はじめに【緊急事態宣言解除後のとある知人のはなし】
『緊急事態宣言解除』――この日をどんなに待ちわびていたでしょうか。
きっと皆さんも同じ気持ちでしょう。ちょうどお花見の時期ですし、心にも光風が吹いてきます。そんな最中、ここで、とあるひとりの知人に焦点を当ててみたいと思います。
「はぁ、堂々と夜の街に繰り出したいものだ。」
半年くらい前から、この知人は会うたびごとに溜息交じりで、こう言いました。実はこの知人、馴染みのスナックにお気に入りの女性がいるのです。
この知人のことを簡単に説明しますと、一度結婚に失敗していて、独り者です。ですからスナックの女性に恋愛感情を持っていたとしても、何の問題にもなりません。ですが、わたしと同じで、八十過ぎの両親の面倒を見ています。
つまり、両親に流行り病を移すのが怖くて、馴染みのスナックに行けなかったという訳です。「おいおい、緊急事態宣言が解除されたからといってもリスクは同じだろ。」わたしがそう言うと「気持ちが違うだろ!」と、返します。
「緊急事態宣言下で行って万が一ってことになったら、目も当てられないだろ。でもな、解除されて、もしも病気になったら半分は国のせいだ。」
正直、おいおい、と思いましたが、「それで、どうだ。一緒に行かないか?」と、誘われ、わたしもわたしで少しストレスも溜まっていたためか、「分かった」と、返事をしてしまいました。
そんな会話から数日後、待合場所に現れた知人は、どこかいつもと雰囲気が違っていました。聞いたところ、この日の為に服は新調し、「さっきまでヘアーサロンで髪を染めてもらっていた。」とのことでした。
それにしてもなんという気合の入れようでしょうか。そして知人は歩きながら「○○ちゃん、○○ちゃん!」口ずさみます。この姿を見たわたしは、思わず、古典落語『幾代餅』の清蔵を重ねてしまいました。
古典落語『幾代餅』あらすじ【一念天に通ず。真心を失わずに!】
古典落語『幾代餅』あらすじ(ネタバレ注意)
日本橋の馬喰町に、一軒の搗き米屋(精米業者)がありました。そこに勤める清蔵という男は、遊びも知らず、真面目一途に働く好青年でした。この清蔵がある日、急に患って寝込んでしまいます。医者が言うには「気の病ではなかろうか。」とのことです。
心配になった女将さんが清蔵に訊ねると「実は、逢いたい人がいるんです。」と、答えます。「恋わずらいかい?」女将さんが再び訊ねると、清蔵は詳しい事情を打ち明けます。
先月のことです。清蔵は女将さんの使いで人形町に行きました。そのとき、とある具足屋(甲冑をつくったり売ったりする店)の店先に黒山の人だかりができていて、何だろうと思って覗いたところ、綺麗な女性の錦絵が飾ってあったと言うのです。
清蔵は「この錦絵はどこの誰だ?」と、隣の人に訊くと「これが有名な吉原の幾代太夫だ!」と、言います。そのとき目にした錦絵の、この世のものとも思えない美しさに魂を奪われた清蔵は、「じゃあ、吉原に行ったら逢えるんですかい?」と、また訊ねます。
「馬鹿なことは言っちゃいけない。こういう人は “ 大名道具 ” と言われる松の位の太夫で、大名とか大尽(大金持)じゃないと相手してくれない。」と聞き、諦めるに諦めきれず、帰ってきたとたんに、身体の力が抜けて、寝込んでしまったと言うのです。
女将さんからこの話を聞いた親方は半ば呆れながらも、真面目な性格の清蔵には、面と向かって「無理だ。諦めろ!」とも言えず、「俺に任せておけば会わせてやる。その代わり向こう一年、一生懸命に働いて金を貯めろ。」と、諭します。
それを聞いた清蔵、俄然やる気がでます。前以上、一心不乱に働きました。
―――そして一年後がやってきます。
清蔵の意思は固く、親方に「吉原に連れて行って下さい」と、頼みます。お金も十三両と二分貯まっていました。
しかし、相手は最高位の太夫です。突然乗り込んで行っても逢える相手ではありません。そこで親方は一計を講じます。吉原の遊びに精通している、医者の藪井竹庵先生に案内人を頼むことにします。
親方は、清蔵の貯めた十三両と二分に、自分のお金を足して十五両にしてくれました。帯や羽織も全部親方に揃えてもらい、すっかりと準備も整います。そこに竹庵先生がやってきて、とうとう吉原に繰り出すこととなりました。
竹庵先生は道すがら「搗き米屋の若い者じゃ、向こうが相手してくれません。ここは嘘をついて、野田の醤油問屋の若旦那ということにして一芝居打ちましょう。」と言い、清蔵もこれを承諾します。
こうして吉原に到着し、竹庵先生は「幾代太夫に会いたい。」と、贔屓にしているお茶屋の女将に頼みます。すると幸いにも、今晩は空いているとのことで、女将への義理もあり対面が叶うという運びになります。
どこがどう気に入ったのか、幾代太夫は清蔵と一晩を一緒に過ごします。まさに清蔵、夢心地でした。別れのとき、幾代太夫は清蔵に「今度、主は、何時来てくんなます。」と、訊ねます。
清蔵は「一年経ったらまた参ります。」と、答えます。そして、すっかりと自分の素性と幾代太夫に惚れた経緯を明かし、「これからまた向こう一年、一生懸命働きますから、きっと一年後の今日また逢って下さい。」と、言います。
清蔵の真の心に打たれた幾代太夫、「来年三月に年季が明けるのざますが、主、あちきを女房にしてくんなましか。」と言い、清蔵に支度金の五十両を預けます。
搗き米屋に舞い戻った清蔵は、幾代太夫との約束を親方に話しますが、「吉原に行って、おかしくなって帰りやがった。」と、けんもほろろで相手にしてくれません。それからの清蔵は、「三月、三月」言いながら仕事をする始末です。
年も明けて春になり、三月も半ばとなったある日のことです。搗き米屋の前に一丁の駕籠がぴたりと止まります。
―――中からは文金高島田姿の幾代が現れます。
結びの橋渡しをした薮井竹庵先生を仲人に頼み、こうして晴れて夫婦になります。その後二人は、清蔵が元々搗き米屋だったことから、両国広小路に一軒の餅屋を開きます。そこで売り出した『幾代餅』は大評判となりました。
嫉妬からか、ときには「やいやい、そんなに仲良くやってたら、みんなが焼き餅を焼きますぜ!」という心無いヤジも飛びます。それに対し幾代は「いいえ、うちは『幾代餅』。焼きモチはございません。」
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吉原遊郭(よしわらゆうかく)とは?
吉原遊郭とは、江戸幕府によって公認された遊廓です。
始めは江戸日本橋近く(現在の日本橋人形町)にありましたが、明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤に移転します。このことから前者を元吉原、後者を新吉原と呼んでいます。
元々は大御所・徳川家康の終焉の地、駿府(現在の静岡市葵区)城下にあった二丁町遊郭から一部が移されたのが始まりと云われています。
明治5年(1872年)頃の東京の吉原遊廓
遊郭(ゆうかく)
出典:ブリタニカ国際大百科事典
平安~鎌倉時代に発達した遊女屋を、江戸時代、幕府の都市政策の一つとして特定区域に強制的に集中して公認したもの。
江戸の吉原、大坂の新町、京都の島原、長崎の丸山などが有名。遊郭は遊女を雇う置屋と客が遊女をあげて遊ぶ揚屋とから成り、いわゆる独特の郭 (くるわ) 風俗を形成し、歌舞音曲の流行の源、町人社会の代表的な社交場ともなった。
また地方の港町、宿場などにも遊郭が発展した。この売春制度は明治以後も公娼制度として引継がれ、第2次世界大戦後、1946年の公娼廃止、57年の売春防止法施行によって公式にはなくなった。
あとがき【とある知人のはなし、その後】
さて、小さな焼き鳥屋でお腹を満たし、ビール二杯で勢いをつけた知人は、意気揚々と馴染みのスナックのドアを空けました。「やあ、久しぶりだね。ところで……。」
店内を見渡して見ても、どうやら意中の女性はいないようです。そこにママと思われる40代の女性が現れ「とにかく座って!あのボトルでいいわね?」と、無理矢理に知人を席に着かせました。
「○○ちゃんね。実はうちの常連さんとデキていて、その常連さんが田舎に移住するらしくて、一緒に着いて行っちゃったわよ。ほんと、羨ましいわ。あっ、そうそう、新しい娘紹介するわね。きっと気にいると思うわ。○○ちゃん、こっちの席に着いて!」
もはや、知人の顔を直視することができません。出されたウイスキーの水割りを一気に飲み干した知人は、ばつが悪そうに「出ようか?」と、わたしに言いました。わたしも黙って頷きました。
そして、席を立とうとしたとき、「初めまして。○○です。宜しくお願いします。」と、どことなく女優の石原さとみさん似の女性が、知人の隣に座りました。もっとも、ソーシャルディスタンスを保つため、少し離れていましたが。
―――知人はわたしに(座れ!)と、目で合図をしました。
店を出たあと、知人はわたしにこう言いました。
「多分、非常事態宣言で会えなかったから、会いたくて仕方なかっただけなんだよな。今日の○○ちゃんのほうが何倍も綺麗だし。」
わたしが、この男を友人ではなく知人と呼ぶのは、こんな優柔不断な性格の持ち主だからです。でも、こうして一緒に飲みに行くのは嫌いではないからでしょう。なんせ、溜まってたストレスも幾分解消できましたし。
気の緩みどうこうと、報道番組で言っていますが、常に張り詰めていたら、いつかプツリと切れてしまいます。ともかく、夜の街の次は、お花見にでも繰り出したいと思っている今日この頃です。感染予防を心掛けて、そして真心を忘れずに。
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