はじめに【震災で失ったものの大きさ】
東日本大震災における犠牲者(2020年3月7日時点)は、死者15,899人、行方不明者2,529人、また、2021年1月末までに報告された震災関連死者数は3,773人に上っています。先ずはご遺族に向けて、謹んで哀悼の意を表したいと思います。
日本という国は災害大国です。防災については、災害時の備え!【如何にして高齢の家族と自分を守るのか?】に書いていますので参考にして下さい。
さて、震災から十年という節目を迎えるにあたり、テレビ各局は特別番組を編成し、人々の記憶が風化していかないよう努めています。しかしそれらは、震災とは無関係だった人に向けてのものです。
被災者にとっては忘れたくても忘れられない記憶なのです。
現に震災で家族を失った知人のひとりは、一命はとりとめたものの、いまだにトラウマを引きずっています。津波の映像を見るたびに悪夢がよみがえり、気分が悪くなると言います。
―――彼の口癖は「早く忘れたい……。」です。
そして、矛盾するようですが、こんなことも口走ります。
「幽霊でもいいから家族に会いたい。」
柳田国男『遠野物語』九十九話【明治三陸大津波のはなし】
柳田国男(やなぎたくにお)とは?
柳田国男は日本の民俗学者・官僚です。(1875-1962)
兵庫県に生まれ、東京帝国大学法科大学政治科(現・東京大学法学部政治学科)卒業後、明治33(1900)年、農商務省に入省し、主に東北地方の農村の実態を調査・研究をします。
のち朝日新聞社に入り、国際連盟委任統治委員も務めます。その間、大正2(1913)年に雑誌「郷土研究」を創刊します。昭和10(1935)年には民間伝承の会(のちの日本民俗学会)を創始して、日本民俗学の確立と研究の普及に努めます。
昭和37(1962)年8月8日、東京都世田谷区成城にある自宅にて心臓衰弱のため死去。(享年88歳)
『遠野物語』をはじめとした膨大な著作は『定本柳田国男集』全36巻に収められ、日本民俗学の開拓者として、その功績は計り知ることができません。
柳田国男
小泉八雲『雪女』と【『遠野物語』他各地に伝わる雪女の伝承!】
『遠野物語(とおのものがたり)』とは?
『遠野物語』は、柳田国男が明治43(1910)年に発表した、岩手県遠野地方に伝わる逸話、伝承などを記した説話集です。
遠野地方出身の口承文学収集家、そして小説家の佐々木喜善によって語られた、遠野地方に伝わる伝承を柳田が筆記・編纂する形で出版されます。1910年6月に、自費出版として350部を刊行しますが、反響の大きさから、のちに増刊されます。
『後狩詞記』(1909年)、『石神問答』(1910年)と並び、柳田の初期三部作の一作とされ、民間伝承に焦点を当てながら、聞いたままの話を編纂していること、それでいながら文学的な独特の文体であることが高く評価されています。
明治三陸地震について
明治三陸地震は、明治29(1896)年、6月15日の午後7時32分、日本の岩手県上閉伊郡釜石町(現・釜石市)の東方沖200kmの三陸沖を震源として起こった地震です。
地震の規模はマグニチュード8.2~8.5の巨大地震でしたが、各地の震度は2~3程度であり、緩やかな長く続く震動で、誰も気にかけない程度の地震でした。しかし北海道から宮城県にかけて大津波が発生し、甚大な被害をもたらしました。
特に綾里湾(岩手県大船渡市三陸町綾里)では、海抜38.2mを記録する津波が発生し、壊滅的な被害でした。死者・行方不明者の合計は2万1,959人(北海道:6人、青森県:343人、岩手県:1万8158人、宮城県:3,452人)となっています。
『遠野物語』大津波
土淵村の助役北川清という人の家は字火石にあり。代々の山臥にて祖父は正福院といい、学者にて著作多く、村のために尽したる人なり。
清の弟に福二という人は海岸の田の浜へ婿に行きたるが、先年の大海嘯に遭いて妻と子とを失い、生き残りたる二人の子とともに元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。
[現代語訳]
土淵村の助役を務めた北川清という男が字火石に住んでおり、家は代々山伏で祖父は正福院といい、この祖父は著作の多い学者で村に貢献した男であった。
清の弟である福二は海岸の田の浜へ婿に行ったが、明治24(1891)年の大津波で妻と子供を失い、その事があってからも生き残った二人の子供と家のあった場所に小屋を建てて、一年ばかりそこで生活していた。
夏の初めの月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたるところにありて行く道も浪の打つ渚なり。霧の布きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女は正しく亡くなりしわが妻なり。
思わずその跡をつけて、遥々と船越村の方へ行く崎の洞あるところまで追い行き、名を呼びたるに、振り返りてにこと笑いたり。男はとみればこれも同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。自分が婿に入りし以前に互いに深く心を通わせたりと聞きし男なり。
[現代語訳]
ある夏のはじめの晩に用をたそうと、小屋から離れた便所に立って波の打ち寄せる渚を歩いていると、霧の立ち込める中から男女の二人連れが近づいてくるのに気がついた。女は津波で失った妻である。
福二は思わずその後をつけ、船越村へ行く岬の洞穴があるところまで追っていった。妻の名を呼ぶと女はこちらを見て笑い、男を見やると、男の方も同じく津波で亡くなった、聞くところによると自分が婿に入る前、心通わせていたと聞き及んでいた同じ里の男であった。
今はこの人と夫婦になりてありというに、子供は可愛くはないのかといえば、女は少しく顔の色を変えて泣きたり。
死したる人と物いうとは思われずして、悲しく情なくなりたれば足元を見てありし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦へ行く道の山陰を廻り見えずなりたり。
追いかけて見たりしがふと死したる者なりしと心づき、夜明けまで道中に立ちて考え、朝になりて帰りたり。その後久しく煩いたりといえり。
[現代語訳]
「今はこの人と一緒になっている」と妻が言うものだから、「子供がかわいくないのか」と問いかけると妻は顔色を変え、泣き出してしまった。
死んだ者と話しているようには思えず、ただ足元に目を落として立ち尽くしていると、再び男女は足早にその場を立ち去り、小浦へ続く道の山陰を廻ると姿が見えなくなってしまった。
少し追いかけてはみたものの、相手は死んだ人間なのだと考え直し、それ以上後を追うことは止めた。しかし、夜明けまで道に立っていろいろと考え、その事があってからも福二はしばらく悩み、苦しんだという。
明治二十九年の三陸大津波のとき、田の浜地区(岩手県下閉伊郡山田町)では138戸の家のうち129戸が流失し、死者が483人、生存者は325人であり、半分以上の人が亡くなりました。
青空文庫 『遠野物語』 柳田国男
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あとがき【『心の復興』には時間がかかる】
『遠野物語』の大津波のはなしは、単純な幽霊話しといったものではなく、ひとりの被災者の「心の葛藤」を描いたものと考えます。
現代に置き換えるなら、震災の一年後、福二という男は、仮設住宅で、男手ひとつで必死にふたりの子どもを育てています。津波で失った妻と子供を弔いながらの毎日です。その喪失感ときたら言いようがありません。
決して受け入れることのできない現実に、苛まれ続けています。
そして、ふと思うこともあるでしょう。(もしかしたら、同じ津波で命を落とした元彼と、向こうで一緒に暮らしているのだろうか)と。
と、同時に、遺体が見つからないのなら(どうか、生きていて欲しい)という一縷の望みも胸に抱いています。そうした深層心理がこの幻想を見せたのかもしれません。
人の死を受け入れるには時間がかかります。さまざまな障害を乗り越えなくてはなりません。知人もそうですが、震災ご遺族の『心の復興』を、ただただ願うだけです。
鴨長明が『方丈記』に記した大地震と人々の薄れゆく記憶
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