スポンサーリンク

坂口安吾『不良少年とキリスト』要約【桜桃忌に読みたい作品③!】

一読三嘆、名著から学ぶ
スポンサーリンク
スポンサーリンク

はじめに【何度も神経衰弱に悩まされていた坂口安吾】

 誰かの「死」に直面したとき、人の「心」は不安定になるものです。それは近親者のときばかりとは限りません。例えば憧れの芸能人や文化人、スポーツ選手など、間接的に影響を受けた人でも同様です。

 作家・坂口安吾もまた、多くの人の「死」に直面するたびに、神経衰弱に悩まされました。若き頃より「心」のバランスを崩すことの多かった坂口ですが、昭和2(1927)年の芥川龍之介の自殺はさらに神経衰弱に拍車をかけます。一時期は自殺欲に(さいな)まれたと言います。

 その後、友人の「死」に遭遇する度に、坂口は神経衰弱に陥るようになっていきます。また人気作家となり多忙を極めるようになった坂口はヒロポン等の薬物を服用するようになります。そして昭和23(1948)年6月、―――太宰治が入水自殺をします。

 太宰の自殺がきっかけだったかは定かではありませんが、ちょうどこの頃から、坂口は鬱病(うつびょう)的精神状態に陥ります。坂口もこれを克服しようと努めましたが、病状は更に悪化し、幻聴、幻視も生じるようになりました。

 そして翌昭和24(1949)年2月、東京大学医学部附属病院神経科に入院します。そんな神経衰弱に悩まされ続けていた坂口だからこそ、太宰の弱い部分を良く知っていたのかも知れません。坂口は太宰の「死」について『不良少年とキリスト』に記しています。

豊島与志雄『太宰治との一日』要約【桜桃忌に読みたい作品①!】
佐藤春夫『稀有の文才』要約【桜桃忌に読みたい作品②!】
井伏鱒二『太宰治のこと』要約【桜桃忌に読みたい作品④!】

※ヒロポン(Philopon)
覚醒剤、塩酸メタンフェタミンの日本での商標名。大脳に対する強い興奮作用がある。乱用すると、不眠・興奮・幻覚などの中毒症状が現われる。ちなみに昭和26(1951)年、覚せい剤取締法の施行に伴い、使用・所持が厳禁されている。

出典:精選版 日本国語大辞典
スポンサーリンク

坂口安吾『不良少年とキリスト』要約【桜桃忌に読みたい作品③!】

坂口安吾(さかぐちあんご)とは?

 昭和の戦前・戦後にかけて活躍した小説家です。(1906―1955)
坂口安吾(本名は炳五(へいご))は明治39(1906)年10月20日、衆議院議員の父・坂口仁一郎の五男として新潟市に生まれます。

 昭和5(1930)年、東洋大学を卒業した安吾は、同人誌『言葉』を創刊し、翌年に処女作『木枯の酒倉から』を発表します。その後発表した『風博士』を牧野信一が、『黒谷村』を島崎藤村、宇野浩二がそれぞれ激賞し、一躍新進作家として文壇に注目されます。

   島崎藤村

 昭和7(1932)年、女流作家・矢田()世子(せこ)と激しいプラトニック・ラブに陥り、苦しみ抜いた末に別れを決断します。その恋愛模様は昭和13(1938)年、長編小説『吹雪物語』となって結実します。

 戦後の昭和21(1946)年に発表した『堕落論』は、人間の本質を洞察した作品として、敗戦に打ちのめされていた多くの日本人に影響を与えます。続いて発表した『白痴(はくち)』も大きな反響を呼び、一躍人気作家となっていきます。

 人気作家となった安吾は、太宰治、織田作之助、石川淳らとともに「新戯作派」「無頼派」と呼ばれ、時代の寵児となり注目される一方で、「痴情作家」とも呼ばれます。昭和22(1947)年、名作『桜の森の満開の下』を発表します。

 (かじ)三千代と結婚してからも、純文学のみならず、歴史小説や推理小説等を精力的に書き続けます。昭和30(1955)年2月15日、『狂人遺書』を残し、脳出血により死去してしまいます。(没年齢:48歳)

   坂口安吾

坂口安吾『桜の森の満開の下』あらすじと解説【執着の果ては孤独!】
坂口安吾『文学のふるさと』要約と解説【救いがないのが救い!】

太宰治(だざいおさむ)とは?

 昭和の戦前戦後にかけて、多くの作品を残した小説家です。本名・津島修治。(1909-1948)
太宰治は、明治42(1909)年6月19日、青森県金木村(現:五所川原市金木町)の大地主の家に生まれます。

 青森中学、弘前(ひろさき)高校を経て東京帝国大学仏文科に進みますが後に中退します。この頃、井伏鱒二(いぶせますじ)に弟子入りをし、本格的な創作活動を始めました。しかし、在学中から非合法運動に関係したり、薬物中毒になったり、または心中事件を起こすなど、私的なトラブルは後を絶ちませんでした。

  井伏鱒二(晩年)

井伏鱒二『山椒魚』【時代に取り残された者の悲鳴!】

 一方、創作のほうでは『逆行』が第一回芥川賞の次席となるなど、人気作家への階段を上り始めます。1939年、井伏鱒二の世話で石原美知子と結婚し、一時期は平穏な時間を過ごし『富嶽百景』『走れメロス』『駆込(かけこ)(うった)へ』など多くの佳作を書きます。

 戦後、『斜陽』で一躍、流行作家となりますが、遺作『人間失格』を残して、昭和23(1948)年6月13日、山崎富栄と玉川上水で入水自殺をします。(享年38歳)ちなみに、玉川上水で遺体が発見された6月 19日(誕生日でもある)を命日に、桜桃忌(おうとうき)が営まれています。

    太宰治

太宰治『桜桃』【「子供より親が大事と思いたい」の真意!】

山崎富栄(やまざきとみえ)とは?

 山崎富栄は、大正8(1919)年9月24日、東京府東京市本郷区(現:東京都文京区本郷)に生まれます。昭和19(1944)年、三井物産の社員・奥名修一と結婚しますが、夫はマニラに単身赴任中に現地召集され、戦線で行方不明になります。

 戦後の昭和22(1947)年3月、美容室に勤めていた富栄は太宰治と知り合い、日記に「戦闘開始!覚悟をしなければならない。私は先生を敬愛する。」と記します。5月3日、太宰から「死ぬ気で恋愛してみないか?」と、交際を持ちかけられます。

 翌昭和23(1948)年6月13日、いつしか太宰の秘書兼愛人の立場になっていた富栄は、太宰とともに玉川上水に入水自殺します。(没年齢:28歳)現場に残された6冊のノートをもとに、平成7(1995)年、『太宰治との愛と死のノート』が出版されます。

   山崎富栄

青空文庫 『雨の玉川心中-太宰治との愛と死のノート』 山崎富栄
https://www.aozora.gr.jp/cards/001777/files/56258_61595.html

『不良少年とキリスト』あらすじ(ネタバレ注意!)

 歯痛に悩まされていた「私」(坂口安吾)は、横になっているしかないので、太宰治の小説を読み返していました。そんなとき友人の(だん)一雄(かずお)が訪れて「太宰が死にましたね。」と、言います。そして檀は「またイタズラしましたね。」と、太宰が死んだ日が十三日で、太宰にまつわる十三の数字をズラリと並べました。

 太宰の死は、誰よりも早く「私」が知ったのです。新聞に出ないうちに新潮の記者が知らせに来たのでした。それを聞いた「私」は、ただちに置手紙を残して行方をくらまします。新聞や雑誌が取材に来ると思ったからでした。

 けれどもこれが間違いで、新聞記者は怪しみます。太宰の自殺が狂言で「私」が二人をかくまっていると思ったのでした。「私」は(新聞記者の勘違いが本当だったら良かった)と思います。そして、―――(狂言自殺をたくらむだけのイタズラができたら、太宰の文学はもっと(すぐ)れたものになったろう)と、残念に思うのでした。

 「私」は、芥川龍之介の死を引き合いに出して、芥川も太宰も肉体の虚弱(芥川は梅毒、太宰は肺病)が自殺の一因になったのだろう。と、考えます。そして「太宰はM・C(マイ・コメディアン)を自称しながらコメディアンになりきることができなかった。と、述べます。

 「私」は、太宰の作品の中で、『斜陽』が最もすぐれているが、十年前の『魚服記』を、(これぞマイ・コメディアンの作品)と、賞賛し、太宰が晩年に書いた『父』や『桜桃』を、苦しく、「フツカヨイ的な文学」だと述べます。そして結局、「フツカヨイ的に死んでしまった。」と考えます。

 同時に「フツカヨイをとり去れば、太宰は健全にして整然たる常識人。」だったと述べます。『斜陽』の言葉づかいについて志賀直哉に攻撃されたとき、太宰は「フツカヨイ的に逆上し、反撃をした」とし、それは(名門にこだわっているからだ)と、「私」は考えます。

          斜陽館

 そして、芥川や太宰の文学を「心理通、人間通の作品で、思想性は殆どない。」と述べ、「本来孤独の文学で、現世的、ファン的なものとツナガルところはない筈であるのに、舞台の上のM・Cになりきる強靭さが欠けていて、その弱さを現世的におぎなうようになったのだろう。」とし、「結局は、それが、彼らを、死に追いやった。」と、分析します。

 「私」は、太宰の「死」の理由に、肉体の虚弱の他、もう一つ “ 酒 ” もあったと考えます。そして太宰は「人間に失格した。」と思い込んで「死」に及んだと述べます。けれども「太宰は、人間に失格しては、いない。小説が書けなくなったわけでもなく、一時的に、M・Cになりきる力が衰えただけのことだ。」と、断言します。

 「私」は、太宰の遺書に触れて、酩酊(めいてい)状態であったとし、サッちゃん(山崎富栄)の遺書については酔った形跡のないことから「太宰がメチャメチャ酔って、言いだして、サッちゃんが、それを決定的にしたのであろう。」と、推測します。そして、太宰の死に近い頃の文章が「フツカヨイ的であっても、現世を相手のM・Cであったことは、たしかだ。」と述べます。

 一方で『如是我聞(にょぜがもん)』については「M・Cは、殆どいない。」とし、「宮様が、身につまされて愛読した、それだけでいいではないか。」と、太宰が志賀直哉にくってかかったことについて、「日頃のM・Cのすぐれた技術を忘れると、彼は通俗そのものである。それでいいのだ。通俗で、常識的でなくて、どうして小説が書けようぞ。と、擁護します。

 続けて、「太宰は通俗、常識のまっとうな典型的人間でありながら、ついに、その自覚をもつことができなかった。」と考察し、「四十になっても、まだ不良少年で、不良青年にも、不良老年にもなれない男であった。不良少年は負けたくないのである。と、述べます。

 そして、「芥川も、太宰も、不良少年の自殺であった。」と考えた「私」は、その理由を芥川も、太宰も、キリストをひきあいに出した。弱虫の泣き虫小僧の不良少年の手である。」と、論じます。

 「私」は、「死ぬ、とか、自殺、とか、くだらぬことだ。」と述べ、「人間は生きることが、全部である。いつでも、死ねる。そんな、つまらんことをやるな。」と、芥川と太宰の「死」を全否定します。とは言いつつも、「然し、生きていると、疲れるね。」と、自分の弱さを吐露(とろ)します。

 けれども「私」は、「是が非でも、生きる時間を、生きぬくよ。」と、強い決意を述べ、学問とは、限度の発見にある。」とし、「原子バクダンを発見するのは、学問じゃないのです。子供の遊びです。これをコントロールし、適度に利用し、戦争などせず、平和な秩序を考え、そういう限度を発見するのが、学問なんです。」と、その論説は戦争論にまで及びます。

―以下原文通り―
 自殺は、学問じゃないよ。子供の遊びです。はじめから、まず、限度を知っていることが、必要なのだ。
 私はこの戦争のおかげで、原子バクダンは学問じゃない、子供の遊びは学問じゃない、戦争も学問じゃない、ということを教えられた。大ゲサなものを、買いかぶっていたのだ。
 学問は、限度の発見だ。私は、そのために戦う。

青空文庫 『不良少年とキリスト』 坂口安吾
https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42840_24908.html

スポンサーリンク

あとがき【『不良少年とキリスト』の感想を交えて】

 「コメディアン」という言葉を辞書で引くと、「喜劇やこっけいな芸を演じる役者。」と、出てきます。確かに太宰は読者の前で「コメディアン」であり続けました。けれども坂口安吾の指摘のとおり、役者としてではなく、太宰治自身を演じるようになっていったのです。

 作品に対する太宰本来の常識的な「正直さ」とでも言えましょうか。それと忍び寄る肺病による「死」。この二つの苦しみが相まったとき、太宰は「酒」に逃げ、坂口の言葉を借りると「フツカヨイ的」になるざるを得なくなったのでしょう。

 坂口は芥川や太宰を「強靭さが欠けていた」と言っていますが、人間は本来弱い生き物です。坂口自身も自分の弱さを認め、それでも「生きなければならぬ」と、二人の「死」を否定します。

 けれども思うのですが、今もなお太宰の作品が読まれ続けているのは、太宰治という「コメディアン」を演じたからだとわたしは考えます。それは読者に対し、噓偽りのない姿を見せようとした常識人としての姿だったからです。

 とは言え、それはあくまで天才の不良少年のことで、わたしのような凡人は坂口の言うとおり「人間は生きることが、全部である。いつでも、死ねる。そんな、つまらんことをやるな。」―――なのです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました