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福沢諭吉『瘠我慢の説』【身の清潔さ・貧しさこそが誇り!】

古き良き日本の再発見
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はじめに【上たるものの節義について!】

 新年早々、世の中は寒波とともに自粛自粛の嵐が吹き荒れています。
そう言えば、国民に自粛を促す一方で、「会食も仕事のうち」と、言い放った政治家さんもいましたね。さも、政治家という職業が特別であるかのように・・・。

 もしも、特別だと言いのなら国民の規範であって貰いたいものです。
かつての日本社会には武士という、現代における政治家・官僚のような特別な職業がありました。勿論、人によっては例外もあったでしょうが、彼らは得てして、庶民の規範であるよう心掛けていました。

 江戸時代の儒学者、室鳩巣(むろきゅうそう)は著書『明君家訓めいくんかくん』の中で武士が実践するべき節義として、このように書いています。

 「節義の(たしなみ)とは、口に偽りを言わず、利己的な態度を構えず、心は素直にして外に飾りなく、作法を乱さず、礼儀正しく、(かみ)にへつらわず、(しも)(あなど)らず、己が約諾を違えず(以下略)」

 つまり―――節義の(たしなみ)とは、嘘をつかず、私利私欲に走らず、心を素直にして上辺を飾らず、作法が乱れず、礼儀正しく、上にへつらわず、下をあなどらず、自分がなした約束を違えず。と、いうことを述べています。

 『明君家訓』という本は、八代将軍・徳川吉宗が、家臣に読むよう薦めたということもあり、広く武士たち読まれ、武士社会の行動規範となっていきます。こうした武士階級の節義は、やがて庶民生活にも浸透していき、我が国の文化となります。

 もはや、この倫理観は、瘦せ我慢ともいえるほどのものでした。上に立つ者が瘦せ我慢するからこそ、下の者も我慢ができるのです。この考えは、かの福沢諭吉も著書『瘠我慢の説』で説いています。

室鳩巣(むろ きゅうそう)とは?

 室鳩巣(1658―1734)江戸中期の儒者。武蔵国生。名は直清、字を師礼・汝玉・別号を滄浪。初め金沢藩に仕え、のち京都に遊び木下順庵に師事。新井白石と並んで英才の誉れ高く、また白石の推薦で幕府の儒官となり、経学・文章共に優れた大儒となる。著書多数。享保19年(1734)歿、77才。


出典:(株)思文閣美術人名辞典
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福沢諭吉『瘠我慢の説』【身の清潔さ・貧しさこそが誇り!】

福沢諭吉とは?

 福沢(ふくざわ)()(きち)(1834―1901)は、幕末から明治にかけて活躍した啓蒙思想家であり、そして教育者です。豊前国中津藩(現在の大分県中津市)の下級藩士、福澤百助の五男として生まれ、青年期には緒方洪庵の適塾にて蘭学を学び、さらには英語を修得します。

 安政7年(1860年)25歳のとき、幕府の遣米使節に志願して、咸臨丸で渡航し、欧米各国を視察します。視察時のことは『西洋事情』という本にまとめて、欧米文明の紹介に努めました。

 慶応4年(1868年)、芝新銭座に慶應義塾を創設し、活発な啓蒙活動を展開していきます。特に著書『学問のすゝめ』は、人間平等宣言と〈一身独立・一国独立〉の主張により、ベストセラーとなります。

 また『時事新報』を創刊し、政治・時事・社会問題や婦人問題などに幅広く論説を発表していきます。その活動は晩年まで続けられますが、明治34年(1901年)、1月25日、脳溢血のため東京で死去します。享年68歳。


    福沢諭吉

『瘠我慢(やせがまん)の説』とは?

 『瘠我慢の説』とは、福澤諭吉の著書のひとつです。

 本書の特徴は、幕臣であったのに、後に新政府に仕えた勝海舟と榎本武揚に対する個人攻撃であり、本来は(おおやけ)にするつもりはなく、親しい人々の間で読まれていたものですが、写本が流出してしまった為に、『時事新報』紙上に掲載されることになります。

福沢諭吉『瘠我慢の説』

 瘦せ我慢は義理・人情と並んで、江戸の文化の重要な徳目でした。福沢諭吉もまた、瘦せ我慢を大きな美徳と考えていました。

 福沢は、「国家を維持保存していこうとする者は、 “ 瘠我慢の精神や思想 ” を拠りどころにしなくてはならない。」との思いから、勝海舟と榎本武揚に向けて批判を書いたのです。


   勝海舟

以下『瘠我慢の説』から抜粋

 (前略)(つつし)んで筆鋒(ひっぽう)(かん)にして苛酷(かこく)の文字を用いず、(もっ)てその人の名誉を保護するのみか、実際においてもその智謀(ちぼう)忠勇(ちゅうゆう)功名(こうみょう)をば()くまでも(みとむ)る者なれども、(およ)そ人生の行路(こうろ)富貴(ふうき)を取れば功名を失い、功名を(まっと)うせんとするときは富貴を()てざるべからざるの場合あり。

(現代語訳)
 敬意を表し、筆の先は穏やかにして過酷な言葉は使わず、言葉で二人の名誉を保護するだけでなく、実際にこの二人の、智恵やはからいや忠義や勇気と、功績や名誉を、どこまでも私は認識しています。しかし、一般的に人生の道のりにおいて高い地位を選択すれば名誉を失い、名誉を全うしようとすれば高い地位を捨てなければならない場合があります。

 二氏のごときは(まさ)しくこの局に当る者にして、勝氏が和議(わぎ)を主張して幕府を()きたるは誠に手際(てぎわ)よき智謀(ちぼう)の功名なれども、これを解きて主家の廃滅(はいめつ)したるその廃滅の因縁(いんねん)が、(たまた)()って一旧臣の()めに富貴を得せしむるの方便(ほうべん)となりたる姿(すがた)にては、たといその富貴(ふうき)(みず)から求めずして天外より(さず)けられたるにもせよ、三河(みかわ)武士(ぶし)の末流たる徳川一類の身として考うれば、折角(せっかく)の功名手柄(てがら)も世間の見るところにて光を失わざるを得ず。

 両名のような人物は、まさにそのことに直面した人物でした。勝海舟氏が和議を主張して幕府を解散したのは、本当に手際よく、巧みな智恵を発揮したという功績や名誉があります。 しかし、幕府を解散して主人である徳川幕府を滅ぼしたのに、徳川幕府が滅びたということが原因となって、たまたま一人のかつての幕府の臣下にとって高い地位を獲得する方法となってしまった姿は、たとえその高い地位は自分から求めず思ってもいないところから授けられたものだったとしても、三河武士の流れを汲む徳川家の一党の身として考えれば、せっかくの功績や名誉も、世の中から見る時にその光を失わざるを得ません。


  榎本武揚

 榎本氏が主戦論をとりて脱走(だっそう)し、(つい)に力()きて(くだ)りたるまでは、幕臣(ばくしん)本分(ほんぶん)(そむ)かず、忠勇の功名()なりといえども、降参(こうさん)放免(ほうめん)(のち)に更に青雲の志を発して新政府の(ちょう)富貴(ふうき)を求め得たるは、(さき)にその忠勇を共にしたる戦死者負傷者(ふしょうしゃ)より爾来(じらい)流浪者(るろうしゃ)貧窮者(ひんきゅうしゃ)に至るまで、すべて同挙(どうきょ)同行(どうこう)の人々に対して(いささ)慙愧(ざんき)の情なきを得ず。

 榎本武揚氏が主戦論を主張し、江戸から脱出して戦って、遂に力尽きて降伏したことは、そのことまでは幕府の家臣が本来尽くすべきつとめにかなった、忠義で勇気ある素晴らしい名誉と功績があることだったと言えます。しかし、降伏し釈放された後に、さらに出世したいという意志を起こして、明治新政府において高い地位を求めて得たことは、かつてその忠義や勇気をともにして戦死し負傷した人々から、その戦争によって没落して零落しさまようになった人々まで含めて、すべての行動を共にした人々に対して、どうしても慚愧の思いが起こらないわけにはいかないものです。

 これまたその功名の(あたい)を損ずるところのものにして、要するに二氏の富貴こそその身の功名を(むなし)うするの媒介(ばいかい)なれば、今なお(おそ)からず、二氏共に断然(だんぜん)世を(のが)のがれて維新(いしん)以来の非を(あらた)め、(もっ)既得(きとく)の功名を(まっと)うせんことを祈るのみ。天下後世にその名を(ほう)にするも(しゅう)にするも、心事の決断如何(いかん)()り、(つと)めざるべからざるなり。

これまた、その功績や名誉の価値を損なっていることです。要するに、勝海舟氏と榎本武揚氏の二人の高い地位こそが、その身の功績や名誉を無にしているわけです。ですので、今からでもまだ遅くはありません。二人とも、きっぱりと社会から隠退して、明治維新以来の過ちを改め、そのことによってすでにもう持っている功績や名誉を全うしてくれることを祈るばかりです。この世界の後の時代において、歴史上の評価を素晴らしくするのも駄目なものにするのも、どのような決断を心において行うかによるわけであり、努力しなければならないことです。

 (しか)りといえども人心の微弱(びじゃく)、或は我輩(わがはい)(げん)に従うこと(あた)わざるの事情もあるべし。これまた()むを得ざる次第(しだい)なれども、()(かく)に明治年間にこの文字を記して二氏を論評したる者ありといえば、また(もっ)て後世士人の風を維持(いじ)することもあらんか、拙筆(せっぴつ)また徒労(とろう)にあらざるなり。

 そうは言っても、人の心は弱いものですし、場合によっては私が言っていることに従うことができない事情もあることでしょう。それもまたやむをえないことですが、とにかく、明治の時代の間に、これらの言葉を書き記して、勝海舟氏と榎本武揚氏の二人のありかたを論評した者がいたということが伝われば、そのこともまた後の時代の人々の気風や精神を維持することもあるかもしれません。そうなれば、私が拙い筆を振るって書いた言葉も、無駄ではありません。


青空文庫 『瘠我慢の説』 福沢諭吉
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あとがき【福沢から勝への手紙】


       咸臨丸

 遣米使節団の一員になったときの福沢は、当時の軍艦奉行・木村摂津守の従者としてでした。この木村摂津守(木村(かい)(しゅう))は、幕府瓦解後、明治新政府からもその実力を評価されて、再三仕官の誘いがあったにもかかわらず、それを全て断り、隠居生活をしていたと言います。

 そんな木村の瘦せ我慢を見ていた福沢ですから、新政府に仕える勝海舟・榎本武揚のことが許せなく『瘠我慢の説』を書いたのでしょう。ところが福沢も書いた後、誹謗にあたるのではないかと、律義にも二人に「述べたいことがあればお聞きしたい。」との手紙を添えて、原稿そのものを送っています。

 勝海舟は福沢に、「私のしてきたことの責任や理由は私に存在しています。それに対して批判したり誉めたりすることは、私ではなく、他人がすることです。他人の批判や称賛については、私は関係し関与するところではないと思っております。」との手紙を返します。

 実際にその場所に身を置かない限りは、分からないことも多いでしょう。あくまでも福沢は外野です。勝のみぞ知るといった事実もあったのかも知れません。

 ともあれ、瘦せ我慢の美学こそが、今の時代に重要なのではないかと、わたしは考えてしまいます。―――特に、上に立つ人間には。

 勝海舟に学ぶ『心配性』と決別する方法!【『氷川清話』より】

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