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芥川龍之介『舞踏会』【我々の生(ヴイ)のような花火!】

一読三嘆、名著から学ぶ
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はじめに【鹿鳴館(ろくめいかん)について】

 鹿鳴館と聞いてどのような印象をもたれているでしょうか。漠然とどこかきらびやかで優雅な、庶民とは全くかけ離れた別世界、こんな印象を持つ方がほとんどだと思います。わたし自身、映画やドラマでしか触れてこなかったこともあり同様の印象でした。

 ちなみに鹿鳴館とは、明治16(1883)年、日比谷の地(現在の帝国ホテルの隣接地)の約440坪という広大な敷地に、イギリス人建築技師ジョサイヤ・コンダーの設計で建てられたヨーロッパ式の社交場のことです。

 当時の日本は、不平等条約改正交渉、特に外国人に対する治外法権の撤廃といった外交上の課題を抱えていました。けれども数年前まで磔刑(たっけい)や打ち首の刑が執行されていた日本に対し、外国政府は治外法権撤廃に強硬に反対していたのです。

 そこで外務(がいむ)(きょう)の井上(かおる)は、先進の欧米諸国から法権回復を承認させるため、風俗習慣をヨーロッパ風に改める政策を採ります。その極端な例が鹿鳴館でした。鹿鳴館は園遊会や舞踏会の場所として使われ、政府高官とその夫人や令嬢が、外国人を接待しました。

 言うなれば鹿鳴館は文明開化の象徴でした。けれども滑稽な模倣とする見方も多く、国粋主義者たちの攻撃の標的になります。結局明治20(1887)年、井上馨が外務卿を辞すと、事実上鹿鳴館の時代は幕を閉じたのでした。

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芥川龍之介『舞踏会』【我々の生(ヴイ)のような花火!】

芥川龍之介とは?

 大正・昭和初期にかけて、多くの作品を残した小説家です。芥川龍之介(1892-1927)
芥川龍之介は、明治25(1892)年3月1日、東京市京橋区(現:東京都中央区)で牧場と牛乳業を営む新原敏三の長男として生まれます。

 しかし生後間もなく、母ふくの精神の病のために、母の実家芥川家で育てられます。(後に養子となる)学業成績は優秀で、第一高等学校文科乙類を経て、東京帝国大学英文科に進みます。

 東京帝大英文科在学中から創作を始め、短編小説『鼻』が夏目漱石から絶賛されます。今昔物語などから材を取った王朝もの『羅生門』『芋粥』『藪の中』、中国の説話によった童話『杜子春』などを次々と発表し、大正文壇の寵児となっていきます。

   夏目漱石

夏目漱石『夢十夜』【夢は本当に深層心理と関係があるのか?】
夏目漱石の『こころ』を読み【真の贖罪とは何かを考える!】

 本格的な作家活動に入るのは、大正7(1918)年に大阪毎日新聞の社員になってからで、この頃に塚本文子と結婚し新居を構えます。その後、大正10(1921)年に仕事で中国の北京を訪れた頃から病気がちになっていきます。

 また、神経も病み、睡眠薬を服用するようになっていきます。昭和2(1927)年7月24日未明、遺書といくつかの作品を残し、芥川龍之介は大量の睡眠薬を飲んで自殺をしてしまいます。(享年35歳)

   芥川龍之介

芥川龍之介【他の作品】

芥川龍之介『蜘蛛の糸』と蓮の池散策【お釈迦様真実の教え!】
芥川龍之介『杜子春』に学ぶ人生観【人間らしく正直に生きる!】
芥川龍之介『芋粥』から学ぶ【人間的欲望の本質!!】
芥川龍之介『おぎん』【キリシタン達が信仰に求めたものとは?】
芥川龍之介『羅生門』【「生か死か」二者択一の選択!】
芥川龍之介『捨児』【たとえ血が繋がっていなくとも!】
芥川龍之介『トロッコ』【「憧れ・喜び」が「不安・恐怖」へ!】

短編小説『舞踏会』(ぶとうかい)について

 『舞踏会』は芥川龍之介の短編小説で、大正9(1920)年、雑誌『新潮』新年号に掲載されました。翌大正10(1921)年には新潮社刊行の『夜来の花』に収録されますが、最後の老夫人と青年小説家の対話の部分は改稿されています。

 本作品はピエール・ロティの著『秋の日本』の中の一章「江戸の舞踏会」が下敷きになっています。作家仲間からの評価も高く、三島由紀夫は「美しい音楽的な短編小説だ。」と述べています。

ピエール・ロティ(Pierre Loti)とは?

 ピエール・ロティ

 ピエール・ロティ(本名:ルイ・マリー=ジュリアン・ヴィオー)は、フランス・ロシュフォール生まれの小説家です。(1850―1923)

 ブレストの海軍兵学校を出た後、海軍士官として世界各地を歴航するかたわら、官能的で異国情緒豊かな小説や紀行を書きます。1885年と1900年の二回日本にも滞在し、『お菊さん』『秋の日本』『お梅が三度目の春』等を発表します。

 しかしロティは『お菊さん』の冒頭部分で日本人について「何と醜く、卑しく、また何とグロテスクなことだろう。」と書いていることから、日本人に対して明らかに差別意識を抱いていたことは確かだったでしょう。

『舞踏会』あらすじ(ネタバレ注意!)

 明治19(1886)年11月3日の夜、さる名門の令嬢明子(あきこ)は、父親と一緒に生まれて初めての舞踏会に出かけました。その舞台というのは鹿鳴館(ろくめいかん)です。17歳の明子は、この日のために、フランス語と舞踏の教育を受けてきたのです。

 初々しい薔薇色の舞踏服を身に着けた明子の美しさに、会場の誰もが驚き、見とれていました。舞踏室の中は、菊の花が美しく咲き乱れています。すると、見知らぬフランスの海軍将校が歩み寄り、明子に踊りを申し込みました。

 明子と将校は、ワルツやポルカを踊り続けます。踊りの後二人は、アイスクリームを味わいました。そのときドイツ人らしき若い女性が二人の傍を通ります。明子はフランス語で「西洋の女の方は本当に御美(おうつく)しゅうございます。」と、言いました。

 けれども将校は、その言葉に首を振り、「日本の女の方も美しいです、特にあなたは。」と、明子を褒め讃えます。そして、「パリの舞踏会を見てみたい。」と、告白する明子に対して将校は、「舞踏会はどこでも皆同じです。」と、独り言のように呟いたのでした。

 一時間後、明子と将校は腕を組んだまま、舞踏室の外にあるバルコニーに佇んでいました。けれども将校は、黙って夜空を見ているだけで、どこか寂しげな表情をたたえています。そんな将校に明子は、「お国のことを思っているのでしょう?」と、訊ねてみました。

 将校が再び首を振り、「何だか当てて御覧(ごらん)なさい。」と、言ったそのときでした。
―――風のざわめくような音とともに、夜空に赤と青の花火が上がります。
明子はその花火を、悲しいほどに美しく感じます。

 そんな明子の顔を見下ろしながら将校は優しく、「私は花火の事を考えていたのです。我々の生(ヴイ)のような花火の事を。」と、教えるように言ったのでした。


 大正7(1918)年の秋のことです。ある青年小説家が、今ではH老夫人となっていた明子と汽車で乗り合わせます。青年はそのとき知人に贈る菊の花束を持っていました。すると老夫人は、菊の花を見るたびに思い出すという舞踏会の話を青年に聞かせます。

 青年が老夫人に海軍将校の名前を尋ねると、「Julien Viaudと(おっしゃ)る方です。」と、告げました。青年は、「あの『お菊夫人』を書いたピエール・ロティだったのでございますね。」と興奮ぎみに問い返します。

 ところが、将校の筆名を知らない老夫人は、「いえ、ジュリアン・ヴイオと仰有る方でございますよ。」と、不思議そうに答えたのでした。

青空文庫 『舞踏会』 芥川龍之介
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/28_15270.html


『舞踏会』【解説と個人的な解釈】

 『舞踏会』は二部構成になっています。第一部はヒロインの明子が始めて鹿鳴館の舞踏会に登場し、人々の注目を集めて活躍する場面、そして第二部は舞踏会からの約三十年後、汽車の中で青年小説家に昔話を語って聞かせる場面です。

 明子は、西欧文化の摂取の一端を担うべく育てられてきた令嬢です。ですから鹿鳴館の舞踏会に対する憧れ、果ては西欧文化への憧れというものは相当にあったでしょう。それが「パリの舞踏会を見てみたい。」といった発言に繋がります。

 一方で海を渡り、諸国の文化に接してきたフランス人海軍将校にとって「舞踏会」は日常です。明子にとっては華やかな舞台も、将校の精神を満足させるものではありませんでした。ですから「舞踏会はどこでも皆同じです。」と、返すのです。

 このような二人の間の温度差は第一部のクライマックス、花火の場面にも反映されています。明子にとって花火は未来への希望の如く夜空に輝いています。けれども将校にとっての花火は、一瞬で消えゆくもの、つまりは人生の儚さを暗示しているかのように映るのです。

 それもその筈です。軍人として絶えず戦争の中に身を置き、明日の我が命すら分からないのですから。このとき明子はまだ若く、将校の言っている意味が飲み込めなかったでしょう。けれどもそれから約三十年後、ある程度の人生を重ねた明子が第二部に登場します。

 老夫人となった明子が汽車の中で、「舞踏会」での出来事を青年小説家に聞かせるのですが、ここでもまた明子と青年小説家との間で温度差が生じます。青年は著名な人物と踊った事実に興奮し、明子は甘美な思い出のほうに価値を見出しています。

 あくまで明子にとって将校は、著名な人物になる以前の「舞踏会」で出会ったひとりの人間でしかありません。物語の最後で明子は、将校の筆名を知らず「いえ、ジュリアン・ヴイオと仰有る方でございますよ。」と、不思議そうに答えます。

 けれども、わたし個人としては、明子は、百も承知であえて否定したものと考えます。それは人生の儚さというものを理解できるようになったからでしょう。明子にとって「舞踏会」といった美しい追憶も花火のようであり一瞬の輝きだったからです。誰もが花火のその後を考えないように。

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あとがき【『舞踏会』の感想を交えて】

 鹿鳴館時代―――つい四半世紀前まで刀を振りかざし「攘夷だ!」と叫んでいた人たちが一斉に、燕尾服(えんびふく)に身を包み西欧のダンスを踊っていたのですから、大衆の眼にその姿は、よほど滑稽なものに映ったことでしょう。

 ピエール・ロティも、『江戸の舞踏会』(『秋の日本』)の中で鹿鳴館を「さてこれは美しいものではない、(中略)ヨーロッパ風の建築だが、わが国のどこかの保養地にあるカジノみたいだ。」と記し、日本の紳士や官吏たちに至っては「猿にそっくりだ。」と、その言葉は辛辣をきわめています。

 しかしこれは外国人による客観的な視点でしかなく、一方の主催者側である日本人の視点を欠いています。そこで芥川は、明子というヒロインの視点を通し、「舞踏会」を描きます。

 「舞踏会」に臨むため、明子はフランス語やダンスの習得など、涙ぐましい努力を続けてきました。これはロティが揶揄する紳士や官吏にも共通して言えることです。西欧諸国に追いつくため考えられるひとつの手段だったのです。

 そう考えると、ひとえに滑稽とは言えなくなります。むしろ、いじらしくさえ思えてきます。―――鹿鳴館こそが文明開化における打ち上げ花火だったのです。そして老夫人にとっても忘れられぬ(まばゆ)い閃光だったのでしょう。

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