はじめに【「不安」という感情について】
「不安」とは誰もが普通に経験する神経質、心配、困惑の感情です。
原因がはっきりとしているのなら、対処のしようもありますが、それが複数、または、はっきりとしない漠然としたものなら持て余してしまうことでしょう。
わたし自身も何度か経験したことがあります。
そんなときは不思議なもので(何かしなければ!)と焦り、大抵は悪い方向へと向かったものです。まさに悪循環と言えますね。
「果報は寝て待て」ということわざがあるように、なるようにしかならない場合もあります。ジタバタして悪循環に陥るよりは『待つ』こともひとつの選択肢と言えるでしょう。
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太宰治(だざいおさむ)とは?
昭和の戦前戦後にかけて、多くの作品を残した小説家です。本名・津島修治。(1909~1948)
太宰治は、明治42(1909)年6月19日、青森県金木村(現・五所川原市金木町)の大地主の家に生まれます。
青森中学、旧制弘前高等学校(現・弘前大学)を経て東京帝国大学仏文科に進みますが後に中退します。この頃、井伏鱒二に弟子入りをし、本格的な創作活動を始めました。しかし、在学中から非合法運動に関係したり、薬物中毒になったり、または心中事件を起こすなど、私的なトラブルは後を絶ちませんでした。
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一方、創作のほうでは『逆行』が第一回芥川賞の次席となるなど、人気作家への階段を上り始めます。昭和14(1939)年、井伏鱒二の世話で石原美知子と結婚し、一時期は平穏な時間を過ごし『富嶽百景』『走れメロス』『駆込み訴へ』など多くの佳作を書きます。
戦後、『斜陽』で一躍、流行作家となりますが、遺作『人間失格』を残して、昭和23(1948)年6月13日、山崎富栄と玉川上水で入水自殺をします。(享年38歳)ちなみに、玉川上水で遺体が発見された6月 19日(誕生日でもある)を命日に、桜桃忌が営まれています。
太宰治の故郷・青森県(津軽)にご関心のある方は下記のブログを参考にして下さい。
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太宰治『津軽』要約と聖地巡礼!【本編①-外ヶ浜町・今別町】
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短編小説『待つ』について
太宰治の得意な作品形式に女性独白体があります。その女性独白体作品だけを集めた創作集『女性』が、昭和17(1942)年6月30日、博文館より刊行されます。『待つ』はこの『女性』の最後に収録された作品です。
当初は、『京都帝国大学新聞』編集部の依頼によって執筆され、昭和17年3月5日発行の第三四四号に掲載される予定でした。しかし内容が時局に相応しくないとの理由で掲載が見送られるといった経緯があります。
太宰治の女性独白体(女性語り)小説
・『燈籠』(1937) 父母と暮らす24歳の下駄屋の娘
・『女生徒』(1939) 父親を亡くしたため、母親と二人で暮らす女子学生
・『葉桜と魔笛』(1939) 20歳の頃を回想する55歳の夫人
・『皮膚と心』(1939) 28歳の妻
・『誰も知らぬ』(1940) 23歳の頃を回想する41歳の夫人
・『きりぎりす』(1940) 24歳の画家の妻
・『千代女』(1941) 18歳の少女
・『恥』(1942) 小説のモデルにされたと勘違いした女性の読者
・『十二月八日』(1942)一児の母でもある小説家の妻
・『待つ』(1942) 毎日駅で誰かを待つ20歳の女性
・『雪の夜の話』(1944) 小説家の妹で年齢は20歳くらい
・『貨幣』(1946) 百円紙幣の女性
・『ヴィヨンの妻』(1947) 詩人の妻で一児の母でもある26歳の女性
・『斜陽』(1947) 妻子ある小説家の愛人
・『おさん』(1947) ジャーナリストの妻で三児の母
・『饗応夫人』(1947) 饗応好きな女主人のもとで働く女中
『待つ』あらすじ(ネタバレ注意!)
省線の小さな駅で主人公の「私」は、毎日、誰かとも分からぬ人を迎えに行きます。買い物帰りには必ず立ち寄り、駅のベンチに腰をおろして、改札口のほうを眺めるのです。誰かが「私」に笑って声をかけます。そんなこと考えただけでも怖くて胸がどきどきします。
※省線(しょうせん) もと鉄道省・運輸省の管理に属した電車およびその路線の通称。
「私」は、いったい誰を待っているのか分かりません。いや、待っているのは人間でないかも知れないのです。「私」は人間が嫌いです。だから「私」は家にいるのが楽でした。けれども戦争が始まってから、家にいることが悪いような気がします。
それで外に出てみたものの「私」には行き場所などありません。だから駅のベンチにぼんやり腰をかけているのです。そして「私」は思うのです。(私はいったい、何を待っているのだろう。もしかしたら私は、みだらな女なのかも知れない)と。
誰かが「私」に笑って声をかけます。そしてまた思うのです。(私が待っているのは、あなたでない)と。「私」が待っているのは、旦那さまや恋人でもありません。お金とも違います。もっとなごやかで明るく素晴らしいものなのです。
それが何かは分かりませんが、「私」は胸を躍らせて待っています。震えながら一心に一心に待っているのです。こうして「私」は、心の中で分からぬ何かに訴えかけます。
(どうか私を忘れないで下さい。駅の名は教えなくても、あなたはいつか私を見かける)―――と。
青空文庫 『待つ』 太宰治
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『待つ』ひとこと解説
主人公の「私」は、戦争に突入し、緊張した状況下にもかかわらず、自身のみだらさを告白し、何らかの訪れに対する期待を示しています。そう語るのですから「私」の待つ対象は “ 恋愛相手 ” と受け取るのが一般的でしょう。
しかし「私」はそれを「旦那さまや恋人でもありません」と、打ち消しています。そして「もっと何か素晴らしいもの」を待つため毎日、駅へと出かけます。そこには例え戦時中であっても希望を捨てていない姿が見て取れます。
ところが物語の結末で、「あなたはいつか私を見かける」と、突然見ている側から見られる側へと逆転しています。つまり曖昧だった待つ対象はここで「あなた」という読者に委ねられます。そして読者自身もこの主人公の姿を探すことになるのです。
あとがき【『待つ』の感想を交えて】
物語の主人公と作者・太宰を重ねて見たいと思います。
『待つ』が書かれる前年、太宰は、文士徴用令に呼ばれますが、身体検査で肺浸潤とされて徴用免除になっています。太宰は戦時下における落伍者と言えるでしょう。
そんな太宰ができることはただひとつ、執筆活動です。けれども当時の太宰はまだ新進作家でした。初めての作品集『晩年』は5年で1500部しか売れなかったと本人自ら語っています。
もしかした太宰も主人公と同じく、行き場を失った一人なのかもしれません。そして読者を待っていたのでしょうか。ところが表現の自由が制限された戦時中です。思うようにはいきませんでした。
これまでも『待つ』という作品は様々な解釈がされてきました。特に「私」が待っている対象については多種多様な意見があります。わたし個人としてはそれよりも、主人公が待つために駅に行っているところに物語の本質があるような気がします。
待っている対象が現れないにしろ、主人公は可能性のある場所に足を運んでいます。太宰もまた執筆活動は続け、出版社に作品をせっせと持ち込んでいます。
冒頭で「果報は寝て待て」と言いましたが、それは怠けて良いという意味ではありません。人事を尽くした後は気長に良い知らせを待つしかないという意味です。
その結果、向こうのほうからあなたを見つけてくれるのです。
太宰治【他の作品】
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