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太宰治『津軽』要約と聖地巡礼!【本編①-外ヶ浜町・今別町】

名著から学ぶ(文学の旅)
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はじめに【太宰「故郷・津軽の旅」の目的について】

 「ね、なぜ旅に出るの?」
 「苦しいからさ。」

 妻・美知子にはこのような言葉を残して東京を離れ、故郷・津軽への旅に出た太宰ですが、旅の目的について本文の中で次のように語っています。

「都会人としての私に不安を感じて、津軽人としての私をつかもうとする念願である。言いかたを変えれば、津軽人とは、どんなものであったか、それを見極めたくて旅に出たのだ。私の生きかたの手本とすべき純粋の津軽人を捜し当てたくて津軽へ来たのだ。」

 前回、太宰治『津軽』要約と聖地巡礼!【序編―青森市・弘前市・大鰐町】を載せましたが、今回はその続きとなる本編の旅です。

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太宰治『津軽』要約と聖地巡礼!【本編①-外ヶ浜町・今別町】

太宰治(だざいおさむ)とは?

 昭和の戦前戦後にかけて、多くの作品を残した小説家です。本名・津島(つしま)(しゅう)()。(1909~1948)
太宰治は、明治42(1909)年6月19日、青森県金木村(現・五所川原市金木町)の大地主の家に生まれます。

 青森中学、旧制弘前(ひろさき)高等学校(現・弘前大学)を経て東京帝国大学仏文科に進みますが後に中退します。この頃、井伏鱒二(いぶせますじ)に弟子入りをし、本格的な創作活動を始めました。しかし、在学中から非合法運動に関係したり、薬物中毒になったり、または心中事件を起こすなど、私的なトラブルは後を絶ちませんでした。

   井伏鱒二

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 一方、創作のほうでは『逆行』が第一回芥川賞の次席となるなど、人気作家への階段を上り始めます。昭和14(1939)年、井伏鱒二の世話で石原美知子と結婚し、一時期は平穏な時間を過ごし『富嶽百景』『走れメロス』駆込(かけこ)(うった)へ』など多くの佳作を書きます。

 戦後、『斜陽』で一躍、流行作家となりますが、遺作『人間失格』を残して、昭和23(1948)年6月13日、山崎富栄と玉川上水で入水自殺をします。(没年齢38歳)ちなみに、玉川上水で遺体が発見された6月 19日(誕生日でもある)を命日に、桜桃忌(おうとうき)が営まれています。

    太宰治

小説『津軽』について

 小説『津軽』は、昭和19(1944)年11月15日、小山書店より刊行されます。発行部数は3千部で定価は3円でした。紀行文のような形をとっていますが研究者の間では自伝的小説と見なされています。太宰の死後、数年経ってから小説『津軽』を読んだ作家・佐藤春夫は、次のように感想を述べています。

非常に感心した。あの作品には彼の欠点は全く目立たなくてその長所ばかりが現われているように思われる。他のすべての作品は全部抹殺(まっさつ)してしまってもこの一作さえあれば彼は不朽の作家の一人だと云えるであろう。
(『稀有の文才』佐藤春夫)

   佐藤春夫

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 太宰治が故郷・津軽を訪れたのは昭和19(1944)年の5月12日から6月5日にかけてで、小山書店の依頼を受けたものです。ちなみに旅の行程は下記のとおりとなっています。

東京発――青森経由、蟹田泊(中村貞次郎宅)――三厩泊――竜飛泊――蟹田泊帰(中村宅)――金木泊(生家)――五所川原、木造経由、深浦泊――鯵ヶ沢経由、五所川原泊――小泊泊――蟹田泊(中村宅)――東京帰着

小説『津軽』の旅 本編【外ヶ浜町(蟹田)】

  • 5月12日 上野駅17時30分発の夜行列車で青森へ。
  • 5月13日 午前8時に青森駅に到着しT君の家で一休みした後、午後にバスで蟹田町のN君宅へ行き宿泊する。
  • 5月14日 観瀾山で花見をし、Eという旅館(蝦田旅館)に移動。その後Sさん宅で接待を受ける。(16日までN君宅に滞在)

 昭和19(1944)年の5月12日、上野駅17時30分発の急行列車に乗った太宰は、翌朝の8時に青森駅に到着します。青森駅には旧友のT君が迎えに来ていました。T君はかつて使用人として太宰の生家に住んでいたことがあります。

 太宰はとりあえずT君の家で一休みをし、それから二人で蟹田行きのバス停まで歩きます。途中、中学の頃に下宿し、お世話になった豊田太左衛門のお墓にお参りをします。道すがら太宰は、「君も一緒に蟹田へ行かないか」と、T君を誘おうと考えますが、口に出せずにいました。そしてこんなことを思います。

大人というものは(わび)しいものだ。愛し合っていても、用心して、他人行儀を守らなければならぬ。なぜ、用心深くしなければならぬのだろう。その答は、なんでもない。見事に裏切られて、赤恥をかいた事が多すぎたからである。人は、あてにならない、という発見は、青年の大人に移行する第一課である。大人とは、裏切られた青年の姿である。

私は黙って歩いていた。突然、T君のほうから言い出した。
「私は、あした蟹田へ行きます。あしたの朝、一番のバスで行きます。Nさんの家で逢いましょう。」
(『津軽』本編 一 巡礼 太宰治)

津軽半島の東海岸は、昔から外ヶ浜(そとがはま)と呼ばれて船舶の往来の繁盛(さかん)だったところである。(中略)この外ヶ浜一帯は、津軽地方に於いて、最も古い歴史の存するところなのである。(中略)蟹田町(現・外ヶ浜町)は、その外ヶ浜に於いて最も大きい部落なのだ。(中略)

私は、蟹田は蟹の名産地、そうして私の中学時代の唯一の友人のN君がいるという事だけしか知らなかったのである。(中略)蟹田のN君の家では、赤い(ねこ)(あし)の大きいお膳に蟹を小山のように積み上げて私を待ち受けてくれていた。
(『津軽』本編 二 蟹田 太宰治)

 「この外ヶ浜一帯は、津軽地方に於いて、最も古い歴史の存するところなのである。」と太宰が言うように、平安時代、外ヶ浜は歌枕の地として知られ、西行や藤原定家など多くの歌人が歌を詠んでいます。

 みちのくの 奥ゆかしくぞ 思ほゆる 壺の石文 外の浜風(西行)
 みちのくの 外が浜なる 呼子鳥 鳴くなる声は うとうやすかた(藤原定家)

  西行(MOA美術館蔵)

 ちなみに青森県では古くからお花見の時期にトゲクリガニを食す文化があるそうです。トゲクリガニは4月下旬から5月下旬頃まで陸奥湾内で漁獲されることから「花見ガニ」とも呼ばれ、蟹田町(現・外ヶ浜町)は現在でもトゲクリガニ漁が盛んだと言うことです。

    トゲクリガニ

私は、中学時代には、よその家へ遊びに行った事は絶無であったが、どういうわけか、同じクラスのN君のところへは、実にしばしば遊びに行った。N君はその頃、寺町の大きい酒屋の二階に下宿していた。(中略)

N君は中学校を卒業してから、東京へ出て、或る雑誌社に勤めたようである。私はN君よりも二、三年おくれて東京へ出て、大学に籍を置いたが、その時からまた二人の交遊は復活した。(中略)

(あく)る朝、眼をさますと、青森市のT君の声が聞えた。約束どおり、朝の一番のバスでやって来てくれたのだ。(中略)皆で、蟹田の山へ花見に行こうという相談が、まとまった様子である。
(『津軽』本編 二 蟹田 太宰治)

 小説『津軽』に登場するT君とは外崎勇三氏のことで、当時東青病院で検査技師をしていました。N君とは蟹田町会議員を務めていた中村貞次郎(ていじろう)氏のことです。

観瀾山(かんらんざん)。(中略)その山は、蟹田の町はずれにあって、高さが百メートルも無いほどの小山なのである。(中略)その日は、まぶしいくらいの上天気で、風は少しも無く、青森湾の向うに夏泊岬が見え、また、平館海峡をへだてて下北半島が、すぐ真近(まぢ)かに見えた。(中略)

この蟹田あたりの海は、ひどく温和でそうして水の色も淡く、塩分も薄いように感ぜられ、磯の香さえほのかである。雪の溶け込んだ海である。ほとんどそれは湖水に似ている。
(『津軽』本編 二 蟹田 太宰治)

観瀾山公園に建つ太宰文学碑
      碑文

 太宰たちが花見をしたという観瀾山公園には、佐藤春夫の筆による、太宰の文学碑が建てられています。
 「かれは人を喜ばせるのが何よりも好きであった!」佐藤春夫

 わたしが行ったときも太宰と同様に、海は穏やかで、夏泊半島、そして下北半島を眺望することができました。ちなみに現在、外ヶ浜町蟹田には、青森駅から津軽海峡線の特急列車で約30分で行くことができます。

       観瀾山からの眺め

・観瀾山公園 青森県東津軽郡外ケ浜町字蟹田中師地内

 観瀾山でのお花見の後、Eという旅館に場所を移して飲み続けていた太宰ら一行でしたが、Sさん(東青病院蟹田分院事務長・下山清次)に誘われて、今度はSさんの家で飲むことになります。そこでSさんは、「津軽人の本性を暴露した熱狂的な接待振り」を披露します。

「おい、東京のお客さんを連れて来たぞ。(中略)これが、そのれいの太宰って人なんだ。挨拶をせんかい。リンゴ酒を持って来い。なんだ、一升しか無いのか。少い!もう二升買って来い。(中略)アンコーのフライを作れ。(中略)それから、卵味噌のカヤキを差し上げろ。(中略)そうだ。卵味噌だ。卵味噌に限る。卵味噌だ。卵味噌だ。」

私は決して誇張法を用いて描写しているのではない。この疾風怒濤(しっぷうどとう)の如き接待は、津軽人の愛情の表現なのである。(中略)

この卵味噌のカヤキなるものに()いては、(中略)(かい)(やき)の訛りであろうと思われる。(中略)津軽に於いては、肉を煮るのに、帆立貝の大きい貝殻を用いていた。(中略)その貝の鍋を使い、味噌に鰹節をけずって入れて煮て、それに鶏卵を落して食べる原始的な料理である。
(『津軽』本編 二 蟹田 太宰治)

   ホタテの貝焼き味噌

 残念ながら蟹田では食べられませんでしたが、青森市で「ホタテの貝焼き味噌」を頂きました。何というべきか、素朴な味ながらもホタテからの出汁が味噌と卵に染み込んで、それはもうご飯に合う一品でした。

後で聞いたが、Sさんはそれから一週間、その日の卵味噌の事を思い出すと恥ずかしくて酒を飲まずには居られなかったという。ふだんは人一倍はにかみやの、神経の繊細な人らしい。これもまた津軽人の特徴である。(中略)

Sさんはその翌日、小さくなって酒を飲み、そこへ一友人がたずねて行って、「どう?あれから奥さんに叱られたでしょう?」と笑いながら尋ねたら、Sさんは、処女の如くはにかんで、「いいえ、まだ。」と答えたという。
 叱られるつもりでいるらしい。
(『津軽』本編 二 蟹田 太宰治)

小説『津軽』の旅 本編【今別町・外ヶ浜町(三厩・竜飛)】

  • 5月17日 バスで今別町へ向かい、今別のMさん宅で歓待を受けた後本覚寺へ行く。その後Mさん含め三人は、徒歩で三厩の丸山旅館に行き宿泊する。
  • 5月18日 Mさんと別れ義経寺に行き、その後徒歩で龍飛へ行き、この日は奥谷旅館に宿泊。
  • 5月19日 徒歩で三厩へ戻り、その後バスで蟹田に行き、N君宅に宿泊する。(21日朝までN君宅に滞在)

その翌日、私はN君に案内してもらって、外ヶ浜街道をバスで北上し、三厩(みんまや)で一泊して、それからさらに海岸の波打際の心細い路を歩いて本州の北端、竜飛岬まで行ったのであるが、(中略)

N君はバスの窓から、さまざまの風景を指差して説明してくれたが、もうそろそろ要塞地帯に近づいているのだから、そのN君の親切な説明をここにいちいち書き記すのは慎しむべきであろう。
(『津軽』本編 三 外ヶ浜 太宰治)

 太宰が津軽の地を訪れたのは昭和19(1944)年。まさに戦時中のことでした。本州の北端に位置する外ヶ浜はまさに日本の防衛上重要な場所だったようです。その歴史は幕末までさかのぼり、外国船の侵入を阻むための台場も築かれていました。

  平舘台場跡(外ヶ浜町)

 レンタカーを借りて、青森市から陸奥湾沿いに津軽半島を北上したのですが、津軽国定公園に指定されている「袰月ほろづき海岸」を始め、多くの景勝地に目を奪われてしまいました。また「袰月海岸」の先端の高野崎からは、下北半島や竜飛崎、天気の良い日には北海道の松前半島まで望むことができます。

        袰月海岸高野崎

・平舘台場跡   東津軽郡外ヶ浜町平舘田の沢
・袰月海岸高野崎 今別町大字袰月

鴎外の傑作「山椒大夫」の事は、小説の好きな人なら誰でも知っている。けれども、あの哀話(あいわ)の美しい姉弟が津軽の生まれで、そうして死後岩木山に祭られているという事は、あまり知られていないようであるが、実は、私はこれも何だか、あやしい話だと思っているのである。(中略)

鴎外の「山椒大夫」には、「岩代(いわしろ)の信夫郡の住家を出て」と書いている。つまりこれは、岩城という字を、「いわき」と読んだり「いわしろ」と読んだりして、ごちゃまぜになって、とうとう津軽の岩木山がその伝説を引受ける事になったのではないかと思われる。
(『津軽』本編 三 外ヶ浜 太宰治)

    森鴎外

森鴎外『山椒大夫』あらすじと解説【安寿はなぜ自分を犠牲に?】

 お昼頃に今別に着いた太宰とN君は、Mさん宅に立ち寄ってお酒を頂きます。その後、N君の提案で本覚寺(今別町)に行くことになりますが、本覚寺では五十年配のおかみさんから長い説明を聞くはめになり太宰たちは困り果ててしまいます。

 その後、Mさんを含めた三人は、徒歩で三厩の奥谷旅館まで行き宿泊します。翌日の昼頃、Mさんと別れた太宰とN君は北へ向けて出発します。ちなみにMさんとは、当時今別の病院でレントゲン技師をしていた松尾清照氏です。松尾氏は観欄山での花見にも参加しています。

「登って見ようか。」N君は、義経寺(ぎけいじ)の石の鳥居の前で立ちどまった。(中略)「うん。」私たちはその石の鳥居をくぐって、石の段々を登った。頂上まで、かなりあった。石段の両側の樹々の(こずえ)から雨のしづくが落ちて来る。(中略)

むかし源義経(みなもとのよしつね)、高館をのがれ蝦夷へ渡らんと此所迄(このところまで)来り(たま)いしに、渡るべき順風なかりしかば数日逗留(とうりゅう)し、あまりにたえかねて、所持の観音の像を海底の岩の上に置いて順風を祈りしに、(たちま)ち風かわり(つつが)なく松前の地に渡り給いぬ。其像今に此所(ここ)の寺にありて義経の風祈りの観音という。れいの「東遊記」で紹介せられているのは、この寺である。(中略)

鳥居を出たところに岩がある。東遊記にまた曰く、「波打際に大なる岩ありて馬屋(うまや)のごとく、穴三つ並べり。(これ)義経の馬を(たて)(たま)いし所となり。是によりて此地を()馬屋(まや)と称するなりとぞ。」(中略)故郷のこのような伝説は、奇妙に恥ずかしいものである。
(『津軽』本編 三 外ヶ浜 太宰治)

東遊記(とうゆうき)
江戸後期の紀行。二編一〇冊。橘南谿(たちばななんけい)著。寛政7(1795)年~9年(1797)刊。天明4(1784)年、医学修行のため東海・東山・北陸の各道を旅したときの見聞録。姉妹編として「西遊記」があり、合わせて「東西遊記」ともいう。

出典:精選版 日本国語大辞典
      義経寺
   厩石公園の巨石

・義経寺 青森県東津軽郡外ヶ浜町字三厩東町52
(まや)(いし)公園 青森県東津軽郡外ヶ浜町三厩中浜6

 太宰が語っているのは、「義経北方伝説」です。作家・司馬遼太郎も、『街道をゆく四十二 北のまほろば』にて、次のようにこの伝説を紹介しています。

「義経らは、ここから津軽海峡をわたろうとしたが、海が荒れて(すべ)がなく、やむなく念持する観音に祈願した。満願の晩、夢に白髪の(おきな)が立ち、竜馬を三頭あたえよう、という。目がさめて、右の(まや)(いし)の洞をのぞくと、三頭の竜馬がつながれていた。それに乗って海峡をわたったという。」
(『街道をゆく四十二 北のまほろば』)

 太宰はこの伝説について、「奇妙に恥ずかしいものである。」と語っていますが、司馬遼太郎は、同著書で次のようにも話しています。

「おそらく、雪が伝承をつくるのに相違ない。もし冬、私が雪のなかにいて、この三厩村で降る雪に耐えているとすれば、義経についての口碑は半ば信じていたにちがいない。雪の下では、伝承のほうが美しいのである。」
(『街道をゆく四十二 北のまほろば』)

    司馬遼太郎

 同じ東北人として、太宰の「奇妙に恥ずかしいものである。」に、同じような思いを抱いていたわたしは、司馬遼太郎のこの言葉に、ハッとさせられました。確かに冬ごもりは人を創造力豊かにさせるのかも知れません。

 三厩の義経寺をあとにした太宰とN君は、雨まじりの烈しい浜風をうけながら龍飛(たっぴ)へ徒歩で向かいます。

私たちは腰を曲げて烈風に(こう)し、小走りに走るようにして竜飛に向って突進した。路がいよいよ狭くなったと思っているうちに、不意に、鶏小舎に頭を突込んだ。(中略)「竜飛だ。」とN君が、変った調子で言った。(中略)

鶏小舎と感じたのが、すなわち竜飛の部落なのである。(中略)ここは、本州の極地(きょくち)である。この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ。路が全く絶えているのである。ここは、本州の袋小路だ。

読者も銘肌(めいき)せよ。諸君が北に向って歩いている時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小舎に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである。
(『津軽』本編 三 外ヶ浜 太宰治)

      龍飛崎
  太宰の道(龍飛崎)

龍飛崎 青森県東津軽郡外ヶ浜町三厩龍浜

 太宰が龍飛を訪れたときとは打って変わって、わたしが行ったときは風もなく雄大な津軽海峡を望むことができました。ちなみに龍飛には日本で唯一の階段国道があり、観光客がひっきりなしにこの階段を上り下りしていました。

    龍飛の階段国道

 龍飛を訪れた太宰とN君はその日、奥村旅館に宿泊します。二人は宿のお婆さんにお酒を銚子で6本頼み、あっという間に飲み干してしまいます。

 それから持参した酒も飲み、酔いの回ったN君は歌をうたいますが、その歌声は酷く、お婆さんにさっさと蒲団をしかれてしまいます。仕方なく寝に入る二人でしたが、翌朝太宰は、童女のいい歌声で目を覚まします。

部屋には朝日がさし込んでいて、童女が表の路で手毬歌(てまりうた)を歌っているのである。私は、頭をもたげて、耳をすました。(中略)私は、たまらない気持になった。いまでも中央の人たちに蝦夷(えぞ)の土地と思い込まれて軽蔑されている本州の北端で、このような美しい発音の(さわ)やかな歌を聞こうとは思わなかった。(中略)

希望に満ちた曙光(しょこう)に似たものを、その可憐(かれん)な童女の歌声に感じて、私はたまらない気持であった。
(『津軽』本編 三 外ヶ浜 太宰治)

「龍飛館」(旧・奥谷旅館)
  太宰の宿泊した部屋

 龍飛で太宰とN君が宿泊した奥谷旅館は現在、「龍飛館」という名で観光案内所として営業しています。外観は当時のままで、太宰とN君の名が書かれた宿帳(写し)や宿泊した部屋なども無料で見ることができます。

・龍飛岬観光案内所「龍飛館」 青森県東津軽郡外ヶ浜町三厩龍浜59-12 ※無料
 開館時間 9:00~16:00(最終入館15:30)
 休館日  4月中旬~11月中旬 無休 
      11月中旬~4月中旬 毎週水曜日・年末年始

 ちなみに「龍飛館」から国道を挟んだ海側に、太宰治の文学碑があり、碑文には小説『津軽』の一節が刻まれています。

      太宰治文学碑(龍飛)

「ここは、本州の袋小路だ。読者も銘肌せよ。諸君が北に向って歩いている時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小舎に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである。」

青空文庫 『津軽』 太宰治
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2282_15074.html

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あとがき【小説『津軽』本編 外ヶ浜町・今別町の旅の感想】

 小説『津軽』の中で太宰が源義経の伝説について語っていますが、以前、青森県と岩手県にまたがる「南部地方」を旅行したときにも、いたるところで「義経北方伝説」にまつわる看板を目にしました。

 だからなのでしょうか、「南部地方」には「義経鍋」なる食べものがあると言います。兜状の鉄鍋の中心で水炊きをし、周りの皿状の部分で馬肉を焼いて食べるというものらしいです。一説では、武士(もののふ)(かぶと)を鍋代わりにして肉を焼いて食べたのが始まりとされていますが、確か「ジンギスカン鍋」にも同じような()われがあったように記憶しています。



 「南部地方」は、万葉の歌にも詠まれるほどの名馬の産地でしたから、馬肉を食べる文化があるのは分かります。けれども何故「義経鍋」という名がついたのかは謎です。やはり「義経とチンギス・ハーンは同一人物説」が、北海道では「ジンギスカン鍋」、東北では「義経鍋」になったのでしょうか?

 義経伝説のことはともかくとして、今回のわたしの旅の目的の一つに、「太宰と同じものを食す」というものがありましたが、残念ながら「ホタテの貝焼き味噌」と「りんご酒」、正確に言うとシードルは頂いたものの、「トゲクリガニ」や「アンコウのフライ」は食べることができませんでした。

 次回青森県に行ったときは、この二つに加え「義経鍋」も食べてみようと秘かに心に決めた次第です。本当にどの地域に行っても海鮮が美味しく、太宰ならずとも酒飲みには最高の地と言えるでしょう。

太宰治【他の作品】

太宰治『家庭の幸福』【家庭というエゴイズムへの反逆!】
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