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菊池寛『芥川の事ども』要約と解説【天才ゆえの苦悩!】

一読三嘆、名著から学ぶ
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はじめに【著名人の自死について】

 著名人の自死が相次いでいた頃、わたしも仕事関係の人間がふたり続けて亡くなったり(ひとりは病死・ひとりは自殺)、または親友(相手はどう思っていたか知らないが)の三回忌法要に出席したりと、人間の死について多くの事を考えらされました。

 太宰治『善蔵を思う』そしてわたしは、亡き友人を思う。

 著名人の自死に第三者は「成功者なのに勿体ないね」とか、「お金に不自由してないはずなのにどうして死を選ぶのか」などと口々に言ったりします。傍から見て、幸せそうな人生を歩んでいそうな人間にも、苦しみはあるのです。

 成功者、そして有名人になるということは、その一挙手一投足(いっきょしゅいっとうそく)が、常に世間一般から注目されるということです。そのストレスたるや半端なものではないでしょう。

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菊池寛『芥川の事ども』要約と解説【天才ゆえの苦悩!】

菊池寛とは?

 明治から昭和初期にかけて活躍した小説家、劇作家です。菊池(かん)。(1888~1948)
菊池寛(本名・菊池(ひろし))は明治21(1888)年12月26日、香川県高松市に生まれます。明治43(1910)年に名門、第一高等学校文科に入学します。

 第一高等学校の同級に芥川龍之介、久米正雄、山本有三らがいましたが、諸事情により退学してしまいます。結局、紆余曲折の末に京都帝国大学文学部に入学し、在学中に一校時代の友人、芥川らの同人誌『新思潮』に参加します。

 大正5(1916)年、京都大学を卒業後、「時事新報」の記者を勤めながら創作活動を始め、『(ただ)(なお)(きょう)行状記』『恩讐の彼方に』『藤十郎の恋』等の短編小説を発表します。大正9(1920)年、新聞小説『真珠夫人』が評判となり、作家としての地位を確立していきます。

 大正12(1923)年、『文藝春秋』を創刊し、出版社の経営をする他にも文芸家協会会長等を務めます。昭和10(1935)年、新人作家を顕彰(けんしょう)する「芥川龍之介賞」「直木三十五賞」を設立します。

 しかし、終戦後の昭和22(1947)年、菊池寛は、GHQから公職追放の指令が下されます。日本の「侵略戦争」に『文藝春秋』が指導的立場をとったというのが理由でした。その翌年の昭和23(1948)年3月6日、狭心症を起こして急死してしまいます。(没年齢・59歳)

    菊池寛

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芥川龍之介とは?

 大正・昭和初期にかけて、多くの作品を残した小説家です。芥川龍之介(1892~1927)
東京市京橋区(現・東京都中央区)に生まれ、東京帝大英文科在学中から創作を始めます。短編小説『鼻』が夏目漱石から絶賛され、本格的に作家の道を歩き出します。

 その後今昔物語などから材を取った王朝もの『羅生門』『芋粥』『藪の中』、中国の説話によった童話『杜子春』などを次々と発表し、大正文壇の寵児となっていきます。



 大正10(1921)年に仕事で中国の北京を訪れた頃から病気がちになっていき、神経も病み、睡眠薬を服用するようになっていきます。昭和2(1927)年7月24日、芥川龍之介は大量の睡眠薬を飲んで自殺をしてしまいます。(没年齢・35歳。)

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『芥川の事ども』要約(ネタバレ注意!)

   芥川龍之介

 菊池寛が親友芥川龍之介の死に際して、苦しきその思い、そして思い出の数々を綴った作品です。そこには死を未だ受け入れられずにいる菊池の苦悩が見え隠れしています。

 文章の冒頭が 「芥川の死について、いろいろな事が、書けそうで、そのくせ書き出してみると、何も書けない」。で始まっていますが、それは紛れもない本音でしょう。

 死因については「結局、芥川自身が、言っているように主なる原因は “ ボンヤリした不安 ” であろう」。と、語っています。そして、神経衰弱からくるさまざまな病苦や、絶えなかった世俗的な苦労が彼の絶望的な人生観を深くしていったのだと。

 世俗的な苦労について菊池は一例をあげています。
それは百二、三十人の文人の作品を載せた『近代日本文芸読本』という文芸本を芥川自らが編集し、出版したことで、「我々貧乏な作家の作品を集めて、一人で儲けるとはけしからん。」などと、不平をこぼす作家が多くいたことでした。



 しかし実際の本は売れず、(いわ)れもない妄説に、芥川は苦しみ、結局は「三越の十円切手か何かを、各作家の許にもれなく贈ったらしい」と菊池は語っています。そして「彼の潔癖性は、こうせずにはいられなかったのだ。」と・・・。

 この作品で菊池は、芥川との交遊秘話や自分宛の遺書の存在を明かし、「僕のもっとも、遺憾に思うことは、芥川の死ぬ前に、一カ月以上彼と会っていないことである。」と、酷く後悔をしています。



 そして、作家としての芥川について、「古き和漢の伝統および趣味と欧州の学問趣味とを一身に備えた意味において、過渡期の日本における代表的な作家だろう。我々の次の時代においては、和漢の正統な伝統と趣味とが文芸に現われることなどは絶無であろうから。」と、と最大級の賛辞を贈っています。

 作品の末尾はそのまま紹介します。芥川を最も良く知る菊池の思いが込められているような気がするからです。

 なお、ちょっと付言しておくが、彼の最近の文章の一節に「何人をも許し、何人よりも許されんことを望む」という一節があった。文壇人およびその他の人で故人に多少とも隔意の人があったならば、故人のこの気持ちを掬んで、この際釈然としてもらいたいと思う

青空文庫 『芥川の事ども』 菊池寛
https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/1340_19832.html

『芥川の事ども』【解説】

菊池寛・芥川龍之介、ふたりの関係性

 菊池寛と芥川龍之介の両者は、当時のエリートの代名詞とも呼ばれた、第一高等学校(現在の東京大学教養学部および、千葉大学医学部、同薬学部の前身となった旧制高等学校)の同期です。



 菊池は京大、芥川は東大と、大学こそは違いますが旧友の(よしみ)とやらで、同じく同期の久米正雄らと同人誌『新思潮』を刊行するなどして、交友を深めていきます。その関係性は、後にふたりが人気作家となっても続きますが、残念ながら芥川の死をもって突如終わりを迎えます。

 芥川の葬儀のときに菊池は、弔辞を読みながら号泣したという逸話が残されています。そんな芥川に対する友情は『芥川龍之介賞』という文学賞を設立したことでも窺い知ることができるでしょう。

 反対に、芥川龍之介はエッセイ『兄貴のような心持』で、菊池寛氏の印象についてこう書いています。

 「現に今日まで度々自分は自分よりも自分の身になって、菊池に自分の問題を考えて貰った。それ程自分に兄貴らしい心もちを起させる人間は、今の所天下に菊池寛の外は一人もいない」。

青空文庫 『兄貴のような心持――菊池寛氏の印象――』 芥川龍之介
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/43361_17877.html

「死」の直前の芥川の行動

 大正10(1921)年、芥川龍之介は海外視察員として中国を訪れます。この旅行後から芥川は心身を病むようになっていきます。そして昭和2(1927)年7月24日、自ら「死」を選ぶわけですが、自死を決行する前に何人かの親しい知人を訪ねていたことが明らかになっています。

 7月の始め、菊池寛に会うために二度文藝春秋を訪ねていますが、菊池が不在で会うことができませんでした。また、「死」の前日には近所の室生(むろう)(さい)(せい)宅を訪問しています。しかしこの時も犀星は留守で会うことができませんでした。

 犀星は晩年まで、「もし私が外出しなかったら、芥川くんの話を聞き、自殺を思いとどまらせたかった」と心から悔やんでいたといいます。

   室生犀星
考えられる「自死」の理由。

 自死の理由として菊池寛が『芥川の事ども』の中で触れている “ 近代日本文芸読本騒動 ” の他、義兄の自殺を発端とする “ 借金問題 ” や、“ 文壇内での論争 ” 等々が上げられますが、これらの心痛が自身の病苦と重なって自殺を早めたのではないかと考えられています。

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あとがき【『芥川の事ども』の感想を交えて】

   久米正雄

 芥川龍之介は菊池と同じく旧友の久米正雄にも遺書を残しています。
「僕はこの二年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた。(中略)…僕は内心自殺することに定め、あらゆる機会を利用してこの薬品を手に入れようとした」と。

 二年ものあいだ、死を考え続けていたのですから、芥川の決心は固かったことでしょう。
しかし、この菊池の作品のように、残された人間はいつまでも後悔をし続けます。その後悔の念は生前に親しかったものほど深いのです。

 自死の場合、周りの人間全てが「一言でも相談をしてくれていたら」と、思うものです。
特に著名人の死は、自分の周りだけではなく世間に及ぼす影響が大きいのです。現に芥川の自殺報道後、若者たちの後追い自殺が相次ぎます。

 総じて、心の優しい人、繊細な人、生きるのに真面目な人ほど、自ら死を選ぶように思います。それっておかしくないですか?そんな人は生きるべきです。必ず誰かが手を差し伸べてくれます。

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