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佐藤春夫『稀有の文才』【「桜桃忌」に読みたい作品②!】

一読三嘆、名著から学ぶ
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はじめに【太宰治「芥川賞」への執着!】

 昭和10(1935)年、第1回芥川龍之介賞(芥川賞)が創設され、太宰治の『逆行』が候補となります。しかし選考委員の一人、川端康成から「作者、目下の生活に(いや)な雲あり」と評され、落選してしまいます。

 太宰もまたこの批評に対し、「私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思いをした。小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。そうも思った。」と、川端を批判する文章を発表します。

 そんな太宰が救いを求めたのが、同じく選考委員の一人であり、太宰の理解者でもあった佐藤春夫でした。太宰は第2回芥川賞選考の前、佐藤に何度も嘆願の手紙を送ります。

 その内容は、「こんどの芥川賞も私のまえを素通りするようでございましたなら、私は再び五里霧中にさまよわなければなりません。私を助けて下さい。佐藤さん、私を忘れないで下さい。私を見殺しにしないで下さい。」といった切実なものです。

 結局、第2回芥川賞は該当作品なしとなり、それは二人の関係性にしこりを残します。けれども佐藤は、太宰の理解者であり続けたと言えます。『稀有の文才』と、その才能を認めていたのですから。

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佐藤春夫『稀有の文才』【「桜桃忌」に読みたい作品②!】

佐藤春夫(さとうはるお)とは?

 明治末期から昭和まで活動した詩人、小説家、評論家です。(1892―1964)
佐藤春夫は、和歌山県東牟婁(むろ)郡新宮町(現:新宮市)の医師の家に生まれます。父は正岡子規に私淑(ししゅく)した文人で、佐藤春夫も早くから文学書を耽読(たんどく)します。

 明治43(1910)年、新宮中学を卒業した佐藤は、上京して生田(いくた)長江(ちょうこう)や与謝野(ひろし)(てっ)(かん))の教えを受けます。その後、慶応義塾大学文学部予科に入学し、当時教授だった永井(ながい)荷風(かふう)に学びます。

   永井荷風

永井荷風『にぎり飯』【めぐり逢いは絶望を過去へと押し流す!】

 大正2(1913)年、慶應義塾大学文学部を中退します。一時期油絵に興味をもち、「二科展」に入選したりしていましたが大正8(1919)年、『田園の憂鬱(ゆううつ)』を発表し、新進作家としての地位を確立します。

 私生活では神経衰弱に陥ったり、谷崎潤一郎の妻・千代子と恋愛し三角関係になったりしますが、一方で小説『()太白(たいはく)』『お絹とその兄弟』『美しい町』『都会の憂鬱』や詩集『殉情詩集』、随筆『退屈読本』などを発表し、小説家、詩人として広く認められます。

 戦時中は文士部隊として中支戦線に従軍します。戦後も評論集『近代日本文学の展望』や、『晶子(あきこ)曼陀羅(まんだら)』『小説智恵子(ちえこ)抄』など数多くの小説を発表しますが、昭和39(1964)年5月6日、心筋梗塞を起こし死去します。(没年齢:72歳)

   佐藤春夫

太宰治(だざいおさむ)とは?

 昭和の戦前戦後にかけて、多くの作品を残した小説家です。本名・津島修治。(1909-1948)
太宰治は、明治42(1909)年6月19日、青森県金木村(現:五所川原市金木町)の大地主の家に生まれます。

 青森中学、弘前(ひろさき)高校を経て東京帝国大学仏文科に進みますが後に中退します。この頃、井伏鱒二(いぶせますじ)に弟子入りをし、本格的な創作活動を始めました。しかし、在学中から非合法運動に関係したり、薬物中毒になったり、または心中事件を起こすなど、私的なトラブルは後を絶ちませんでした。

   井伏鱒二

井伏鱒二『山椒魚』【時代に取り残された者の悲鳴!】

 一方、創作のほうでは『逆行』が第一回芥川賞の次席となるなど、人気作家への階段を上り始めます。1939年、井伏鱒二の世話で石原美知子と結婚し、一時期は平穏な時間を過ごし『富嶽百景』『走れメロス』『駆込(かけこ)(うった)へ』など多くの佳作を書きます。

 戦後、『斜陽』で一躍、流行作家となりますが、遺作『人間失格』を残して、昭和23(1948)年6月13日、山崎富栄と玉川上水で入水自殺をします。(享年38歳)ちなみに、玉川上水で遺体が発見された6月 19日(誕生日でもある)を命日に、桜桃忌(おうとうき)が営まれています。

    太宰治

太宰治『桜桃』【「子供より親が大事と思いたい」の真意!】

山崎富栄(やまざきとみえ)とは?

 山崎富栄は、大正8(1919)年9月24日、東京府東京市本郷区(現:東京都文京区本郷)に生まれます。昭和19(1944)年、三井物産の社員・奥名修一と結婚しますが、夫はマニラに単身赴任中に現地召集され、戦線で行方不明になります。

 戦後の昭和22(1947)年3月、美容室に勤めていた富栄は太宰治と知り合い、日記に「戦闘開始!覚悟をしなければならない。私は先生を敬愛する。」と記します。5月3日、太宰から「死ぬ気で恋愛してみないか?」と、交際を持ちかけられます。

 翌昭和23(1948)年6月13日、いつしか太宰の秘書兼愛人の立場になっていた富栄は、太宰とともに玉川上水に入水自殺します。(没年齢:28歳)現場に残された6冊のノートをもとに、平成7(1995)年、『太宰治との愛と死のノート』が出版されます。

   山崎富栄

青空文庫 『雨の玉川心中-太宰治との愛と死のノート』 山崎富栄
https://www.aozora.gr.jp/cards/001777/files/56258_61595.html

『稀有の文才』(けうのぶんさい)【あらまし】

 『稀有の文才』の冒頭で佐藤は、芥川賞について触れています。

芥川賞の季節になるといつも太宰治を思い出す。彼が執念深く賞を貰いたがったのが忘れられないからである。事のてんまつは一度書いた事もある。

 この一度書いた事もあるというのは『或る文学青年像』(原題:芥川賞 憤怒こそ愛の極点)のことです。これは太宰治が小説『創生記』にて、佐藤が太宰に芥川賞が欲しいかどうかを問うため「ハナシアルスグコイ」と、電報で呼び出したと書いたことに端を発しています。

青空文庫 『創生記』 太宰治
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2279_15070.html

 佐藤は『或る文学青年像』で「作者の妄想にしか過ぎない」と言い、電報で「ハナシアルスグコイ」と、呼び出したことが事実だが、それは芥川賞についてではなく、佐藤が紹介した出版社と太宰との間に、契約上の問題が有り、それを(たしな)めるためだったと語っています。

 このとき太宰は、「われ等不変の敬愛、信ぜよ。先生。」と、直ぐにハガキを返信しますが、結局、何度もハガキを寄こすだけで訪問することはなかったようです。

青空文庫 『或る文学青年像』 佐藤春夫
https://www.aozora.gr.jp/cards/001763/files/58554_71145.html

 続いて佐藤は師として太宰への思いを語っています。

本当の事を云いすぎる自分のところへ、彼はいつの間にか出入しなくなってしまって(もっぱ)ら井伏のところあたりに行っていたようである。(中略)出入しなくなった彼を強いて迎える要もないと思いながらもその才能は最初から大に認めていたつもりである。(中略)彼に対しては多少遺憾いかんに思いながら遠くからその動静を見守っていたのである。

 昭和18(1943)年、南方の戦線に従軍していた佐藤はデング熱に冒され、一週間ほど病臥(びょうが)生活(せいかつ)を送ります。このとき佐藤は偶然に、太宰の短編小説『佳日』を目にします。

自分は一読して今更に彼の文才に驚歎(きょうたん)した。(中略)自分は病余のつれづれに、いつまでも枕頭(ちんとう)にあつた『佳日』を日課のように毎日読んだ。(中略)どこかに文章の乃至(ないし)はその他の欠点はないものだろうか一つそれを見つけてくれようという意地の悪い課題を自分に与えて読んでみた。(中略)結局どこにも欠点と(おぼ)しいものは見つからなかった。

『佳日』は短編集『ろまん燈籠』に収められています。

 太宰の死を信州の山中で知ることとなった佐藤は、そのときの思いをこのように語っています。

(いず)れはそんな最期をしなければならない運命にある彼のような気がして、折角(せっかく)幾度も企てて失敗している事を今度は成し遂げさせたいような妙に非人情に虚無的な考えになっていた自分は、他人ごとならず重荷をおろしたような気軽なそれでいて腹立しい変な気がしたのを得忘れない。

 太宰の死後、数年経ってから小説『津軽』を読んだ佐藤は、次のように感想を述べています。

非常に感心した。あの作品には彼の欠点は全く目立たなくてその長所ばかりが現われているように思われる。他のすべての作品は全部抹殺(まっさつ)してしまってもこの一作さえあれば彼は不朽の作家の一人だと云えるであろう。

あの作品に現われている土地は、彼の故郷の金木の地の外は全部自分も見て知っているつもりであるが、土地の風土と人情とをあれほど見事に組み合せた彼の才能はまことにすばらしいものである。生前これを読んで直接彼に讃辞(さんじ)(てい)する事のできなかったのが千秋(せんしゅう)恨事(こんじ)である。

 そして、「桜桃忌の七周年に出席した際、席上話したのが、この文と同じことであった。」と、文章は閉められています。

青空文庫 『稀有の文才』 佐藤春夫
https://www.aozora.gr.jp/cards/001763/files/58566_63546.html


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あとがき【『稀有の文才』の感想を交えて】

      蟹田観瀾山太宰治文学碑

 写真は青森県東津軽郡外ケ浜町字蟹田にある観瀾山(かんらんざん)公園内の太宰治文学碑です。観瀾山は小説『津軽』の舞台のひとつで、太宰がN君たちと花見に登った小山です。

 この場所からの眺望を太宰は、「この山からの見はらしは、悪くなかった。その日は、まぶしいくらいの上天気で、風は少しも無く、青森湾の向うに夏泊岬が見え、また、平館海峡をへだてて下北半島が、すぐ間近に見えた。」(小説『津軽』)と、語っています。



 そしてこの文学碑には、「かれは人を喜ばせるのが何よりも好きであった」と刻字されています。これは太宰の小説『正義と微笑』の中の一文で、佐藤春夫の筆によるものです。

 太宰文学の真骨頂と言えば「ユーモア」です。佐藤春夫は、そんな太宰文学と人間・太宰のことを理解していた一人だったのでしょう。

「僕は今太宰治を異常に憎悪している。しかし同時に彼の無比な才能を讃歎(さんたん)している。」(『或る文学青年像』)

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