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魅力ある風土と文化を未来へと繋ぐ!【自然と気候編】

古き良き日本の再発見
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はじめに【本文の意味する自然とは?】

 前回、 魅力ある風土と文化を未来へと繋ぐ!【文化領域編】 で、文化領域について、述べさせて頂きましたが、今回は我が国の自然と気候について書いていこうと思います。

 さて、「自然」という言葉を聞くと、一般的にどのようなものをイメージするのでしょうか。ある人は天然の風景をイメージし、またある人は気候や地形など自然環境をイメージします。他にも生物のあるがままの状態や、人為的ではない現象など、人によって「自然」という言葉の解釈は変わってきます。

 今回の「自然」という言葉の解釈は、日本列島のもっている自然的諸性質、つまり自然環境が日本人の生活のありかたに、どのような作用を及ぼしていたかということを考えていこうかと思っています。

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魅力ある風土と文化を未来へと繋ぐ!【自然と気候編】

日本列島の地形的特色と気候について

 改めて言うまでもないのですが、我が日本という国は島国です。
狭い国土のわりには、急峻(きゅうしゅん)な山脈が走り、それが壁となって集落間の交通を寸断し、いたるところに陸の孤島の状態を現出させています。

 つまり日本列島は、島のなかに無数の島を抱えているようなものです。

 この地形的特色は(地理的条件も考慮せざるを得ませんが)、春から秋にかけて台風による豪雨被害をもたらすとともに、冬には世界でも稀な大雪を降らせるといった、言わば、熱帯的であるとともに寒帯的という、ふたつの気候的性格を持たせました。

 それは、熱帯的な米の生育とともに寒帯的な麦の生育をも盛んにさせ、現在に受け継がれています。―――とはいえ、気候が季節と地域とによってきわめて多様であることも忘れてはいけません。



 現在の貨幣経済以前の日本は、米が、金よりも上位に置かれていました。全ては石高(こくだか)で決まります。そのため日本各地、どの地域も一様に稲作が推奨されていきました。

 ところがそれが災いし、日本という国は幾度もの悲惨な飢饉に悩まされ続けます。特に東北地方での被害は大きく、天明・天保の大飢饉においては、餓死者が百万人にも及んだと伝えられています。地域の特色と気象条件を無視した結果だったと言えるでしょう。

 このことは、作家司馬遼太郎が街道をゆくシリーズの41『北のまほろば』にて、津軽藩を例にとって指摘しています。

※参考 司馬遼太郎【街道をゆく41『北のまほろば』】

―古代の豊かさ―
以下原文通り

  (前略)津軽藩は豊臣秀吉が小田原攻めをしていた一五九〇年に成立した。
この藩が明治四年(一八七一)に終幕するまでの三世紀ちかいあいだ、世間のならいに従って――あるいは幕藩体制の原理どおりに――コメのみに頼った。

 コメというのは、食糧という以上に通貨であり、その多寡(たか)(石高制のこと)は身分をあらわした。この藩は、他の藩と同様、コメを大坂市場に出して現金を得、その現金でもって藩を運営し、藩主の参勤交代の費用を出した。すべての価値を生む源泉が、コメであった。

 そのコメを、当然ながら農民がつくる。藩は、農民を鞭うつようにしてコメ作りにはげませ、コメ作りをしない商人や職人を農民の下に置いた。また湖沼を干拓して新田をひらかせたりした。



 もし、である。仮りに考えるのだが、もし津軽藩が、創設早々に、幕府につぎのようなことを申し出ていれば、どうだったろう。

 「わが津軽は、(なら)して五年に一度、やませ(・・・)という悪風が吹いて稲が枯れます。そのときは藩も農民も立ちゆきません。によって、藩のみ自由な経済のたて(・・)は許されないものでしょうか」

 津軽藩初期の(たか)は、秀吉の時代の検地によって四万五千石にすぎなかったことはわかっている。もし津軽藩が、(おもて)(だか)をその程度にとどめ、藩士の人数もその規模でおさえ、参勤交代や江戸での経費も、()大名なみに我慢していれば出銭(でせん)もすくなくてすむ。

 農民に対しては、コメ一色の生産を強いないのである。大いに雑穀をつくらせ、牛馬をふやさせ、一方、漁民の数をふやして干魚を増産させ、さらにはこの藩の唯一の副収入だった林業をいっそうさかんにする。



 ところが、現実の津軽藩は、そのように向かわなかった。

 コメが、この藩の気候の上から危険な作物であるにもかかわらず――西方の諸藩でさえ江戸中期以後、換金性の高い物産に力を入れはじめたというのに――コメに偏執し、相次ぐ新田の開発によって江戸中期には実高三十万石をあげるにいたった。無理に無理をかさねた。

 表高も十万石に格上げしてもらった。
十万石といえば、中級の大名である。格式が高くなったぶんだけ江戸での経費がかさみ、農民の負担も重くなる。

 実高三十万石とはいえ、藩財政は慢性的に赤字で、鴻池(こうのいけ)など大坂商人から借りる借金がかさんで、江戸後期以後は、いまでいう “ 銀行管理 ” のようになっていた。コメ一辺倒政策の悲劇といっていい。(後略)

日本列島の地形的特色と気候について(つづき)

 司馬遼太郎の指摘について、最もだとわたしも思います。
現在は稲作も品種改良や栽培技術が向上し、寒冷地でも米は収穫できます。却って台風被害のわりかし少ない北海道、北陸、東北のことを、米どころと呼びます。

 けれども、あくまでこれは先人たちの努力の賜物であって、わたしたちはそれに胡坐をかいているわけにはいきません。ともかく、自然条件やその土地の持つ特色をもう一度見直してみる必要性を感じます。

 さて、日本の気候を考えるうえで、四季についても触れなければなりません。
『目には青葉 山ほととぎす 初鰹』という句があるように、日本人は五感を使って季節の移ろいを実感してきました。



 とかく江戸の町民は初物を有難がりました。春の山菜、夏の鮎、秋のきのこ、冬の鮭などなど、上げたらきりがないです。ところが今や、この食材は季節に関係なく、いつでも簡単に食すことができます。

 便利になっていくのは良いことなのですが、自然の恵みへの感謝を忘れゆくことに一抹の不安を覚えます。日本という島国は古来から自然を神と崇め、四季の移ろいや花木を愛でてきました。それは、日本人を形成していくうえで基礎になっているとわたしは考えます。

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あとがき【『島国根性』という言葉について】

 『島国根性』という言葉があります。日本という国をこの言葉をもって閉鎖的と揶揄することもあるようですが、果たして本当にそうでしょうか。

 日本という国は、古代国家の形成期には中国から、また近代国家の出発にあたっては西洋からと、怒涛のように流入する物質文明、精神文明、そして人材を受け入れてきました。

 いつも海の彼方にきき耳を立て、好奇心を燃やす習性をもって、時代を乗り越えてきた民族と言えます。単にこの国に合うもの合わないものを精査し、合うものだけを上手に受け入れて、融合させてきただけです。

 閉鎖社会と言われようが、島国には島国の良さがあります。
そのなかでも、もはや国民性ともいえる “ 協調性と心配り ” は、自然災害の多いこの国においては不可欠な気質と言えるでしょう。

 この気候風土によって育まれ培われてきた『島国根性』を、わたしたちは決して忘れてはいけません。

島国根性

 一般に、排他的(はいたてき)であり、多様性・異文化を許容せず、自国の民族、資源、思想などに依存している様子を指す。端的には、こせこせして視野が狭い様子を指す。島国気質、島国的(英: insularity)とも言い、特に政治・経済がグローバル化する現代においてはネガティブに受け取られる事が多い。

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