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『終活』するなら「仏教」を学ぼう!【仏教の宗派と歴史】

古き良き日本の再発見
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はじめに【そもそも仏教って何?】

 まさかの『終活』?【高齢者を抱える家族が考えておくこと!】にも書いたように、高齢者を抱える家族が考えておかなければいけないことは多くあります。

―――その一つが “ 仏教 ” という宗教についてです。

 日本に生まれ育って、お寺や仏像、そしてお坊さんを見たことがない、という人はいないでしょう。仏壇やお墓に手を合わせたことがない、といった人も少ないでしょう。葬儀にしても仏教式で行う人が大多数を占めています。

 それなのに、「自分の宗派が分からない」と答える人が多いようです。正直に言うとわたしも知りませんでした。いかんせん、八十を過ぎた父親に宗派を聞いても「仏教だ!」と答えるだけですし・・・。

 とにかく、このように、仏教はわたしたちにとって、とても身近なものの筈なのに、その反面、よく分からないといった摩訶不思議な宗教なのです。

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『終活』するなら「仏教」を学ぼう!【仏教の宗派と歴史】

① 仏教の「宗派」について!

「宗派」ってどのくらいあるの?

 文化庁の『宗教年鑑』によると、日本の寺院数は7万7000にのぼると書かれています。この数字は全国のコンビニエンス・ストアの約1.5倍です。

 そして、僧侶の数は34万人です。また、仏教系団体の信者数は8770万人となっています。やはり日本は仏教国と言ってもいいようです。

 ところで、「宗派」の数がどのくらいあるかというと、文部科学大臣所轄包括宗教法人として平成 28(2016)年末の調べでは、157 の仏教宗派が存在しています。これをおおざっぱに分けたら次のようになります。

・ 真言(しんごん)宗(宗祖は空海(くうかい)
・ 天台(てんだい)宗(宗祖は最澄(さいちょう)
・ 浄土(じょうど)宗(宗祖は(ほう)(ねん)
・ 浄土(じょうど)(しん)宗(宗祖は親鸞(しんらん)
・ 曹洞(そうとう)宗(宗祖は道元(どうげん)
・ 臨済(りんざい)宗(宗祖は栄西(えいさい)
・ 日蓮(にちれん)宗(宗祖は日蓮)

 このうち真言宗は18の宗派に、そして天台宗は3派、臨済宗は15派、浄土真宗は10派に大きく分かれています。日蓮宗は法華宗など数派の分派がある他、創価学会や霊友会、立正佼成会などの巨大な新宗教が生まれています。

 それ以外にも、奈良仏教(※仏教の歴史・奈良仏教の時代に詳しく書いている)や、規模は小さくても古くからある伝統宗派はたくさんあります。

同じ仏教なのにどうして「宗派」に分かれているの?

 理由のひとつに、各宗派が信奉する経典の違いがあげられます。
仏教の経典は6000巻もあり、それぞれ異なる教えが書かれています。なので、そのうちのどれを重視するかによって宗派が決まってきます。

 さらに、同じ宗派のなかでも、その経典をどう解釈するかによって流派が生じ、それがもとで分派したりします。なぜ経典が6000巻にもなってしまったのかは、仏教の歴史の流れを見なくては分かりません。

② 仏教の歴史【日本への仏教伝来以前】

お釈迦様(おしゃかさま)の登場

 仏教はもともと、インドのお釈迦様(ブッダ)が創始したものです。このことは学校でも学びますし、誰もが知っていることでしょう。

 お釈迦様は紀元前463年頃に、北インドのシャーキャ(釈迦)族の王子として生まれました。(この頃の名前はゴータマ・シッダールタ)驚くことに、イエス・キリストより500年も古い時代です。

 そのゴータマ・シッダールタが、あるとき妻子を捨てて出家をします。その後、色々な修行の末に、35歳の頃、ブッダガヤーの菩提樹の下で悟り(覚りとも書く)を開いてブッダとなります。

 以後、80歳で没するまで,ガンジス川流域の中インド各地を周遊して人々を教化しました。ちなみにブッダとは、「悟りを開いた人(覚者(かくしゃ))」という意味の言葉です。これが中国で漢字に直されて「仏陀」となり、それを略して「仏」といいます。

 仏教というのは「仏陀になる」ことで、つまり「成仏」を目指す教えで「(じょう)仏陀(ぶっだ)(きょう)」といいます。これもまた略されて「仏教」となります。

ブッダの死後の仏教

 ブッダの死後、教団は勢力を拡大していきます。けれども100年後、戒律(かいりつ)や修行の基準を巡り、大きく二つのグループに分かれてしまいます。さらに、数百年後には20くらいの部派にまで分裂してしまいます。

 この頃、ブッダの言葉を記録に残そうとして、経典が作られていきます。しかし、それぞれの部派がそれぞれの解釈で編纂していった為、違う内容の経典が、どんどんできていきました。

 やがて、戒律や修行の厳しさを重視する上座部(じょうざぶ)」系のグループと、厳格さよりも人々の救済を重視する大乗(だいじょう)」系のグループに大きく分かれていきます。そしてインドでは4世紀から5世紀頃まで隆盛を極めます。

 また、この頃からシルクロードを経由して、中央アジアや中国にまで伝わるようになっていきます。7世紀には、有名な玄奘(げんじょう)(『西遊記』の三蔵法師(さんぞうほうし))が長安から天竺(てんじく)(インド)まで経典を求めて旅をした記録が残されています。

 その後、イスラム勢力の侵入によって、12世紀頃にインド仏教は滅亡したと伝えられていますが、「上座部」系の仏教は、スリランカなどに流れていき、タイやミャンマーなどの東南アジアへと伝わっていきます。(南伝仏教)

 その一方で、「大乗」系の仏教は、中国やチベットに伝わっていき、中国から朝鮮や日本へと伝わっていきます。(北伝仏教)けれども、中国では仏教は弾圧され、衰退していきます。朝鮮でも同じように李氏朝鮮に弾圧されて小規模化します。

 しかし大乗仏教は、日本で受け入れられて、大きく花を開かせます。また、チベットでも弾圧を逃れて、奇跡的に仏教が残りました。

③ 仏教の歴史【日本への仏教伝来】

「金色の仏像」が海を越えてくる

 日本に仏教が伝来したのは第29代・(きん)(めい)天皇の頃で、6世紀の半ばくらいのことです。しかし、伝来当初は、神道を奉じる物部氏と、仏教を重んじる蘇我氏、二つの豪族のあいだで衝突が起こります。

 このとき、蘇我氏の味方をして勝利に導いたのが、聖徳太子です。仏教は聖徳太子と蘇我氏の力によって、最初に飛鳥の地に根付きます。その後、急速な広がりを見せ、次々と寺院がつくられていきます。

 太子のつくった十七条憲法の第二条には(あつ)三宝(さんぽう)を敬うべし」とありますが、三宝とは「仏・法・僧」を示します。つまり、ブッダの像(仏像)、ブッダの教え(経典)、ブッダの弟子たち(僧団)の三つを大切にしろといっています。


 伝・聖徳太子

奈良仏教[南都六宗(なんとろくしゅう)]の時代

 飛鳥の地に最初に根づいた仏教は、聖徳太子と蘇我氏の力によって急激な広がりを見せ、次々と寺院がつくられていきます。このことは前にも書きました。

 そして、645年の乙巳(いっし)の変で蘇我氏が滅ぼされ、大化の改新が始まると、即位した(こう)(とく)天皇は、「これからは天皇が仏教を保護・統制する」と宣言します。

 後の710年、元明(げんめい)天皇が平城京への遷都を果たすと、いよいよ仏教は「国家鎮護(ちんご)」の要として、ますます重要視されていきます。その象徴ともいえるものが、(しょう)()天皇による大仏の造立(ぞうりゅう)(造立の(みことのり)は743年)でした。

鑑真(がんじん)の来日

 仏教の修行には三つの段階があり、これを三学(さんがく)といいます。

・ 戒学(かいがく)……戒律(戒と律)を知り、これを守ること
・ 定学(じょうがく)……禅定(瞑想)の実践法を修めること
・ 慧学(えがく)……知恵を身につけ、真実を見極めること

 そして、これらを修めるための仏典が三種あり、これを三蔵(さんぞう)といいます。

・ 律蔵(りつぞう)……僧に必要な規則で、戒と律を説くもの
・ 経蔵(きょうぞう)……ブッダが説いたとされる言葉と教え。お経のこと。
・ 論蔵(ろんぞう)……お経の注釈書や解説書。教義の論説。

 奈良時代の日本には、まだ三学のうちの「戒」を授ける資格をもった僧侶がいませんでした。つまり、いくら修行をしても正式な仏教徒にはなれません。そこで聖武天皇は唐(中国)から鑑真を招請(しょうせい)します。

 鑑真は日本への渡航を決意しますが、唐の玄宗(げんそう)皇帝から引き止められます。しかし鑑真の決心は固く密航を犯してまで、必ずや日本に行こうとします。

 そして、五度にわたる失敗ののち、754年にようやく日本に着きます。けれども、このときの鑑真は苦難のあまり、両眼を失明していました。

 そして鑑真は、東大寺大仏殿の前に祭壇を築いて、(こう)(けん)天皇をはじめ、440人に、日本で最初の受戒をほどこしたと伝えられています。


唐招提寺に安置されている国宝「鑑真和上像」

南都六宗(なんとろくしゅう)とは?

 南都六宗は、もともと宗派というよりも、それぞれの教学を学び合う学派の色合いが強く、やがて三論宗(さんろんしゅう)(じょう)実宗(じつしゅう)倶舎宗(くしゃしゅう)は消滅していきます。

 なお、第50代・桓武天皇は、あまりに仏教が政治に影響を与えているのを嫌って、平安京への遷都を行います(794年)。

奈良仏教ゆかりの宗派の現在

・ 華厳宗(けごんしゅう)(東大寺)
・ 律宗(りっしゅう)唐招提寺(とうしょうだいじ)
・ 聖徳宗(しょうとくしゅう)(法隆寺)……法相宗から独立
・ 真言(しんごん)律宗(りっしゅう)(西大寺)……鎌倉時代に律宗と真言宗が結びついて成立
・ 北法相宗(きたほっそうしゅう)(京都・清水寺)……法相宗から独立
・ 和宗(わしゅう)(大阪・()天王寺(てんのうじ))……単独で独立
・ 無宗派(長野・善光寺)……天台宗と浄土宗が共同で護持

平安仏教(天台宗と真言宗)の時代


  「弘法大師」空海

 平安時代は、新しい仏教の時代でもありました。学問や戒律ばかりの奈良仏教と違って、人々の救済を目的とした本格的な大乗仏教が登場します。それを代表するものとして、天台宗真言宗があげられます。

 天台宗の宗祖・最澄(767 〜 822)真言宗の宗祖・空海(774 〜 835)はともに、遣唐使船で中国に渡ります。最澄は天台法華の仏教を学んだだけでなく、密教と、禅と律の伝授も受けて帰朝します。しかし、最澄のもたらした密教は不完全なものでした。

 一方の空海は最新の教えであった真言密教を恵果(けいか)より学び、ことごとく秘法を伝授されたといいます。そんな空海に対して最澄は、年下・格下だったにもかかわらず師としての礼をとり、本当の密教を教えてほしいと頼み込みます。

 空海も快諾し、最澄は自分の弟子たちを空海のもとに学びに行かせます。けれども、あるとき最澄が『()(しゅ)(きょう)』の解説書ともいえる『理趣釈経』という経典を空海に貸してほしいと頼んで断られたことで、両者の関係は悪化し、ついには絶縁状態となってしまいます。

ところで「密教の教え」とは?


    曼荼羅

 密教は、インド仏教が滅亡する直前に生まれた、仏教の最後の教えで「秘密仏教」を略して密教といいます。お釈迦様ではなく、大日如来という究極の仏が説いた秘密の教えなのです。

 よく「死ぬ」ことを「ほとけになる」といいますが、これは、次の世では悟りを開けるように、戒名をいただいて仏の弟子になるという意味です。

 ですが、密教の教えは違います。「“ 今生きているこの身のままで ” ブッダになる。」ことを目指します。それを即身成仏そくしんじょうぶつといいます。その悟りを開くための修行はたいへんなものです。

 そのために、普通の人があやまって行うと非常に危険なことになりかねません。ですから、師から弟子へと直接伝える以外は秘密としたのです。

鎌倉仏教(仏教が民衆のものになった)時代

 平安末期から鎌倉時代にかけては政治の実権が貴族から武士へと移る転換期でした。その一方で民衆は、天災・飢饉・戦乱などに苦しめられていました。そうした中で、民衆を救うべくして、新たな宗派が多く生まれていきます。

「念仏」の教え!【浄土宗・浄土真宗・時宗】


   法然

 鎌倉時代の比叡山や高野山、そして南都(奈良)も、結局は時の権力者たちと深く結びついて、しだいに腐敗し堕落していきます。そんな仏教界に失望し、最初に疑問を呈したのが、比叡山で修行をしていた浄土宗の宗祖・法然(1133 〜 1212)です。

 法然は「貧困や病に苦しむ民衆を救う、みほとけの言葉はないのか」と考え、画期的な教えを編み出します。それは「南無阿弥陀仏」とひたすらに称えなさい。そうすれば阿弥陀如来のお力によって必ず極楽に往生できる。というものです。

 このわかりやすい教えは爆発的な人気を呼び、法然のもとには無数の老若男女が殺到します。そして、法然の教えをさらに純粋化し、それを哲学的なまでに深化させたといわれるのが、法然の弟子だった浄土真宗の宗祖・親鸞(1173 〜 1262)です。


   親鸞

 法然は「無知で愚鈍の身のままに、ひたすらに念仏せよ」と説きます。そして親鸞は「愚直な心こそ極楽浄土を引き寄せる」という結論に達します。

 このように革命的な教えである念仏信仰は、鎌倉時代中期に、もうひとりの聖者を登場させます。民衆から「遊行(ゆぎょう)上人」とか「(すて)(ひじり)」と呼ばれ、まるで生き仏のように尊敬され慕われた、時宗の宗祖・一遍(いっぺん)(1239 〜 1289)です。


 藤沢市・清浄光寺の一遍像

 一遍が理想としたのは、法然よりも前に、念仏を称えて全国を行脚した空也でした。そして、一遍も決まった寺を持たず、全国を遊行して(おどり)念仏」(踊りながら念仏を称える)を広めていきます。

「禅」の教え!【臨済宗・曹洞宗】

 念仏とならんで、鎌倉仏教の大きな潮流は、でした。その潮流は、臨済宗と曹洞宗の二つの宗派によって起こされます。臨済宗の宗祖・栄西(1141 〜 1215)曹洞宗の宗祖・道元(1200 〜 1253)はともに、比叡山で修行をしていた天台僧でした。

 
   栄西          道元

 二人は南宋時代の中国にわたって、それぞれ臨済禅や曹洞禅を学んできます。禅宗は生活スタイルそのものが修行です。ですから、朝昼晩のあいさつから日常の作法、食事の仕方や睡眠のとり方まで厳密に決められています。

 しかし、そうしたスタイルを重視する禅宗のなかでも、臨済宗と曹洞宗には決定的な違いがあります。臨済宗は「禅問答(公案)」を重視する宗派です。ちなみに「公案」とは、修行者が悟りを開くために与えられる課題(無理無題?)のことです。

 曹洞宗のほうは、この公案をほとんど採用せず、只管打坐しかんたざといって、ただひたすら座禅をせよ、といいます。臨済宗ももちろん座禅をしますが、曹洞宗はひたすらそれだけを追求します。

「法華経」の教え!【日蓮宗】


   日蓮

 日蓮宗の宗祖・日蓮(1222 〜 1282)もまた、他の鎌倉仏教の祖師たちと同様に、比叡山での修行から出発します。その比叡山の天台宗が最上としている経典が「法華経」なのです。

 「法華経」は、正式名称を「妙法(みょうほう)蓮華(れんげ)(きょう)」といいます。日蓮系の宗派はすべて「南無妙法蓮華経」の題目を唱えます。日蓮はその「法華経」を過激なまでに先鋭化(せんえいか)させ、「法華経原理主義」推し進めました。

 どのように過激だったかというと、同じ「法華経」を奉ずる天台宗を除いて、他の宗派の批判を行ったのです。それだけではなく、ときの幕府へ立正安(りっしょうあん)国論(こくろん)を提出します。

 その内容は、当時起こっていた異常気象、疫病、飢餓は、すべて念仏や禅などの “ 邪教 ” が流行ったことによるもので、幕府の宗教政策をすみやかに法華のみに変更すべし、と主張するものでした。

 この過激さは当然のように、他の宗派の恨みを買います。何度も襲撃されたり、島流しになったり、果ては幕府に捕縛され、斬首されそうになったりします。この処刑は中止となりましたが、その後も幾度となく襲撃に遭いました。しかし、自らの主張を全く曲げることはありませんでした。

その後の仏教(室町時代から現代)

 室町時代の文化に、仏教は大きく影響を及ぼします。茶道や華道、そして建築様式や枯山水の庭園など、数えたらキリがありません。それだけ仏教勢力の強くなった時代といえます。

 しかし戦国時代になると、過激派宗教団体による宗教戦争が起きたり、織田信長のような、宗教勢力を徹底的に討伐する武将があらわれます。必然的に仏教勢力(宗教勢力)の力は弱まっていきます。

 後の権力者・豊臣秀吉も寺院の武装解除を大きく進めるなど、寺社への統制を強めました。豊臣秀吉の死後に権勢を掌握した徳川家康は、寺院諸法度を制定します。寺社奉行を置いて、仏教を取り締まりました。一方で江戸幕府は檀家制度を進めます。

 しかし明治維新後、仏教を取り巻く状況は一変しました。新政府の神道重視の政策の結果、神仏分離と廃仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)によって寺院は大きな影響を受けます。

 僧侶は身分ではなく職業となったのです。そして近代以降には、伝統仏教を背景とした新たな教団が設立されていき、現代に至ります。

参考書籍
『眠れないほどおもしろい「日本の仏さま」』(王様文庫)並木伸一郎
『インド仏教の歴史』 (講談社学術文庫)
『日本仏教 思想のあゆみ』 (講談社学術文庫) 竹村牧男

文化庁・宗教年鑑(平成28年版)
https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/hakusho_nenjihokokusho/shukyo_nenkan/pdf/h28nenkan.pdf

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あとがき【「輪廻転生」について】

 仏教のことは詳しく知らなくても輪廻(りんね)転生(てんしょう)をという言葉を知っている人は多いと思います。この言葉は六道(ろくどう)輪廻(りんね)ともいい、仏教の大前提である世界観のことです。

 インドでは、仏教が成立するバラモン教の時代から、「人は死ぬと生まれ変わる」とされていました。それも、人間にだけ生まれ変わるのではなく、鳥や動物や虫、または地獄に堕ちたり、餓鬼になったりするというのです。

 誰に聞いたか定かではありませんが、わたしは子供の頃には、何故かしら、このことを知っていました。そして、嘘をついたり悪いことをした日には、恐怖で眠れなかった記憶があります。

 さて、本当に輪廻転生の世界があるのかは別にしても、仏教の道徳観は、少なからず幼きわたしに影響を及ぼしていたといってもいいでしょう。それだけ仏教は身近だったのです。そのことを改めて気づかされました。

 ともかくとして、高齢の父親を抱える身としては、ほんのわずかですが仏教に触れることで、心構えのようなものができたような気がします。

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