はじめに【「お遍路」と「お接待」について】
日本で行われている巡礼(聖地や霊場を巡拝すること)の一つに「お遍路」というものがあります。特に弘法大師の修行の足跡、四国八十八カ所を巡る「お遍路」は有名です。
その距離はなんと1500キロメートルにも及ぶと言われ、総日数50日以上費やすと言われています。四国の人々は巡礼の旅をする人々を、親しみを込めて「お遍路さん」と呼びます。
そして「お遍路さん」を温かくもてなすことを「お接待」言い、「お接待」をすることで自らも救われるという教えから、遍路道周辺に暮らす人々は「お接待」を伝統的に実施してきました。
今回は今に残る四国の精神風土、「お接待」を題材とした井伏鱒二の短編小説『へんろう宿』をご紹介します。
弘法大師(空海)について
弘法大師(空海)は真言宗の開祖です。(774 〜 835)
延暦23(804)年、遣唐使船で中国に渡った空海は、当時最新の教えであった真言密教を恵果より学び、ことごとく秘法を伝授され、大同元(806)年に帰国します。高野山に金剛峯寺を建立し、東寺(教王護国寺)を真言道場とします。
書にすぐれ、三筆の一人といわれます。死後、大僧正、法印大和尚位を贈られます。著に『三教指帰」『十住心論』『文鏡秘府論』『篆隷万象名義』『性霊集』などがあります。
井伏鱒二『へんろう宿』あらすじと解説【「お接待」慈悲の心!】
井伏鱒二(いぶせますじ)とは?
井伏鱒二(本名・満寿二)は昭和から平成にかけて活躍した日本の小説家です。(1898~1993)
広島県深安郡加茂村(現・福山市)に、地主の次男として生まれます。学生時代は、早稲田大学英文科や日本美術学校に在籍しますが、どちらも中退をしてしまいます。
のちに、長い同人誌習作時代を経て、昭和4(1929)年、『山椒魚』や『屋根の上のサワン』その他の先品で文壇に認められます。昭和13(1938)年、『ジョン萬次郎漂流記』で第6回直木賞を受賞します。
面倒見のよい人柄で知られ、多くの弟子を持ちます。特に太宰治には目をかけ、昭和14(1939)年、山梨県甲府市出身の地質学者・石原初太郎の四女の石原美知子を太宰に紹介し、結婚を仲介しています。
その作風は、広島における原爆被災の悲劇を日常生活の場で淡々と描いた『黒い雨』で、高みに達します。作品として他に、『本日休診』『漂民宇三郎』『荻窪風土記』などがあります。平成5(1993)年6月24日、東京衛生病院に緊急入院し、7月10日に肺炎のため95歳で死去します。
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短編小説『へんろう宿』について
『へんろう宿』は昭和15(1940)年4月、雑誌『オール読物』に発表されます。作者・井伏鱒二42歳のときの作品です。
『へんろう宿』あらすじ(ネタバレ注意!)
主人公の「私」は、所用で土佐に来ていましたが、一昨日、バスのなかで居眠りをしてしまい、安芸町で下車するところを遍路岬というところまで乗り過ごしてしまいます。そこで用件が上首尾に運んでいた「私」は、遍路岬で宿をとることにしました。
※上首尾(じょうしゅび) 物事がうまいぐあいに運ぶこと。
遍路岬の部落は黄岬と言いました。通りすがりの漁師に宿をたずねると、へんろう宿が一軒だけあると言います。この土地では遍路のことを “ へんろう ” と呼びます。聞いた宿屋に行くと、入り口に、「へんろう宿、波濤館」と書いた看板が掛けてありました。
※波濤(はとう) うねる大波。
漁師家と変わりのない粗末な宿屋で、客間も三部屋しかありませんでした。ところが意外なことに女中が五人もいます。従業員がいるだけで、宿屋の経営者に該当する人がいないのです。
入口の障子をあけた「私」は狭い土間に立って、「泊めてもらいたいんですが。」と声をかけます。すると五十ぐらいのお婆さんが現れて、「おや、おいでなさいませ。」と言いました。
客間に行くには居間を通り抜ける必要があります。居間には八十ぐらいのお婆さんと六十ぐらいのお婆さんが火鉢を囲んで座っていました。八十ぐらいのお婆さんが愛想よく、「どうぞ、奥へあがってつかさいませ。」と言い、しゃんと立って「私」を案内しました。
三つの客間は、襖で仕切られて続いていました。居間に続いている部屋には十二ぐらいの女の子と十五ぐらいの女の子が同じ机に向かい合って読本の書き取りをしていて、部屋を通り抜ける「私」に黙ってお辞儀をしました。
隣の部屋には一人の先客がいました。「私」は、その隣の部屋に案内されます。八十ぐらいのお婆さんは、戸棚から雑巾を大きくしたような蒲団を取り出して、「この蒲団を敷いて寝てつかさい。」と言い残して出て行きました。
入れかわりに六十ぐらいの方のお婆さんがお茶を持って来ます。そして、「ええ夢でも御覧なさいませ、百石積みの宝船の夢でも見たがよございますろう。」と言って出ていきました。「私」は蒲団を敷いてもぐり込むといつの間にか眠ってしまいました。
二時間ほど眠った「私」は、隣の部屋の話し声で目をさまします。三番目の五十ぐらいのお婆さんが、客の酒の相手をしながら話し込んでいたのです。
「一番年上のお婆さんがオカネ婆さん、二番目がオギン婆さん、わたしはオクラ婆さんと言います。三人ともこの宿に泊まった客が棄てて行ったがです。いうたら捨て児ですらあ。」客は、「誰の子やね。やっぱり、へんろうか。」と訊ねます。
「そりゃわかりませんよ。オカネ婆さんの前におった婆さんも、やっぱりこの宿に泊まったお客の棄てて行った嬰児が、ここで年をとってお婆さんになりました。おまけにこの家では嬰児の親のことは知らせんしきたりになっちょります。」とオクラ婆さんは教えます。
※嬰児(みどりご) あかんぼう。えいじ。あかご。
「いまこの家におる女の児も棄て児なのやな。その親の料簡が知れん。」と客が言うと、「きっと、この遍路岬に道中して来る途中、嬰児を持てあましているうちに、誰ぞにこの宿屋の風習を習いましつろう。十年ごっとに、この家には嬰児が放ったくられて来ましたに。」とオクラ婆さんは言いました。
※料簡(りょうけん) 思いをめぐらすこと。考え。思案。
客が、「でも、みんな女の赤んぼちゅうのは不思議やないか。」と言うとオクラ婆さんは、「男の子は親を追いかけて行て返します。」と答えます。客はさらに、「女の子でも戸籍だけは届けるやろう。嫁にも行かんならんやろう。」と言いました。
するとオクラ婆さんは、「いんや、この家で育ててもろうた恩返しに、初めから後家のつもりで嫁に行きません。また浮気のようなことは、どうしてもしません。」と言いました。「私」は、蒲団をかぶって眠ることにします。
翌朝、「私」は宿を出発するとき、三人のお婆さんの顔を見比べて見ましたが、やはり姿形が全然違いました。二人の子供の姿が見えなかったため「私」は、「子供さんたちは出かけたかね。」と三番目のお婆さんに訊ねると、「学校へ行っちょります。」と答えました。
出かけに宿の戸口を見ると、柱に、「遍路岬尋常小学校児童、柑乃オシチ」という名札と、「遍路岬尋常小学校児童、柑乃オクメ」という名札が二つ仲良く並んでいました。戸口まで見送ってくれた一番上のお婆さんは、「気をつけておいでなさいませ、ご機嫌よう」と丁寧にお辞儀をしました。
―以下原文通り―
その宿の横手の砂地には、浜木綿が幾株も生えていた。黒い浜砂と、浜木綿の緑色との対象が格別であった。
『へんろう宿』【解説と個人的な解釈】
作者・井伏鱒二は、『へんろう宿』について次のように語っています。
田中貢太郎さんが病に倒れ、お見舞に四国に出かけた時、室戸岬に行くバスの中から、二階建ての小さな宿屋に、へんろう宿、一泊三十五銭と書いてあるのを見て、空想で書いてみたもので、むろん泊ったわけではない。
土佐ホテルで書いている時、田岡君がやってきたので、土佐弁を直してもらった。あの辺の浜木綿の色が何ともいえない良い色だったのに感心したりして、抒情で書いた。
(『井伏さんから聞いたこと その二』伴俊彦)
つまり、『へんろう宿』は全て、作者の空想から生み出された作品です。ちなみに物語の舞台は「高知県の安芸町から六里離れた “ 遍路岬村字黄岬 ”という部落」となっていますが、これも架空の地名です。
とは言うものの、四国を巡礼するお遍路さんや旅人の中には、病気や貧困、または特別な事情で子供を捨てざるを得なかった親もいただろうと想像します。そして地元の人々の思いやりと慈しみによって育てられ、一人前に成長した「棄て児」も実際にいたかも知れません。
物語に登場する「へんろう宿」の女中の面々は、「棄て児」という不幸な境遇にありながらも卑屈にならずに明るく暮らしています。その上、「恩返し」として宿を営み、結婚もせずに「棄て児の救済」に当たるといった運命を受け入れています。
そういった心境になるには、「お接待」という独自の文化に培われた心温かい村人たちの “ 慈悲の心 ” に支えられて育ったからでしょう。作品が書かれた昭和15(1940)年という時代は、翌年に太平洋戦争が勃発する、まさに暗黒の時代です。
そういう時代だからこそ作者は、人間にとって最も大切な、他者への愛と思いやり、そして救済の精神を描きたく『へんろう宿』を世に出したと個人的に考えています。
あとがき【『へんろう宿』の感想を交えて】
「へんろう宿」に捨てられ、地域の人たちに救われて、そのまま宿の一員として働き続けて生涯を終える。―――第三者から見たら、悲しい人生に映るでしょう。別の人生を歩ませたいと思う読者も多いと思います。
けれどもどうなのでしょう。「お接待」をすることで自らも救われると深く信じている人なら、そんな人生も悪くはないと思うかも知れません。ましてや地域の人々に温かく育てられたなら、その地を離れたくないと願うかも知れません。
あまり知られていない作品ですが、『へんろう宿』は名作短編の一つと言えるでしょう。その救済システムは「子供は地域で育てる」という理想そのものです。わたし自身もいつかは四国八十八カ所を巡る「お遍路」をして見たいと思っています。
そして在りし日の原風景に巡り合いたいと日々想像しています。
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