はじめに【憧れの地「津軽」へ】
「或るとしの春、私は、生れてはじめて本州北端、津軽半島を凡そ三週間ほどかかって一周したのであるが、それは、私の三十幾年の生涯に於いて、かなり重要な事件の一つであった。」
これは太宰治の小説『津軽』序編の冒頭部分です。
わたし自身もあるとしの春、太宰の生誕場所「斜陽館」には行ったことがあるものの、(そう言えば他の津軽の地は知らないな……)なんてふと思い、小説『津軽』の地を巡ろうと思い立ちました。
とは言え、二泊三日の旅では半分も足跡をたどることができず、結果的に数回の訪問で何とか踏破に至りました。その旅の記録としてブログに載せますが、もしも皆々様方の旅の参考に少しでもなれたなら本当に嬉しい限りです。
太宰治『津軽』要約と聖地巡礼!【本編①-外ヶ浜町・今別町】
太宰治『津軽』要約と聖地巡礼!【本編②-五所川原市・西海岸】
太宰治『津軽』要約と聖地巡礼!【序編―青森市・弘前市・大鰐町】

太宰治(だざいおさむ)とは?
昭和の戦前戦後にかけて、多くの作品を残した小説家です。本名・津島修治。(1909~1948)
太宰治は、明治42(1909)年6月19日、青森県金木村(現・五所川原市金木町)の大地主の家に生まれます。
青森中学、旧制弘前高等学校(現・弘前大学)を経て東京帝国大学仏文科に進みますが後に中退します。この頃、井伏鱒二に弟子入りをし、本格的な創作活動を始めました。しかし、在学中から非合法運動に関係したり、薬物中毒になったり、または心中事件を起こすなど、私的なトラブルは後を絶ちませんでした。
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一方、創作のほうでは『逆行』が第一回芥川賞の次席となるなど、人気作家への階段を上り始めます。昭和14(1939)年、井伏鱒二の世話で石原美知子と結婚し、一時期は平穏な時間を過ごし『富嶽百景』『走れメロス』『駆込み訴へ』など多くの佳作を書きます。
戦後、『斜陽』で一躍、流行作家となりますが、遺作『人間失格』を残して、昭和23(1948)年6月13日、山崎富栄と玉川上水で入水自殺をします。(没年齢38歳)ちなみに、玉川上水で遺体が発見された6月 19日(誕生日でもある)を命日に、桜桃忌が営まれています。

小説『津軽』について
小説『津軽』は、昭和19(1944)年11月15日、小山書店より刊行されます。発行部数は3千部で定価は3円でした。紀行文のような形をとっていますが研究者の間では自伝的小説と見なされています。太宰の死後、数年経ってから小説『津軽』を読んだ作家・佐藤春夫は、次のように感想を述べています。
非常に感心した。あの作品には彼の欠点は全く目立たなくてその長所ばかりが現われているように思われる。他のすべての作品は全部抹殺してしまってもこの一作さえあれば彼は不朽の作家の一人だと云えるであろう。
(『稀有の文才』佐藤春夫)

太宰治が故郷・津軽を訪れたのは昭和19(1944)年の5月12日から6月5日にかけてで、小山書店の依頼を受けたものです。ちなみに旅の行程は下記のとおりとなっています。
東京発――青森経由、蟹田泊(中村貞次郎宅)――三厩泊――竜飛泊――蟹田泊帰(中村宅)――金木泊(生家)――五所川原、木造経由、深浦泊――鯵ヶ沢経由、五所川原泊――小泊泊――蟹田泊(中村宅)――東京帰着
小説『津軽』の旅 序編【青森市・青森市浅虫】

金木第一尋常小学校を卒業後、組合立明治高等小学校に1年間通った太宰は、大正12(1923)年4月、14歳のとき青森県立青森中学校に入学し、青森市寺町の豊田太左衛門宅に寄宿します。
生れ故郷と、その小都会とは、十里も離れていないのでした。この海岸の小都会は、青森市である。(中略)明治四年の廃藩置県に依って青森県の誕生すると共に、県庁所在地となっていまは本州の北門を守り、北海道函館との間の鉄道連絡船などの事に到っては知らぬ人もあるまい。(中略)
旅人にとっては、あまり感じのいい町では無いようである。旅人は、落ちつかぬ気持で、そそくさとこの町を通り抜ける。けれども私は、この青森市に四年いた。そうして、その四箇年は、私の生涯に於いて、たいへん重大な時期でもあったようである。
(『津軽』序編 太宰治)
太宰は、青森市のことを、「旅人にとっては、あまり感じのいい町では無いようである。」そして、「旅人は、落ちつかぬ気持で、そそくさとこの町を通り抜ける。」と語っています。つまり当時の青森市は、いわゆる北海道への玄関口として、旅人にとっては単なる通過点にすぎなかったようです。
とは言うものの、現在の青函連絡船は、「青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸」という名称で海上博物館として保存され、周辺には観光交流施設「ねぶたの家ワ・ラッセ」や観光物産館「アスパム」、複合施設「A-FACTORY」など観光施設が充実していて、わたしの目には賑わっているように映りました。
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・八甲田丸 青森県青森市柳川1丁目112―15 地先 ※有料
営業時間 (4月~10月)9:00~19:00
(11月~3月)9:00~17:00
休館日 夏季 なし
冬季 月曜日・12月31日~1月1日
・ねぶたの家 ワ・ラッセ 青森県青森市安方1丁目1−1 ※有料
営業時間 (5月~8月)9:00~19:00
(9月~4月)9:00~18:00
休館日 8月9日、10日・12月31日~1月1日
・A-FACTORY 青森県青森市柳川1-4-2 ※無料
営業時間 (ショッピング)10:00~19:00
(レストラン) 11:00~18:00
休館日 なし
・青森観光物産館アスパム 青森県青森市安方1丁目1-40 無料
営業時間 9:00~18:00
休館日 なし

その海のある小都会へ出た。そして私のうちと遠い親戚にあたるそのまちの呉服店で旅装を解いた。(中略)学校はちっとも面白くなかった。校舎は、まちの端れにあって、しろいペンキで塗られ、すぐ裏は海峡に面したひらたい公園で、(中略)
ひらたい公園というのは、合浦公園の事である。そうしてこの公園は、ほとんど中学校の裏庭と言ってもいいほど、中学校と密着していた。私は冬の吹雪の時以外は、学校の行き帰り、この公園を通り抜け、海岸づたいに歩いた。
(『津軽』序編 太宰治)
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合浦合浦公園の近くにあったという太宰の母校・青森県立青森中学校(現・青森県立青森高等学校)は、昭和20(1945)年7月28日に起きた青森空襲で校舎を焼失し、現在は青森市桜川八丁目に移転されています。
春のあるあさ、登校の道すがらに朱で染めた橋のまるい欄干へもたれかかって、私はしばらくぼんやりしていた。橋の下には隅田川に似た広い川がゆるゆると流れていた。(中略)橋をかたかた渡りながら、いろんな事を思い出し、また夢想した。そして、おしまいに溜息ついてこう考えた。えらくなれるかしら。
(『津軽』序編 太宰治)
「墨田川に似た広い川」とは、八甲田山系から青森市を通って陸奥湾へと注ぐ堤川のことです。大正時代の堤川には、下流から石森橋、青柳橋、うとう橋、提橋と四つの橋が架けられていました。
中学時代の太宰が、「えらくなれるかしら。」と思い悩んでいた橋は、海岸線沿いを通学していたことから、一番下流に架けられた石森橋ではなかったか?と想像します。
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私はこの弟にだけはなにもかも許した。(中略)私たちはなんでも打ち明けて話した。秋のはじめの或る月のない夜に、私たちは港の桟橋へ出て、海峡を渡ってくるいい風にはたはたと吹かれながら赤い糸について話合った。(中略)
この弟は、それから二、三年後に死んだが、当時、私たちは、この桟橋に行く事を好んだ。冬、雪の降る夜も、傘をさして弟と二人でこの桟橋に行った。
(『津軽』序編 太宰治)
太宰の弟・津島礼治は、昭和4(1929)年1月、敗血症で亡くなります。17歳という若さでした。当時兄弟でよく行ったという桟橋の跡地は埋め立てられ、現在は青森港新中央埠頭としてクルーズ船の寄港地となっています。けれども新中央埠頭に隣接された公園には桟橋が架けられ、わずかですが当時の面影をしのぶことができます。

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この青森市から三里(約12㎞)ほど東の浅虫という海岸の温泉も、私には忘れられない土地である。(中略)『思ひ出』という小説の中に次のような一節がある。「秋になって、私はその都会から汽車で三十分くらいかかって行ける海岸の温泉地へ、弟をつれて出掛けた。そこには、私の母と病後の末の姉とが家を借りて湯治していたのだ。」(中略)
この浅虫の海は清冽で悪くは無いが、しかし、旅館は、必ずしもよいとは言えない。(中略)自分の故郷の温泉であるから、思い切って悪口を言うのであるが、田舎のくせに、どこか、すれているような、妙な不安が感ぜられてならない。
(『津軽』序編 太宰治)

・道の駅「ゆ~さ浅虫」 青森県青森市浅虫蛍谷341-19
営業時間 (1階お土産コーナー)9:00~19:00
(5階展望浴場) 7:00~21:00
入浴料(大人360円・小学生160円・幼児70円)
休館日 なし
「忘れられない土地」と言いながらも悪口を言っているところが、いかにも太宰らしいのですが、つまり、「都会の真似をせずに、田舎ならでは温もりを大切にしろ!」と、彼なりの叱咤激励のように感じます。
小説『津軽』の旅 序編【大鰐町・弘前市の旅】

津軽に於いては、浅虫温泉は最も有名で、つぎは大鰐温泉という事になるのかも知れない。大鰐は、津軽の南端に近く、秋田との県境に近いところに在って、温泉よりも、スキイ場のために日本中に知れ渡っているようである。山麓の温泉である。ここには、津軽藩の歴史のにおいが幽かに残っていた。
(『津軽』序編 太宰治)
「温泉よりも、スキイ場のために日本中に知れ渡っているようである。」と太宰が話しているように大鰐温泉スキー場は100年の歴史があり、全日本スキー連盟発祥の地でもあるということです。
わたしが大鰐を訪れたのは初夏の頃でしたのでスキー場には行けませんでした。けれども大鰐駅の前には足湯があり、すぐ近くには「大鰐町地域交流センター 鰐come」という、日帰り入浴もできる綺麗な施設があり、温泉の方を堪能させて頂きました。
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・大鰐町地域交流センター 鰐come 青森県南津軽郡大鰐町大鰐川辺11-11
日帰り温泉 営業時間 9:00~22:00
入浴料 (大人500円・小人250円)
休館日 第三木曜
大鰐の思い出は霞んではいても懐しい。海と山の差異であろうか。(中略)ここは浅虫に較べて、東京方面との交通の便は甚だ悪い。そこが、まず、私にとってたのみの綱である。(中略)昔の津軽人の生活が根強く残っているに相違ないのだから、そんなに易々と都会の風に席巻されようとは思われぬ。
さらにまた、最後のたのみの大綱は、ここから三里北方に弘前城が、いまもなお天守閣をそっくり残して、年々歳々、陽春には桜花に包まれその健在を誇っている事である。この弘前城が控えている限り、大鰐温泉は都会の残瀝をすすり悪酔いするなどの事はあるまいと私は思い込んでいたいのである。
(『津軽』序編 太宰治)
※残瀝(ざんれき) 余滴。筆先などに残ったしずく。
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・弘前公園 青森県弘前市下白銀町1 ※無料(有料区域有り)
営業時間 有料区域
(4月1日~11月23日)9:00 ~ 17:00
(4月23日~5月5日)7:00~21:00
(11月24日~3月31日)入園無料
弘前城には桜の満開の時期に行きましたが、それはもう、「桜花に包まれその健在を誇っている」という太宰の言葉のとおりで、その見事さには圧倒されました。散った桜の花びらがお濠を埋めつくす「花筏」もまた、想像を超える美しさです。
弘前城。ここは津軽藩の歴史の中心である。津軽藩祖大浦為信は、関ヶ原の合戦に於いて徳川方に加勢し、慶長八年、徳川家康将軍宣下と共に、徳川幕下の四万七千石の一侯伯となり、ただちに弘前高岡に城池の区劃をはじめて、二代藩主津軽信牧の時に到り、ようやく完成を見たのが、この弘前城であるという。(中略)
私は、この弘前の城下に三年いたのである。弘前高等学校の文科に三年いたのであるが、その頃、私は大いに義太夫に凝っていた。(中略)その責任の一斑は弘前市に引受けていただきたいと思っている。義太夫が、不思議にさかんなまちなのである。
(『津軽』序編 太宰治)
※侯伯(こうはく) 封建社会での君主。諸侯。
太宰治が弘前市の旧制高校時代(昭和2年4月~5年3月)まで過ごしていた旧藤田家住宅「太宰治学びの家」が市指定有形文化財として大切に保存されています。また太宰が使っていた部屋や机なども見学することができます。
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・太宰治まなびの家(旧藤田家住宅) 青森県弘前市御幸町9-35 ※無料
営業時間 10:00~16:00
休館日 年末年始(12月29日~1月3日)
太宰治まなびの家の周囲には、旧弘前偕行社(国の重要文化財)・旧制弘前高等学校外国人教師館(国登録有形文化財)など、学生時代の太宰が見ていた洋館などが点在し、太宰気分で散策するにはうってつけ場所です。ちなみに旧制弘前高等学校外国人教師館はカフェとして営業していました。


・旧弘前偕行社 青森県弘前市御幸町8-10 ※有料
営業時間 9:00~16:00
休館日 火曜日・8月12日~15日・年末年始
この弘前市には、未だに、ほんものの馬鹿者が残っているらしいのである。(中略)弘前の人には、(中略)ほんものの馬鹿意地があって、負けても負けても強者にお辞儀をする事を知らず、自矜の孤高を固守して世のもの笑いになるという傾向があるようだ。
私もまた、ここに三年いたおかげで、ひどく懐古的になって、義太夫に熱中してみたり、(中略)浪曼性を発揮するような男になった。
(『津軽』序編 太宰治)
※自矜(じきょう) 自分をほこること。自慢。 また、自負。
※孤高(ここう) ひとり他にぬきんでて高いこと。孤立しつつ、自らの志を守ること。また、そのさま。
※懐古(かいこ) 昔の事をなつかしく思い起こすこと。
※義太夫(ぎだゆう) 竹本義太夫が創った音楽で、人形浄瑠璃の音楽として発生し、歌舞伎に取り入れられる。
とある居酒屋のカウンター席で右隣に座っていた弘前人から、「じょっぱり」という津軽弁を教えてもらいました。語源は「強情っぱり」からきているようで、意味も「頑固者」とか「意地っ張り」と同様でした。
その人が言うには、津軽人の気質を一言で表すなら、この「じょっぱり」が一番適しているようで、どうも太宰の言うところの「ほんものの馬鹿意地」は、現在にも引き継がれているようです。

弘前市の岩木山は、青森市の八甲田山よりも秀麗である。けれども、津軽出身の小説の名手、葛西善蔵氏は、郷土の後輩にこう言って教えている。
「自惚れちゃいけないぜ。岩木山が素晴らしく見えるのは、岩木山の周囲に高い山が無いからだ。他の国に行ってみろ。あれくらいの山は、ざらにあら。周囲に高い山がないから、あんなに有難く見えるんだ。自惚れちゃいけないぜ。」
歴史を有する城下町は、日本全国に無数と言ってよいくらいにたくさんあるのに、どうして弘前の城下町の人たちは、あんなに依怙地にその封建性を自慢みたいにしているのだろう。
(『津軽』序編 太宰治)
※依怙地(いこじ) 意固地。意地を張ってつまらぬことに頑固なこと。かたいじ。えこじ。

葛西善蔵『子をつれて』あらすじと解説【困窮者を拒絶する社会!】
弘前市は青森市と異なり、戦争による空襲被害がありませんでした。ですから弘前市内には藩政時代の武家屋敷や商家、そして明治・大正期に建てられた洋館が多く残され、魅力的な街並みを形作っています。


・旧弘前市立図書館 青森県弘前市下白銀町2-1追手門広場内 ※無料
営業時間 9:00~17:00
休館日 年末年始(12月29日~1月3日)
・旧第五十九銀行本店本館 青森県弘前市元長町26 ※有料
営業時間 9:30~16:30
休館日 火曜日・12月29日~1月3日
数年前、私は或る雑誌社から「故郷に贈る言葉」を求められて、その返答に曰く、
汝を愛し、汝を憎む。
だいぶ弘前の悪口を言ったが、これは弘前に対する憎悪ではなく、作者自身の反省である。私は津軽の人である。私の先祖は代々、津軽藩の百姓であった。謂わば純血種の津軽人である。だから少しも遠慮無く、このように津軽の悪口を言うのである。
弘前市。現在の戸数は一万、人口は五万余。弘前城と、最勝院の五重塔とは、国宝に指定せられている。桜の頃の弘前公園は、日本一と田山花袋が折紙をつけてくれているそうだ。
(『津軽』序編 太宰治)
ちなみに現在の弘前市の戸数は約7万余、人口は20万弱となっています。そして、弘前城・最勝院ともに、現在は国指定の重要文化財となっています。

田山花袋『蒲団』あらすじと解説【恋はいつ惑溺するか解らない!】
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あれは春の夕暮だったと記憶しているが、弘前高等学校の文科生だった私は、ひとりで弘前城を訪れ、お城の広場の一隅に立って、岩木山を眺望したとき、ふと脚下に、夢の町がひっそりと展開しているのに気がつき、ぞっとした事がある。(中略)
見よ、お城のすぐ下に、私のいままで見た事もない古雅な町が、何百年も昔のままの姿で小さい軒を並べ、息をひそめてひっそりうずくまっていたのだ。(中略)万葉集などによく出て来る「隠沼」というような感じである。私は、なぜだか、その時、弘前を、津軽を、理解したような気がした。
この町の在る限り、弘前は決して凡庸のまちでは無いと思った。(中略)隠沼のほとりに万朶の花が咲いて、そうして白壁の天守閣が無言で立っているとしたら、その城は必ず天下の名城にちがいない。
(『津軽』序編 太宰治)
※古雅(こが) 古風でみやびやかさのあること。
※隠沼(こもりぬ) 草などにおおわれて上からは見えない隠れた沼。隠れの沼。
※万朶(ばんだ) 垂れ下がった枝の意。多くの花の枝。また、多くの花。

津軽富士と呼ばれる岩木山。標高は1,625mで、青森県の最高峰です。古くから山岳信仰の対象とされていて、毎年旧暦の8月1日には例大祭「お山参詣」が行われます。
わたしも太宰が岩木山を眺望した広場に立って岩木山を眺めたのですが、当然ながら太宰と同じ思いには至りませんでした。けれども岩木山が津軽人にとって特別なものであることは理解できます。そのくらい絶対的な存在感を誇ってそびえていました。
私はこの旅行に依って、まったく生れてはじめて他の津軽の町村を見たのである。(中略)私はこのたびの旅行で見て来た町村の、地勢、地質、天文、財政、沿革、教育、衛生などに就いて、専門家みたいな知ったかぶりの意見は避けたいと思う。(中略)
私には、また別の専門科目があるのだ。世人は仮りにその科目を愛と呼んでいる。人の心と人の心の触れ合いを研究する科目である。私はこのたびの旅行に於いて、主としてこの一科目を追及した。
(『津軽』序編 太宰治)

追記といった形になりますが、太宰治まなびの家(旧藤田家住宅)の近く、弘前大学の構内に太宰治記念小公園があります。その名のとおり小さな公園ですが、太宰治文学碑・レリーフがあります。
そこには小説『津軽』の一節、「私には、また別の専門科目があるのだ。世人は仮りにその科目を愛と呼んでいる。人の心と人の心の触れ合いを研究する科目である。私はこのたびの旅行に於いて、主としてこの一科目を追及した。」の文字が刻まれています。
青空文庫 『津軽』 太宰治
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あとがき【小説『津軽』序編の旅の感想】

・青森県立図書館(青森県近代文学館) 青森市荒川字藤戸119-7 ※無料
開館時間 9:00~17:00
休館日 毎月第4木曜日
小説『津軽』の旅で最初に訪れたのは、青森県立図書館の2階にある青森県近代文学館でした。やはり太宰の地元というだけあって、生原稿や書画などが展示されていてファンには本当に生唾物です。
ちなみに近代文学館には太宰と親交のあった今官一など、青森県を代表する13人の作家(佐藤紅緑、秋田雨雀、葛西善蔵、福士幸次郎、石坂洋次郎、北村小松、北畠八穂、高木恭造、太宰治、今官一、三浦哲郎、長部日出雄、寺山修司)に関連したものが展示してありました。
こうして青森市の近代文学館で気持ちを高揚させてから、小説『津軽』の旅をスタートさせたのですが……。結論から申すと、小説『津軽』とは関係のない観光地に多く立ち寄ってしまったせいで、冒頭でも書いたように、二泊三日で半分も回ることができないといった失態を犯してしまいました。
とにかく津軽の地は広いのです。やはり旅というものはスケジュールをギュウギュウ詰めにしてはいけませんね。もしも太宰の郷土への旅を考えている人がいるのなら、余裕を持ってスケジュールを組み立てたほうが絶対に良いです。
旅の途中、太宰も見たであろう豊かな自然に目を奪われたりするに違いありませんから。
太宰治【他の作品】
太宰治『家庭の幸福』【家庭というエゴイズムへの反逆!】
太宰治『善蔵を思う』そしてわたしは、亡き友人を思う。
太宰治『黄金風景』読後、わたしの脳裏に浮かんだこと!
太宰治『燈籠』に見る【ささやかな希望の燈火と大きな暗い現実】
太宰治『富嶽百景』【富士という御山になぜ人は魅せられるのか】
太宰治・新釈諸国噺『貧の意地』あらすじと解説【心の貧困!】
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太宰治『清貧譚』あらすじと解説【私欲を捨ててまで守るもの?】
太宰治『ヴィヨンの妻』あらすじと解説【生きてさえいればいい!】
太宰治『葉桜と魔笛』あらすじと解説【神さまはきっといる!】
太宰治『待つ』あらすじと解説【あなたはいつか私を見かける!】
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太宰治『メリイクリスマス』あらすじと解説【人間は逞しい!】
太宰治『雪の夜の話』あらすじと解説【随筆『一つの約束』!】
太宰治『薄明』あらすじと解説【絶望の淵に見る希望の光!!】
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太宰治『斜陽』あらすじと解説【恋と革命のために生れて来た!】
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