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小泉八雲『雪女』と【『遠野物語』他各地に伝わる雪女の伝承!】

一読三嘆、名著から学ぶ
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はじめに【祖父に植え付けられた「雪」への恐怖心】

 雪化粧、白銀の世界、雪の華等々―――雪に関する美しい比喩表現は数多く存在します。確かに雪はわたしたちに幻想的な世界を届けてくれます。けれどもその反面、雪は残酷なまでに人々の生活を翻弄し、ときにはかけがえのない命さえも奪ったりします。

 雪国で育ったわたしは子供の頃、そんな雪に魅了され、朝から日暮れまで、まるで憑りつかれたかのように雪遊びに熱中していました。そんなわたしに祖父は真顔で「雪女が来るぞ!」と、よく言ったものです。

 今にして思えば、強迫観念を植え付け、雪の怖さというものを教えていたのでしょう。ところが当時のわたしは雪女が実在するものと信じ、夢に見たりトイレに行けなくなったりと、相当怖がっていた記憶があります。

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小泉八雲『雪女』と【『遠野物語』他各地に伝わる雪女の伝承!】

小泉八雲(こいずみやくも)とは?

 小泉八雲(イギリス名:ラフカディオ=ハーン(Lafcadio Hearn))は、明治時代の英文学者・随筆家・小説家です。(1850-1904)

 小泉八雲はギリシアに生まれ、生後1年半でアイルランドに移り、のちに渡米して新聞記者となります。明治23(1890)年に来日し、島根県の松江中学に赴任します。同年小泉セツと結婚し、日本に帰化します。

      松江城

 その後、熊本の第五高等学校、東京帝国大学、早稲田大学の教壇に立ちます。この間、『知られざる日本の面影』『心』『仏の畑の落穂』を出版し、日本の風土と心を海外に紹介します。

 その一方、『古今(ここん)著聞集(ちょもんじゅう)』などの古典や民間説話に取材した創作集『怪談』を発表し、物語作者としての才能も発揮します。明治37(1904)年9月26日、狭心症のため死去します。(没年齢:満54歳)

   小泉八雲

小泉八雲『耳無芳一の話』と【『平家物語』安徳天皇の入水! 】

怪談『雪女』(ゆきおんな)について

 『雪女』は明治37(1904)年に出版された小泉八雲の短編集『怪談』に収録された再話作品です。ちなみに再話作品というものの『雪女』は活字形式では残っておらず、八雲は『怪談』の序文で次のように述べています。

「雪女」は、西多摩郡調布の或農夫が、その土地の伝説として、私に聞かせてくれたものである。日本の書物に出て居るか、どうか私は知らない、しかしそこに書いてある異常な信仰はたしかに日本の各地に、種々珍しい形式で存在してゐたものである。
(短編集『怪談』序文)

『雪女』YUKI-ONNAあらすじ(ネタバレ注意!)

 武蔵の国のある村に、茂作と巳之(みの)(きち)という二人の木こりが暮らしていました。茂作はすでに老いていましたが巳之吉はまだ若く十八歳の少年でした。

 あるとても寒い晩のことです。山からの帰り、吹雪に遭った二人は近くの小屋で寒さをしのぐことにしました。老人の茂作はじきに眠りにつきましたが、巳之吉は目を覚ましたまま、恐ろしい風雪の音を聞いていました。しかしそんな巳之吉も寝入ってしまいます。

 その夜巳之吉は、顔に吹き付ける雪の冷たさで目を覚まします。すると、白装束の女性が茂作に白い息を吹きかけていました。そして今度は巳之吉の方に(おお)いかぶさってきます。巳之吉は叫ぼうとしますが声を発することができません。

 女性はそのまましばらく巳之吉を見つめていましたが、「あなたは若く美しいから害することはしません。けれども、もしも今夜のことを誰かに話したら殺します。」と、言い残して、戸口から出て行きました。

 巳之吉は(夢を見ていたのかもしれない)と、思います。そこで茂作を呼んでみます。けれども返事がありません。驚いた巳之吉は茂作の顔を触ってみます。すると茂作は、―――氷のように固くなって死んでいたのでした。

 翌年の冬の晩のことです。巳之吉は家に帰る途中、偶然同じ道を旅していた一人の若い女性と出逢います。女性は大変綺麗で、名を「お雪」と言いました。巳之吉はお雪をお嫁として家に迎えます。巳之吉の母親もお雪を歓迎します。

 お雪はとてもいい嫁で、母親の最期の言葉はお雪に対する愛情と称賛の言葉でした。その後、二人の間に男女十人の子供が生まれます。ところが不思議なことに、お雪は母親になっても全く老いる様子がなく、巳之吉と出逢った時と同じように若くて美しいままだったのです。

 ある晩のことです。子供が寝た後、お雪は行灯(あんどん)の下で針仕事をしていました。その姿を見つめていた巳之吉は、「お前とそっくりで綺麗な女性を見たことがある。」と、あの雪の晩にあった出来事を、お雪に打ち明けます。

 するとお雪は、「それは私でした……。」と巳之吉に告げ、「子供たちがいなければあなたを殺すところでした。どうか子どもたちを大事してください。もしもこの先、子供達を悲しませるようなことがあったら、その時こそ私はあなたを殺しに来ますから……。」そう言い残すと、そのまま姿を消してしまいました。

青空文庫 『雪女』YUKI-ONNA 小泉八雲 訳:田部隆次
https://www.aozora.gr.jp/cards/000258/files/50326_35772.html


『遠野物語』他、各地に伝わる雪女の伝承!

『遠野物語(とおのものがたり)』とは?

 『遠野物語』は、柳田(やなぎた)国男(くにお)が明治43(1910)年に発表した、岩手県遠野地方に伝わる逸話、伝承などを記した説話集です。

 遠野地方出身の口承文学収集家、そして小説家の佐々木()(ぜん)によって語られた、遠野地方に伝わる伝承を柳田が筆記・編纂する形で出版されます。1910年6月に、自費出版として350部を刊行しますが、反響の大きさから、のちに増刊されます。

 『(のちの)(かり)詞記(ことばのき)』(1909年)、『石神(いしがみ)問答(もんどう)』(1910年)と並び、柳田の初期三部作の一作とされ、民間伝承に焦点を当てながら、聞いたままの話を編纂していること、それでいながら文学的な独特の文体であることが高く評価されています。

柳田国男(やなぎたくにお)とは?

 柳田国男は日本の民俗学者・官僚です。(1875-1962)
兵庫県に生まれ、東京帝国大学法科大学政治科(現・東京大学法学部政治学科)卒業後、明治33(1900)年、農商務省に入省し、主に東北地方の農村の実態を調査・研究をします。

 のち朝日新聞社に入り、国際連盟委任統治委員も務めます。その間、大正2(1913)年に雑誌「郷土研究」を創刊します。昭和10(1935)年には民間伝承の会(のちの日本民俗学会)を創始して、日本民俗学の確立と研究の普及に努めます。

 昭和37(1962)年8月8日、東京都世田谷区成城にある自宅にて心臓衰弱のため死去。(享年88歳)『遠野物語』をはじめとした膨大な著作は『定本柳田国男集』全36巻に収められ、日本民俗学の開拓者として、その功績は計り知ることができません。

   柳田国男

柳田国男『遠野物語』九十九話【明治三陸大津波のはなし】

『遠野物語』【雪女のはなし】

小正月の夜、または小正月ならずとも冬の満月の夜は、雪女が出でて遊ぶともいう。童子をあまた引き連れてくるといえり。里の子ども冬は近辺の丘に行き、(そりっこ)(あそ)びをして面白さのあまり夜になることあり。十五日の夜に限り、雪女が出るから早く帰れと戒めらるるは常のことなり。されど雪女を見たりという者は少なし。
(柳田国男『遠野物語』一〇三)

青空文庫 『遠野物語』 柳田国男
https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/52504_49667.html

 『遠野物語』の雪女は、小泉八雲の『雪女』のような物語的な要素はなく、雪女の設定も大きく異っています。他にも、日本各地には多くの雪女の伝承が残されています。

 青森県津軽地方には、正月の元旦、人間界に雪女が現れるといった『遠野物語』と似たはなしや、女性に「赤ん坊を抱いて下さい。」と言われ、それに応じたら赤ん坊は重くなり、断った場合はその人が死ぬといった伝えがあります。

 このように小泉八雲の『雪女』と同様に、子供と結びついた伝承が多く残されている一方で残酷な結末を迎えるものもあります。岩手県や宮城県では雪女が人間の精気を奪うとされていたり、秋田県では雪女の顔を見たり言葉を交わしたりすると食い殺されるといったはなしもあります。

 また、茨城県や福島県磐城地方では、雪女の呼びかけに対して返事をしないと谷底へ突き落とされるというものや、新潟県では子供の生き肝を抜き取ったり、人間を凍死させるといった伝承もあります。

 そして案外多いのが笑い話化されたものです。新潟県小千谷地方では、お風呂に入るのを嫌がる嫁を無理やり入れたら、その姿は消えて、あぶくになっていたという伝承です。雪国にはまだまだ多くの伝承が残されているようです。

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あとがき【『雪女』の感想を交えて】

 言うに及ばずですが、伝承というものには道徳や教訓、そして自然の脅威への畏敬等が込められています。その多くは人間が約束を破ったり罪を犯すことで、何らかの制裁が与えられるというものです。

 しかし、小泉八雲の『雪女』では、「今夜のことを誰かに話したら殺す」と、巳之吉が約束を破ったときのことを名言していたにも関わらず、結果的にお雪は巳之吉を制裁せずに、姿を消してしまいます。

 子供の頃はただただ怖い存在とばかり考えていた雪女も大人になってから触れてみると、そこには母親の子供への愛情が見てとれます。少し話題を作者に逸らしますが、八雲が七歳の時、彼の両親は離婚し、それ以降母親に会えることはなかったといいます。

 小泉八雲の研究者の中には本作品が農夫からの口承だったことから創作ではなかったのかとの意見があるようですが、伝承にしろ創作にしろ、そんなことはともかくとして、終生母親の面影を追い続けた八雲にとって『雪女』は、心を揺さぶられるような物語だったに違いありません。

 最後に、雪を甘く見てはいけません。甘く見ていると必ず「雪女」はやって来ます。

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