地質学者・石原初太郎の四女の石原美知子を太宰に紹介し、結婚を仲介しています。

 その作風は、広島における原爆被災の悲劇を日常生活の場で淡々と描いた『黒い雨』で、高みに達します。作品として他に、『本日休診』『漂民宇三郎』『荻窪風土記』などがあります。平成5(1993)年6月24日、東京衛生病院に緊急入院し、7月10日に肺炎のため95歳で死去します。

  井伏鱒二(晩年)

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太宰治(だざいおさむ)とは?

 昭和の戦前戦後にかけて、多くの作品を残した小説家です。本名:津島修治。(1909-1948)
太宰治は、明治42(1909)年6月19日、青森県金木村(現:五所川原市金木町)の大地主の家に生まれます。

 青森中学、弘前(ひろさき)高校を経て東京帝国大学仏文科に進みますが後に中退します。この頃、井伏鱒二(いぶせますじ)に弟子入りをし、本格的な創作活動を始めました。しかし、在学中から非合法運動に関係したり、薬物中毒になったり、または心中事件を起こすなど、私的なトラブルは後を絶ちませんでした。

 一方、創作のほうでは『逆行』が第一回芥川賞の次席となるなど、人気作家への階段を上り始めます。1939年、井伏鱒二の世話で石原美知子と結婚し、一時期は平穏な時間を過ごし『富嶽百景』『走れメロス』『駆込(かけこ)(うった)へ』など多くの佳作を書きます。

 戦後、『斜陽』で一躍、流行作家となりますが、遺作『人間失格』を残して、昭和23(1948)年6月13日、山崎富栄と玉川上水で入水自殺をします。(享年38歳)ちなみに、玉川上水で遺体が発見された6月 19日(誕生日でもある)を命日に、桜桃忌(おうとうき)が営まれています。

    太宰治

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津島美知子(つしまみちこ)とは?

 津島美知子(旧姓:石原)は、小説家・太宰治の妻です。(1912-1997)
美知子は、教諭・石原初太郎の四女として島根県那賀(なか)郡浜田町(現在の浜田市)に生まれます。父親の転勤に伴い各地を転々としますが、大正11(1922)年に父祖の地、山梨県甲府市に戻ります。

 昭和8(1933)年、東京女子高等師範学校を卒業し、山梨県立都留(つる)高等女学校(現:山梨県立都留高等学校の前身の一つ)の教諭に就任します。昭和13(1938)年9月18日、太宰治と見合いをします。(立会人は井伏鱒二)

 翌昭和14(1939)年1月8日、井伏鱒二夫妻の媒酌で井伏宅において結婚式を挙げ、東京都三鷹に移り住みます。ちなみに太宰との間に一男二女をもうけます。平成9(1997)年2月1日、心不全で死去します。(没年齢:85歳)

太宰の妻・津島美知子

山崎富栄(やまざきとみえ)とは?

 山崎富栄は、大正8(1919)年9月24日、東京府東京市本郷区(現:東京都文京区本郷)に生まれます。昭和19(1944)年、三井物産の社員・奥名修一と結婚しますが、夫はマニラに単身赴任中に現地召集され、戦線で行方不明になります。

 戦後の昭和22(1947)年3月、美容室に勤めていた富栄は太宰治と知り合い、日記に「戦闘開始!覚悟をしなければならない。私は先生を敬愛する。」と記します。5月3日、太宰から「死ぬ気で恋愛してみないか?」と、交際を持ちかけられます。

 翌昭和23(1948)年6月13日、いつしか太宰の秘書兼愛人の立場になっていた富栄は、太宰とともに玉川上水に入水自殺します。(没年齢:28歳)現場に残された6冊のノートをもとに、平成7(1995)年、『太宰治との愛と死のノート』が出版されます。

   山崎富栄

青空文庫 『雨の玉川心中-太宰治との愛と死のノート』 山崎富栄
https://www.aozora.gr.jp/cards/001777/files/56258_61595.html

『太宰治のこと』あらすじ(ネタバレ注意!)

あの頃の太宰君

 太宰治が船橋にいた当時(昭和10年)、「私」(井伏鱒二)宛に太宰から届いた手紙の一文を紹介しながら、井伏の回想は始まります。

 「(前略)私、ちいさい頃から、できすぎた子でした。一切の不幸は、そこから。(中略)私の『作品』又は『行動』わざと恥ずかしいバカなことを選んで来ました。小説でも書かなければ仕様がない境地へ押しこめるために。(後略)」

 「私」はこの手紙を、「太宰君が麻薬の注射で衰弱し、しかも麻薬を買うため金策に日を送っていた頃のものだ。」とし、「せっぱ詰まって日頃の本音を吐いているものと解したい。」と、語ります。

 そして「私」は、太宰の「幼少の頃のことは知らないが、初期の『思い出』という作品が事実ありのままの記録だと、小館保(太宰の親戚)さんという人が云っている。」と語り、太宰に始めて会ったときのことをふり返ります。

『思い出』は短編集『晩年』に収められています。

 「私」が太宰に始めて会ったのは昭和五年か昭和六年の頃(正確には昭和五年)で、太宰が大学に入った年の初夏、「会ってくれなければ自殺する。」といった威嚇(いかく)するような手紙をよこし、事務所に訪ねて来たと回想します。

 そのとき「私」は太宰に、「古典を読まなくちゃいけない。」と注意をし、プーシキンやプルーストを読めと勧めます。それから太宰は「私」のところに「将棋を指しに来るようになった」と話し、その頃の太宰は「小説に()かれたようなものであった。」と、回想します。

『ダス・ゲマイネ』の頃

『ダス・ゲマイネ』は短編集『走れメロス』に収められています。

 『ダス・ゲマイネ』は、太宰が「盲腸の手術をした後(昭和十年)、注射の副作用から中毒症状になった頃に書いた作品だ。」と「私」は語り、太宰は「大学を辞めてから、いろいろの事件があって動揺していた一時期があった。」と、当時のことを回想します。

 そして、『ダス・ゲマイネ』が雑誌に発表されたのを見た「私」は、「なぜドイツ語の題をつけたんだろう?妙にハイカラな題をつけたものだ。」と思い、太宰に直接その意味を訊ねます。けれども太宰は、苦笑いするだけだったと回想します。

 太宰の死後、津軽に行った「私」は、そのとき始めて『ダス・ゲマイネ』が「津軽の言葉にも通じている。」ことを知ります。津軽弁で「ン・ダスケ・マイネ」と言えば「だから駄目。」または「だから嫌や。」といった意味になると話し、「なぜ太宰君はそれを説き明かさなかったのだろう?」と、不思議に思います。

 そして「私」は、普段、太宰は「心の重荷は出来るだけ我慢して人に見せなかった。」と、回想し、「やがてその鬱憤(うっぷん)は『ダス・ゲマイネ』のような形で出ることもある。『人間失格』などはその(もっと)もなるものだと思う。いずれも当人が非常に動揺していたときの作品である。」と、話します。

御坂(みさか)峠にいた頃のこと

 甲府から東京の三鷹に移って来た頃の「太宰君の日常の気分を(うかが)うには『東京八景』を参考にすれば良いと思っている。」と「私」は語り、『東京八景』を「小細工を抜きにして在りのままに書かれている。」と、話します。

 そして『富嶽百景』についても、「かなり在りのままに書いた作品だ。」とし、「一箇所だけ訂正を求めたい描写がある。」と語り、それは「私」が、「三つ峠の頂上の霧のなかで、浮かぬ顔をして放屁(ほうひ)したという描写である。」と、話します。

 それで太宰に抗議をしたところ、「いや放屁なさいました。」と噴き出して、「あのとき、二つ放屁なさいました。」と、「故意に敬語をつかうことによって真実味を持たせようとした。」と「私」は回想し、「ここに彼の描写力の一端が窺われる。」と、話します。

 「もう書いたものなら仕様がない。」と「私」が諦めると、太宰は「いや、あのとき三つ放屁なさいました。山小屋の爺さんが、くすっと笑いました。」と、「また描写力の一端を見せた。」と回想した「私」は、「しかし山小屋の爺さんは当時八十何歳の老齢で、耳が全然聞こえない。くすっと笑う筈がない。」と、当時をふり返ります。

 一方でユーモラスな作品とは反対に、御坂峠にいた頃の太宰は、「いかにも、つまらなそうであった。」と回想し、「江古田の脳病院から出て来ると『東京八景』その他の作品に書いてあるような事件が続いて起こった。山に来てもしょんぼりしていたのは無理もない。」と「私」は話します。

甲府にいた頃

 「甲府市外に疎開していた当時、太宰君も甲府に疎開していたので割合に顔を合わす機会が多かった。それも逢うのは殆どお決まりのように、酒を飲む場所であった。」と回想した「私」は、その場所とは「梅ケ枝」という旅館で、「不足していた煙草と酒の融通をつけてくれたからだ。」と話します。

 甲府が空襲にあった翌日、「私」は、太宰と偶然に逢います。空襲で家を焼き出された太宰は、「県庁に罹災者として相談に行くところだ。」と、言います。「私」が待っていると、相談に行って引き返して来た太宰が、「一人も役人がいないのは不思議だ。」と、途方に暮れた風も見せずに「くすりと笑った。」と回想します。

 そして「私」は、もう一つ、甲府でのエピソードを紹介します。ある小宴のとき太宰が、「大学時代の恩師、中島健藏に因縁をつけた。」と話します。そのとき太宰は、「不機嫌に座を立って、半時間もたつと(すね)を血だらけにして引き返した。」と語り、「城址(甲府城)の石段から転げ落ちたということであった。」と、回想します。

 「なぜ夜ふけて城址にのぼったのだろう?」と、疑問を抱いた「私」は、あとで旅館のおかみさんから話を聞きます。すると、「城の(ほり)の橋のところまで太宰を見送った。」と言い、そのとき太宰は「僕は淋しい。」と言い残して、橋を渡って行ったと教えます。「私」は、「あの晩だけは、どうも変だという思いが今だにある。」と、回顧します。

太宰君の仕事部屋

 井伏は、「戦後、私は太宰君とあまりつきあいがなかった。今でも覚えているが、私が東京に転入してから太宰君に逢ったのは三回だけである。当時、太宰君は私に対して旧知の煩わしさを感じていた。結局、私の方からもなるべく太宰君を避けていた。」と、語ります。

 そして、「人の組み合わせというものは不思議な結果を生む。善良な男と善良な女との組み合わせでも、お互いに善良な故に悲しい結果を見ることがある。」と、太宰の死に触れ、「仮にその女性(山崎富栄のこと)を善意ある人間であったとすると、何か当時の雰囲気に引きずられたのではなかったかと思う。」と、考察します。

 戦後、久しぶりに始めて太宰に逢ったとき、「私」は、その女性を紹介されたと話します。太宰は、「この部屋は、この女の借りている部屋です。僕は仕事部屋に借りているんです。」と、言ったと回想し、「太宰君は私たちをこの仕事部屋に迎えるのに煩わしい工作をした。」と話します。

 それは一旦、三鷹の屋台店に「私」を連れ出して、しばらく待たせてから近所の長屋の二階に案内をして、そこで太宰が待っているという煩わしい工作でした。「私」は「腑に落ちないままにビールの御馳走になりながら用談を片付けて、その後からまた酔いつぶれるほどビールを飲んだ。」と、回想します。

 用談というのは、井伏鱒二の選集9巻の打ち合わせのことで、太宰が、田舎にいた「私」のために出版を決めていたと話し、「ずいぶん気をきかせてくれたのである。太宰君の心づくしであった。」と、感謝を口にします。

 けれども一方、「しかし、どうしてあんな滑稽なほど煩わしい訪ねかたをさせたのか合点が行かぬ。いろんなことに気をつかい、ユーモアを出すつもりであったかもわからない。」と疑問を口にし、井伏の回想は閉じられます。

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あとがき【『太宰治のこと』の感想を交えて】

 本文の中で井伏が、「当時、太宰君は私に対して旧知の煩わしさを感じていた。結局、私の方からもなるべく太宰君を避けていた。」と、語るとおり、二人の間に何かしらの軋轢(あつれき)が生じていたのは確かでしょう。

 「井伏さんは悪人です」の真意は謎のままですが、佐藤春夫は、随筆『井伏鱒二は悪人なるの説』で次のように考察しています。


  佐藤春夫

 「僕は思う。太宰の奴はその死を決するに当たって、人間並にも女房や子供がかわいそうだなという人情が湧いたのである。(中略)所詮人並の一生を送れる筈もないわが身に人並に女房を見つけて結婚させるような重荷を負わせた井伏鱒二は余計なおせつかいをしてくれたものだな。(中略)それ故あの一句の影には太宰の、女房よ子供よこの悪い夫を悪い父を寛恕(かんじょ)せよという気持を正直に記す気恥しさを “ 井伏鱒二は悪人なり ” と表現したのであった。」

※寛恕(かんじょ) 度量が広く、思いやりの深いこと。あやまちなどをとがめずに、広い心で許すこと。

 わたし自身、佐藤春夫の考察がしっくりときます。疎遠になっていたとは言え、井伏の太宰に対する情は並々ならぬものだったからです。それは井伏の妻・節代が後年、次のように語っていることから証明できます。

 「井伏は太宰さんを本当に可愛がっていました。もうあんな天才は出ないと、その死を非常に悔しがってもいました。(中略)太宰さんのお葬式のときに井伏は、自分の子供が死んでも泣かなかったのに大声を張り上げて泣いておりました。」

青空文庫 『井伏鱒二は悪人なるの説』 佐藤春夫
https://www.aozora.gr.jp/cards/001763/files/58844_63887.html

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