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茶の湯のはなし【茶道の歴史とお茶会での失敗談(実体験)!】

古き良き日本の再発見
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はじめに【お茶会の誘い】

 茶道と聞くとどこか敷居が高くて、たとえ興味があったとしても、「おいそれと学べるような代物じゃない」と、わたしは長年、そう思っていました。それに、趣味にするとしても「お金がかかるでしょ?」なんて、尻込みをしてしまいます。

 わたしだけではなく、茶道のイメージとは一般的にこんな感じだと思います。 そんなわたしの元に、お茶会の誘いがあったものですからたまりません。

 「お茶会と言っても気軽なやつだから」と、誘った人間は言います。また、「時間はかからないし介護中の良い気晴らしにもなるよ」なんて、誘惑の言葉を投げかけてきます。

 (確かに最近イライラすることも多いし、心を落ち着ける良い機会かも?)
こんな風に少しずつ思考を変えていったわたしは、結局お茶会とやらに参加してしまいました。 

古典落語『井戸の茶碗』あらすじ【正直者が馬鹿を見ない社会!】

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茶の湯のはなし【茶道の歴史とお茶会での失敗談(実体験)!】

茶の湯(茶道)の歴史 

平安時代~室町時代

 お茶は平安時代、中国(唐)から遣唐使(留学僧)らが、日本に持ち帰ってきたものと伝えられています。しかし当時は、薬(漢方薬)とみなされ、非常に高価であり、特権階級だけのものでした。

 その後、鎌倉時代には禅宗ぜんしゅう寺院を中心に抹茶を飲む習慣が普及されていき、さらに武士階級の間にも広がりを見せていきます。室町時代になると大陸と日本の文化的融合が進むなどしたこともあり、お茶を取り巻く様相が様変わりします。より娯楽性の高いものになっていったのです。

 一方で、娯楽性よりも精神性を重視する一派も現れ始めました。『び茶』の祖として知られる村田むらた珠光じゅこうや、その思想を継ぐ武野紹たけのじょうおうらのことです。その後、『侘び茶』は千利休によって発展、そして完成を見ます。


    武野紹鴎

戦国時代~江戸時代

 戦国時代になると茶の湯は、戦国武将の間で流行していきます。その筆頭は、かの織田信長です。信長は、茶会、そして茶道具を、政治にも巧みに利用していたことがうかがい知れます。

 また信長は、『茶の湯』の道に精通していた大阪・堺の商人、今井宗久、津田宗及、そして前にも触れた千宗易(利休)の三人を登用します。後にこの三人は『天下三宗匠てんかさんそうしょう』と称されます。

 『天下三宗匠』のひとり千利休は、天下人織田信長につづき豊臣秀吉にも仕え、次第に大きな政治的な力を手にするようになっていきます。しかしこの力が災いし、秀吉に切腹を命じられる事となります。


千利休(長谷川等伯画、春屋宗園賛)

 戦国の世も終わり江戸時代になると、『茶の湯』は武士のたしなみのひとつとなっていきます。 この頃から、『茶の湯』は『茶道』と呼ばれます。『茶道』の代表的な流派として千利休直系の三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)があげられます。

 江戸時代は、庶民にもお茶が浸透していきます。
けれども、庶民の飲まれていたお茶は抹茶ではなく茶葉を煎じたお茶(煎茶せんちゃ)でした。

明治時代~現代

 もともと男性だけのものであった『茶道』も明治時代になると、女性の間にも広がりを見せます。そして現代、学校の茶道クラブに象徴されるように、茶道界は、女性が支えていると言っても過言ではないでしょう。

 ちなみに現在、茶道人口は減少していると言われています。
原因は、複雑な免状制度など色々あげられますが、根本に日本人の日本文化離れがあるのではないでしょうか。

【素人、お茶会での恥もかき捨て!】

 さて、お茶会前夜、わたしは一夜漬けでお茶について学んでいた。幸いに今の世の中は便利になっている。動画を探せばいくらでも作法を学べるのだ。聞くところによると、茶道の流派は『裏千家』なのだそうである。

 「同じ千家なのに全部作法が違うだなんて・・・」そんなわたしの独り言は朝まで続いた。お茶会当日、目の下にクマを作っていたのは言うまでもない。

 「来るときはラフなスタイルで良いよ」と、伝えられた。けれども一応ジャケットだけは羽織った。恥を出来るだけ掻かぬよう、わたしも必死なのだ。そうこうしているうちに誘った人間が迎えに来た。案の定、ラフなスタイルと言った張本人はネクタイ姿だ。



 「おいおい、ネクタイを締めないといけないのか?」
 「ラフでいいと言ったじゃん」
 「だったら、お前の格好はどう説明するんだよ」
 「これはたまたま、前回はジーンズだったよ。あはは」

 寝不足で苛立っているときに、その笑い声は不快だった。
わたしは、「待ってくれ、着替えてくる」と言ったが、「時間に遅れるから急ごう」と、こうである。

 まさに前途多難、何度も「やっぱ、行かない」と、口から出かけたが、その都度「ほら、相変わらずイライラしてるだろ。お茶をすると心が静まるから」と、説き伏せられた。

 緊張でわたしの胸の鼓動が高鳴っているのをまるで見透かしたように、誘った人間はこうも言った。

 「緊張しなくてもいいから」

ーーーお茶会の会場へと着いた。
如何にも、お茶をやっています的な平屋の純日本風家屋である。門から玄関に続く小道は、いわゆる飛び石ってやつが不規則に置かれている。

 そんな小道を、楓の木が日傘のように覆い、淡い木漏れ日が足元を揺らす。敷地内に一歩紛れ込むと、右に小さいながらも日本庭園が見えた。真っ白な玉砂利のなかから無造作に頭を出した岩にはこけがむしている。



 (やはり、来なければ良かった。場違いだ。)これがそのときの率直な感想だ。
おもてなしの精神が基本である筈の茶道なのに、こころが委縮してしまうのは、わたしが庶民だからなのだろうか。

 「緊張しなくても大丈夫だから、気楽に、気楽に」
誘った人間はそう言い残して、玄関に滑り込んで行った。

 あっ、物語の進行上、そろそろ、誘った人間のことを話しておかなければなるまい。
この人間のことをAさんとしよう。Aさんとは仕事上での付き合いである。

 同じ職場で働いているわけでもない。取引相手と言っても、かつて一度だけ一緒に仕事をしただけだ。年齢が同じということもあって確かに最初から話しやすかった。でもたったそれだけの関係性なのに、何故かしら向こうからたまに連絡をしてくる。

 そうそう、ちょっとした飲み会で一緒になったこともあった。
当時わたしは、父親の介護を始めたばかりだった。そのとき何気ない会話のなかで、Aさんも両親の介護をしているのを知った。



 離れて暮らす妹の手も借りてとのことだったが、介護について全くの初心者だったわたしは、あれこれと質問攻めしていたのを覚えている。そう考えると、介護仲間と言ったほうが適切なのかも知れない。

 お茶会にはなしを戻す。
ひとりにされて心細くなったわたしは、情けない姿だが、まるで金魚のふんのように、Aさんを追って玄関に入って行った。

 玄関で応対に出てくれたのは、三十代の半ばと思われる着物姿の女性だった。
わたしはAさんに小声で「ラフでいいと言ったよな?」と、くぎを刺したが、Aさんはそんなわたしを無視して、着物姿の女性と何やら世間話を始めた。



 腹が立ってしょうがない。大声で文句のひとつでも言ってやろうかとも思ったが場所が場所である。ここは(気持ちを切り替えて)と、わたしはとにかく、昨夜見た動画を頭の中で繰り返し再生していた。

 待合室に通された。
わたしとAさんの他に、これもまた着物を着た二十代の女性三人組、七十代の老夫婦、この老夫婦は着物こそ着ていないが、揃ってフォーマルな装いだ。そして後からスーツにネクタイ姿の、どこかの会社の重役らしき人間が大声で笑いながら入ってきた。

 その重役らしき人間にAさんは頭を下げた。重役らしき人間も「おう」「元気か」と、口々にAさんに向かって声掛けをする。それにしても、時間が経つにつれて、ますますわたしの居心地も悪くなっていく。

 玄関で応対してくれた女性が姿を現し、二十代の女性三人と七十代の老夫婦を茶室に招き入れた。残された四人にも張り詰めた空気が漂う。全員が足を崩していたからそれだけでも有難かった。お茶会に来るまで、すっぽりと頭から抜け落ちていたが、わたしは正座が大の苦手なのである。



 「先ず袱紗ふくさの持ち方が違います。前にも言いましたよね!」
茶室から年配の女性の叱責する声が聞こえてくる。二十代女性、三人のうちの一人が、「申し訳ありません。もう一度お願いします」と、震える声で謝っている。

 もはや、ここまでくると、わたしの緊張度も計り知れない。
Aさんや、勝手に重役と称したが、その重役の二人はすました顔をしている。

 幾たびも「はい、そこ違う。もう一度!」という声が聞こえてきて、その都度、「すみません」と、詫びている声を耳にすると、わたしも同じタイミングで唾を飲み込んだ。喉がからからなのだ。

 やがて、先の五人が茶室から出て来た。
―――わたし達の番だ。
膝が震える。(初心者なのをみんなが知っているのだから、堂々と間違えればいい)
そう、自分の胸に言い聞かせても無駄なようである。思うのは後悔の念ばかりだ。



 ともかく、わたし達の番になり、茶室へと通された。想像どおりの茶室である。
(えぇーっと、歩き方、歩き方……しまった忘れた)

 先生は六十代か、もうすこし若いくらいか、眼鏡をかけた一見厳しそうな女性だ。
脇には、お弟子さんなのだろう、玄関で応対に出た女性が控える。そのお弟子さんの指図した並びでわたし達は座った。ちなみの当然ながらわたしは末席である。

 ほっと胸を撫で下ろす。見様みよう真似まねで良いからだ。
正座をし、揃って無言で頭を下げたあと、室内を見渡した。どれどれ、動画によると、先ずは掛け軸と生け花を鑑賞しなくてはならない。

 ところが、掛け軸に漢詩が書かれてあるのだが、てんで読めない。生けてある花の名も知らない。いきなり窮地に立たされた気分である。お弟子さんが和菓子を運んできた。わたしの頭の中は真っ白だ。



―――そして、先生が口を開いた。
 「どうぞ、膝を崩して楽にしてください。」

 「ふえっ?」わたしは思わず素っ頓狂な声を出してしまった。

 Aさんは、そんなわたしを見てニヤニヤしている。
そして、わたしの耳元で「気軽に参加できるやつって言っただろ」と、囁いた。

 先生も続けて、「さっきのグループは茶道を学んでいる人たち」と、一旦区切り、重役風の二人を交互に見ながら「こっちのグループは気軽に抹茶を楽しみたいという人たちのための会なのですよ」と、ちゃせんをしゃかしゃかと動かしながら話した。

 気が抜けてしまったからなのか、その後のことはあまり覚えていない。
覚えていることと言えば、苦い苦いと思い込んでいた抹茶に甘味があることと、時間の流れがなんとなくだが、ゆったり感じたことくらいだ。

 あともうひとつ、こころが和んでいったことも付け加えよう。


おわり

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あとがき【一期一会忘れず、自然体で!】

 千利休と聞けば『一期一会』を思い浮かべる人が多いでしょう。
わたしにとって初めてのお茶会も「一期に一度の会」でした。
敷居が高いと思っていた茶道ですが、現在は初心者でも気軽に参加できる体験型の茶道教室が多いと聞きます。

 わたしの感想としては、作法云々は置いといて、ひとりの日本人として『おもてなしの精神』は常に持ち続けていたいものと再確認しました。

 余談ですが、千利休の逸話に、庭の落ち葉を掃き掃除をしたあと、再び枯葉を撒いたというものがあります。弟子が何故かと問うと、「少しくらい葉が落ちている方が自然で良い」と、利休は答えたそうです。

 わたしも次からは、新たなことにチャレンジするとき、あくまで自然体でいられるよう、精進していきたいと思います。

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