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太宰治『津軽』要約と聖地巡礼!【本編②-五所川原市・西海岸】

名著から学ぶ(文学の旅)
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はじめに【斜陽館に行くたびに想うこと】

 小説『津軽』の旅で津軽半島の北端、竜飛崎に行った太宰は、いよいよ金木の生家へ行きます。あらためて言うのもなんですが、太宰の生家は地主で、しかも相当な資産家です。「斜陽館」に行くたびに、(こんな家に生まれたら幸せだろうな?)なんて羨ましく思ったりします。

 けれども反面では、(辛いだろうな?)と思う自分もいます。豪家に生まれた者の宿命とでも言いましょうか、太宰は六男ですから跡取りほどではないにしても、兄弟の中でも学業優秀だったため、家族はもちろんのこと地域の人たちの期待は底知れないものがあったことでしょう。

 前回、太宰治『津軽』要約と聖地巡礼!【本編①-外ヶ浜町・今別町】 を載せましたが今回はその続きとなっています。

太宰治『津軽』要約と聖地巡礼!【序編―青森市・弘前市・大鰐町】

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太宰治『津軽』要約と聖地巡礼!【本編②-五所川原市・西海岸】

太宰治(だざいおさむ)とは?

 昭和の戦前戦後にかけて、多くの作品を残した小説家です。本名・津島(つしま)(しゅう)()。(1909~1948)
太宰治は、明治42(1909)年6月19日、青森県金木村(現・五所川原市金木町)の大地主の家に生まれます。

 青森中学、旧制弘前(ひろさき)高等学校(現・弘前大学)を経て東京帝国大学仏文科に進みますが後に中退します。この頃、井伏鱒二(いぶせますじ)に弟子入りをし、本格的な創作活動を始めました。しかし、在学中から非合法運動に関係したり、薬物中毒になったり、または心中事件を起こすなど、私的なトラブルは後を絶ちませんでした。

   井伏鱒二

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 一方、創作のほうでは『逆行』が第一回芥川賞の次席となるなど、人気作家への階段を上り始めます。昭和14(1939)年、井伏鱒二の世話で石原美知子と結婚し、一時期は平穏な時間を過ごし『富嶽百景』『走れメロス』駆込(かけこ)(うった)へ』など多くの佳作を書きます。

 戦後、『斜陽』で一躍、流行作家となりますが、遺作『人間失格』を残して、昭和23(1948)年6月13日、山崎富栄と玉川上水で入水自殺をします。(没年齢38歳)ちなみに、玉川上水で遺体が発見された6月 19日(誕生日でもある)を命日に、桜桃忌(おうとうき)が営まれています。

    太宰治

小説『津軽』について

 小説『津軽』は、昭和19(1944)年11月15日、小山書店より刊行されます。発行部数は3千部で定価は3円でした。紀行文のような形をとっていますが研究者の間では自伝的小説と見なされています。太宰の死後、数年経ってから小説『津軽』を読んだ作家・佐藤春夫は、次のように感想を述べています。

非常に感心した。あの作品には彼の欠点は全く目立たなくてその長所ばかりが現われているように思われる。他のすべての作品は全部抹殺(まっさつ)してしまってもこの一作さえあれば彼は不朽の作家の一人だと云えるであろう。
(『稀有の文才』佐藤春夫)

   佐藤春夫

佐藤春夫『稀有の文才』要約【桜桃忌に読みたい作品②!】

 太宰治が故郷・津軽を訪れたのは昭和19(1944)年の5月12日から6月5日にかけてで、小山書店の依頼を受けたものです。ちなみに旅の行程は下記のとおりとなっています。

東京発――青森経由、蟹田泊(中村貞次郎宅)――三厩泊――竜飛泊――蟹田泊帰(中村宅)――金木泊(生家)――五所川原、木造経由、深浦泊――鯵ヶ沢経由、五所川原泊――小泊泊――蟹田泊(中村宅)――東京帰着

小説『津軽』の旅 本編【五所川原市金木町】

  • 5月21日 蟹田のN君宅を昼頃に出て、定期船で青森港に行き、青森駅から汽車を乗り継いで夕方、金木(現・五所川原市)の生家へ。
  • 5月22日 雨のため外出せず生家に滞在。
  • 5月23日 長兄の長女・陽子とその婿、そしてアヤ(津島家の下男)と高流山へピクニックに行く。
  • 5月24日 前日の4人に加え、長兄夫婦とともに鹿の子川溜池へピクニックに行く。

「津軽」本州の東北端日本海方面の古称(こしょう)。斉明天皇の御代(みよ)(こし)の国司、阿倍比羅夫(あべのひらふ)出羽方面の蝦夷地を経略して(あき)()(今の秋田)渟代(ぬしろ)(今の能代)津軽に到り、遂に北海道に及ぶ。これ津軽の名の初見なり。(中略)

津軽の歴史は、あまり人に知られていない。陸奥も青森県も津軽と同じものだと思っている人さえあるようである。(中略)津軽というのは、日本全国から見てまことに(びょう)たる存在である。
(『津軽』本編 四 津軽平野 太宰治)

      太宰治の生家・斜陽館  

 5月21日の昼くらいまで蟹田のN君宅に滞在した太宰は、一人定期船に乗り、午後の3時に青森港に到着します。それから奥羽線で川部まで行き、五能線に乗り換えて五所川原市、そして津軽鉄道と乗り継いで、金木(現・五所川原市)に着いた頃にはすでに薄暗くなっていました。

 金木の生家に着いた太宰は、仏壇の中の父母に挨拶をし、それから二階へ上がり、長兄と次兄、そして長兄の長女・陽子のお婿さんに挨拶をして一緒に酒を飲み始めます。

    斜陽館の仏壇

 長兄とは青森県知事、衆議院議員を歴任した津島文治(ぶんじ)氏。次兄は当時金木銀行や津島家の経理を務め、後に金木町長になった津島栄治(えいじ)氏のことです。久しぶりの生家、そして兄弟との再会と言うものの、太宰はまるで他人の家を訪問したかのように兄たちの顔色を伺い続けます。

金木の生家では、気疲れがする。また、私は後で、こうして書くからいけないのだ。肉親を書いて、そうしてその原稿を売らなければ生きて行けないという悪い宿業(しゅくごう)を背負っている男は、神様から、そのふるさとを取りあげられる。

所詮、私は、東京のあばらやで仮寝して、生家のなつかしい夢を見て(した)い、あちこちうろつき、そうして死ぬのかも知れない。
(『津軽』本編 四 津軽平野 太宰治)

 「斜陽館」に訪れるのは三度目ですが、何度来てもその(こう)(そう)な建物には圧倒されてしまいます。作家・司馬遼太郎は『街道をゆく四十二 北のまほろば』で、「斜陽館」について次のように語っています。

     司馬遼太郎

大正時代の温泉場の大きな宿屋のように、ただ大きい。大きな棟一つで二階建の巨大な箱をまとめている。箱であらざるをえなかったのは、おそらく内部に鹿鳴館ふうの洋式構造をとり入れていることや、また十九室を内蔵せざるをえないためのものだったろう。当時(明治39年)の苦心の設計だったにちがいない。
(『街道をゆく四十二 北のまほろば』)

  斜陽館(2階の洋間)
    斜陽館の階段

・太宰治記念館「斜陽館」 青森県五所川原市金木町朝日山412-1 ※有料
 営業時間 9:00~17:00(最終入館16:30)
 休館日  12月29日

ひるすぎ、私は傘さして、雨の庭をひとりで眺めて歩いた。一木一(いちぼくいっ)(そう)も変っていない感じであった。(中略)池のほとりに立っていたら、チャボリと小さい音がした。見ると、蛙が飛び込んだのである。つまらない、あさはかな音である。

とたんに私は、あの、芭蕉(ばしょう)(おう)の古池の句を理解できた。(中略)余韻(よいん)も何も無い。ただの、チャボリだ。()わば世の中のほんの片隅の、実にまずしい音なのだ。貧弱な音なのだ。芭蕉はそれを聞き、わが身につまされるものがあったのだ。

古池や蛙飛び込む水の音。そう思ってこの句を見直すと、わるくない。いい句だ。(中略)月も雪も花も無い。風流もない。ただ、まずしいものの、まずしい命だけだ。
(『津軽』本編 四 津軽平野 太宰治)

  松尾芭蕉(左)と曾良

 わたしも「斜陽館」の庭を眺めながら、松尾芭蕉の句「古池や蛙飛び込む水の音」を考えてみたのですが、当然ながら蛙が池に飛び込むでもなく、ただ凡人と天才の差を感じ取っただけでした。

     斜陽館の庭 

読者もこれだけは信じて、覚えて置くがよい。津軽では、梅、桃、桜、林檎、梨、すもも、一度にこの頃、花が咲くのである。
(『津軽』本編 四 津軽平野 太宰治)

 5月23日、太宰は、長兄の長女・陽子とその婿、そしてアヤ(津島家の下男)の4人で高流山へピクニックに行きます。その途中、『津軽』の序編ではあまり良く言ってなかった岩木山を見た太宰は、思わず感動の声を発してしまいます。

「や!富士。いいなあ。」と私は叫んだ。富士ではなかった。津軽富士と呼ばれている一千六百二十五メートルの岩木山が、満目(まんもく)の水田の尽きるところに、ふわりと浮んでいる。実際、軽く浮んでいる感じなのである。

したたるほど(まっ)(さお)で、富士山よりもっと女らしく、十二単衣の裾を、銀杏(いちょう)の葉をさかさに立てたようにぱらりとひらいて左右の均斉(きんせい)も正しく、静かに青空に浮んでいる。決して高い山ではないが、けれども、なかなか、透きとおるくらいに嬋娟(せんけん)たる美女ではある。
(『津軽』本編 四 津軽平野 太宰治)

 高流山へピクニックに行った翌日の5月24日、前日の4人に長兄夫婦も加わり、鹿の子川溜池へピクニックに出かけます。

兄とこうして、一緒に外を歩くのも何年振りであろうか。十年ほど前、東京の郊外の或る野道を、兄はやはりこのように背中を丸くして黙って歩いて、それから数歩はなれて私は兄のそのうしろ姿を眺めては、ひとりでめそめそ泣きながら歩いた事があったけれど、あれ以来はじめての事かも知れない。

私は兄から、あの事件に()いてまだ許されているとは思わない。一生、だめかも知れない。ひびのはいった茶碗は、どう仕様も無い。どうしたって、もとのとおりにはならない。津軽人は特に、心のひびを忘れない種族である。この後、もう、これっきりで、ふたたび兄と一緒に外を歩く機会は、無いのかも知れないとも思った。
(『津軽』本編 四 津軽平野 太宰治)

 あの事件とは、いわゆる自殺未遂事件のことです。昭和5(1930)年11月28日、太宰は、鎌倉・腰越町の海岸で、銀座のカフェ「ホリウッド」の女給・田部シメ子(18歳)と心中自殺を図ります。

 けれどもシメ子だけが死亡し、太宰は生き残ります。太宰は、自殺(じさつ)幇助(ほうじょ)(ざい)に問われますが、兄の文治があらゆる手を尽くし、そのおかげで太宰は起訴猶予処分となります。「ひびのはいった茶碗」と兄弟関係について語る太宰ですが、翌年には妻子とともに再び金木の生家に疎開し、兄の庇護を受けることになります。

太宰治疎開の家(旧津島家新座敷)

 太宰治記念館「斜陽館」から徒歩で4分くらいのところに「太宰治疎開の家(旧津島家新座敷)」があります。この建物はかつて、津島家(斜陽館)と渡り廊下で繋がる離れで、津島家からは「新座敷」と呼ばれていました。戦後、現在の場所に移築されます。

 太宰は疎開期間の約1年4ヶ月を新座敷で暮らします。そしてこの場所で23の作品を書き上げています。

太宰が執筆の際に使っていた部屋

・太宰治疎開の家(旧津島家新座敷) 青森県五所川原市金木町朝日山317-9 ※有料
 営業時間 9:00~17:00
 休館日  第1、第3水曜日

小説『津軽』の旅 本編【つがる市(木造)・深浦町・鯵ヶ沢町】

  • 5月25日 五能線で木造町の父・源右衛門の生家を訪ね、その後深浦町へ行き、秋田旅館に宿泊する。
  • 5月26日 深浦町から五能線で鰺ヶ沢町へ行く。その後五所川原市へ行き、叔母のきゑ宅に宿泊。

鹿の子川溜池へ遊びに行ったその翌日、私は金木を出発して五所川原に着いたのは、午前十一時頃、五所川原駅で五能線に乗りかえ、十分経つか経たぬかのうちに、木造(きづくり)駅に着いた。ここは、まだ津軽平野の内である。

この町もちょっと見て置きたいと思っていたのだ。降りて見ると、古びた閑散(かんさん)な町である。人口四千余りで、金木町より(すくな)いようだが、町の歴史は古いらしい。(中略)ここは、私の父が生れた土地なのである。
(『津軽』本編 五 西海岸 太宰治)

 太宰が、「町の歴史が古いらしい。」と語っていますが、確かにそのとおりでしょう。木造町には亀ヶ岡遺跡があり、そこから誰もが知る遮光器土偶が出土しているのですから。太宰は『津軽』でそのことに触れていませんが、後に津軽の地を旅した作家・司馬遼太郎は次のように述べています。

亀ヶ岡文化は、灯台のように東北一円を照らしていただけでなく、遠く西日本にまで影響をあたえていたらしいのである。ここから出土した圧倒的なものは、土偶類であった。とくに “ 遮光器土偶 ” は素晴らしい。(中略)

JRの木造駅に出た。(中略)駅舎をみて、仰天する思いがした。遮光器土偶が、映画の怪獣のように駅舎正面いっぱいに立ちはだかっている。(中略)ともかくも、度肝をぬかれるような駅舎というものは、世界でもめずらしいのではないか。
(『街道をゆく四十二 北のまほろば』)

         JR木造駅

 もちろん現在の駅舎は太宰が来た当時とは違いますが、とにもかくにも、わたし自身も度肝をぬかれてしまいました。木造の父親の生家を訊ねた太宰は再び五能線に乗って深浦を目指します。

木造から、五能線に()って約三十分くらいで鳴沢、(あじ)ヶ沢を過ぎ、その辺で津軽平野もおしまいになって、それから列車は日本海岸に沿って走り、右に海を眺め左にすぐ出羽丘陵北端の余波(なごり)の山々を見ながら一時間ほど経つと、右の窓に大戸(おおど)()奇勝(きしょう)が展開する。

この辺の岩石は、すべて角稜質(かくりょうしつ)凝灰岩(ぎょうかいがん)とかいうものだそうで、その海蝕(かいしょく)を受けて平坦になった(はん)緑色(りょくしょく)の岩盤が江戸時代の末期にお化けみたいに海上に露出して、数百人の宴会を海浜に於いて(もよお)す事が出来るほどのお座敷になったので、これを千畳敷と名附け、(中略)この辺の海岸には奇岩(きがん)削立(さくりつ)し、怒濤にその脚を絶えず洗われている
(『津軽』本編 五 西海岸 太宰治)

  千畳敷海岸(深浦町)

 「五能線」とは、青森県南津軽郡田舎館村の川部駅と秋田県能代市の東能代駅を結ぶJR東日本の鉄道路線のことです。観光列車「リゾートしらかみ」に乗り、車窓から太宰と同じ景色を眺めたのですが、ちょうど夕陽が日本海に沈む時間帯で、その絶景に思わず見惚れてしまいました。

   リゾートしらかみ
  車窓から見た深浦海岸

深浦町は、(中略)旧津軽領西海岸の南端の港である。江戸時代、青森、鯵ヶ沢、十三などと共に四浦の町奉行の置かれたところで、津軽藩の最も重要な港の一つであった。丘間(きゅうかん)に一小湾(しょうわん)をなし、水深く波穏やか、吾妻(あづま)(はま)()(がん)、弁天嶋、行合岬など一とおり海岸の名勝がそろっている。しずかな町だ。(中略)

駅からまっすぐに一本路をとおって、町のはずれに、円覚寺(えんがくじ)の仁王門がある。この寺の薬師堂は、国宝に指定されているという。(中略)私は行きあたりばったりの宿屋へ這入(はい)り、汚い部屋に案内され、ゲートルを解きながら、お酒を、と言った。
(『津軽』本編 五 西海岸 太宰治)

    円覚寺仁王門
   太宰治ふかうら文学館(旧秋田屋旅館)

・太宰治ふかうら文学館 青森県西津軽郡深浦町深浦浜町134 ※有料
 営業時間 8:30~17:00
 定休日  毎週月曜日・年末年始

 太宰が国宝と語る円覚寺の仁王門ですが、現在は国の重要文化財に指定されています。ちなみに太宰が宿泊した旧秋田屋旅館は改築され、「太宰の宿 ふかうら文学館」として太宰関連の資料を展示しています。翌朝深浦町を出発した太宰は鰺ヶ沢町で途中下車します。

 鰺ヶ沢町の常夜灯

鰺ヶ沢。私は、深浦からの帰りに、この古い港町に立寄った。この町あたりが、津軽の西海岸の中心で、江戸時代には、ずいぶん栄えた港らしく、津軽の米の大部分はここから積出され、また大阪廻りの和船の発着所でもあったようだし、水産物も豊富で、ここの浜にあがったさかなは、御城下をはじめ、ひろく津軽平野の各地方に於ける家々の食膳を(にぎ)わしたものらしい。
(『津軽』本編 五 西海岸 太宰治)

小説『津軽』の旅 本編【五所川原市・中泊町】

  • 5月26日 鰺ヶ沢町町から五所川原市へ行き、叔母のきゑ宅に宿泊。
  • 5月27日 津軽鉄道で中里まで行き、バスに乗り換えて小泊まで行き、タケと再会を果たす。その夜はタケの家に泊まる。

 鰺ヶ沢町で昼食をとった太宰は再び五能線に乗り、午後の2時頃、五所川原駅に着き、その足で中畑慶吉(津島家に信頼された五所川原の呉服商)宅を訪問します。その後、中畑氏の長女・けい子の案内で岩木川を見に行きます。

「これから、ハイカラ(ちょう)へ行きたいと思ってるんだけど。」(中略)五所川原の私の叔母の家族が、そのハイカラ町に住んでいるのである。私の幼年の頃に、その街がハイカラ町という名前であったのだけれども、いまは大町とか何とか、別な名前のようである。(中略)

河原一面の緑の草から陽炎がのぼって、何だか眼がくるめくようだ。そうして岩木川が、両岸のその緑の草を舐めながら、白く光って流れている。(中略)大川の土手の陰に、林檎畑があって、白い粉っぽい花が満開である。私は林檎の花を見ると、おしろいの匂いを感じる。
(『津軽』本編 五 西海岸 太宰治)

 「ハイカラ町」と太宰が語る大町とは、いわゆる五所川原市の中心街のことです。青森県を代表する夏祭りの一つに五所川原の「立佞(たちね)()()」がありますが、現在の大町には「立佞武多の館」が建てられ、3台の大型佞武多が展示されています。

立佞武多(立佞武多の館)

・立佞武多の館 青森県五所川原市大町506-10 ※有料
 営業時間 9:00~17:00
 休館日  12月31日15時終了・1月1日休館

このたび私が津軽へ来て、ぜひとも、逢ってみたいひとがいた。私はその人を、自分の母だと思っているのだ。三十年ちかくも逢わないでいるのだが、私は、そのひとの顔を忘れない。私の一生は、その人に依って確定されたといっていいかも知れない。
(『津軽』本編 五 西海岸 太宰治)

 太宰が逢いたいと願う人とは、越野(近村)タケのことです。タケは、太宰の子守を3歳から8歳までの5年間務め、その後、小泊村の家へお嫁に行き、以後太宰とは30年近く逢っていませんでした。

 けい子と岩木川に行った太宰は叔母・きゑの家に行きます。けれども叔母はあいにく弘前市にいて、叔母の長女、太宰にとっては従妹のりゑが太宰をもてなします。この日叔母の家に宿泊した太宰は翌朝、津軽鉄道を北上して中里町へ行き、バスに乗り換えて小泊村(現・中泊町)を目指します。

  津軽鉄道の走れメロス号

ぼんやり窓外の津軽平野を眺め、やがて金木を過ぎ、芦野(あしの)公園(こうえん)という踏切番の小屋くらいの小さい駅に着いて、(中略)こんなのどかな駅は、全国にもあまり類例が無いに違いない。(中略)汽車は、落葉松(からまつ)の林の中を走る。この辺は、金木の公園になっている。沼が見える。芦の湖という名前である。
(『津軽』本編 五 西海岸 太宰治)

        旧芦野公園駅舎
  旧芦野公園駅舎の室内

 津軽鉄道と言えばストーブ列車が有名です。五所川原市には桜の時期に行ったのでもちろん乗れませんでしたが、今度はぜひ冬の時期に訪問してストーブ列車に乗りたいと思います。

 芦野公園は思いのほか広く、太宰治の像や文学碑もあり見どころ満載です。津軽鉄道の旧芦野公園駅舎は現在「赤い屋根の喫茶店 駅舎」という名で営業しています。驚くことにここでも津軽鉄道の乗車券が買えて、この場所からも汽車にも乗れるそうです。

   太宰治像(芦野公園)

やがて、十三湖が冷え冷えと白く目前に展開する。浅い真珠貝に水を盛ったような、気品はあるがはかない感じの湖である。波一つない。船も浮んでいない。ひっそりしていて、そうして、なかなかひろい。人に捨てられた孤独の水たまりである。流れる雲も飛ぶ鳥の影も、この湖の面には写らぬというような感じだ。
(『津軽』本編 五 西海岸 太宰治)

 十三湖は室町時代、十三(とさ)(みなと)と呼ばれ、津軽の豪族安藤氏の拠点として繁栄を誇っていました。このことは1991年からの発掘調査によってあきらかになっています。太宰と同じ道をたどった司馬遼太郎は『街道をゆく四十二 北のまほろば』で、次のように語っています。

太宰が、十三湖をバスから遠望して、真珠貝の貝殻を裏がえしにして水を盛ったようだ、といったことが、よく理解できた。心もとなく、はかなく、寄る()ない美しさといっていい。むろん、太宰もまた、十三湊の古き世の栄えを知っていた。(中略)

しかしかれの目には十三湖は、なんともさびしかった。(中略)太宰もむろんこのさびしさの砂の下に、十二世紀にはじまり十五世紀におわる繁華の都市が眠っていることは知らなかった。

風景は、日本の水田風景のように、自然が人間に飼い慣らされてできあがるものと、太古以来、人の手の加わらないものとがある。太宰は、十三湖は後者だといっているかのようである。「人に捨てられた孤独の水たまり」とこの人はいう。
(『街道をゆく四十二 北のまほろば』)

 お昼すこし前に小泊村(現・中泊町)に着いた太宰は早速道行く人にタケの家を尋ねます。太宰は教えられた金物屋に行きますが鍵がかけられています。筋向いの煙草屋に聞くと、運動会に行ったとのことでした。太宰は急いで国民学校の運動場に行き、タケを探し回ります。

まるで何かに憑かれたみたいに、たけはいませんか、金物屋のたけはいませんか、と尋ね歩いて、運動場を二度もまわったが、わからなかった。(中略)(えん)が無いのだ。神様が逢うなとおっしゃっているのだ。帰ろう。私は、ジャンパーを着て立ち上った。(中略)

考えてみると、いかに育ての親とはいっても、露骨に言えば使用人だ。女中じゃないか。お前は、女中の子か。男が、いいとしをして、昔の女中を慕って、ひとめ逢いたいだのなんだの、それだからお前はだめだというのだ。兄たちがお前を、下品なめめしい奴と情無く思うのも無理がないのだ。
(『津軽』本編 五 西海岸 太宰治)

 太宰はタケと逢うことを諦めて帰ろうとします。けれども未練の残る太宰はもう一度金物屋に行ってみます。すると店の戸は開いていて十四、五の少女がいます。少女はタケの娘でした。太宰は事情を話し、少女にタケの居場所まで連れて行ってもらい、念願叶ってタケとの再会を果たします。太宰とタケは並んで座って運動会を見物します。

「さ、はいって運動会を。」と言って、たけの小屋に連れて行き、「ここさお坐りになりせえ。」とたけの傍に坐らせ、たけはそれきり何も言わず、きちんと正座してそのモンペの丸い膝にちゃんと両手を置き、子供たちの走るのを熱心に見ている。

けれども、私には何の不満もない。まるで、もう、安心してしまっている。足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に、一つも思う事が無かった。もう、何がどうなってもいいんだ、というような全く無憂(むゆう)無風(むふう)の情態である。平和とは、こんな気持の事を言うのであろうか。
(『津軽』本編 五 西海岸 太宰治)

小説「津軽」の像(小説「津軽」の像記念館)

 タケと太宰は二人で竜神様の八重桜を見に行きます。着くとそれまで無言だったタケは急に能弁になって話し始めます。

「久し振りだなあ。はじめは、わからなかった。(中略)修治だ、と言われて、あれ、と思ったら、それから、口がきけなくなった。運動会も何も見えなくなった。

三十年ちかく、たけはお前に逢いたくて、逢えるかな、逢えないかな、とそればかり考えて(くら)してたのを、こんなにちゃんと大人になって、たけを見たくて、はるばると小泊までたずねて来てくれたかと思うと、ありがたいのだか、うれしいのだか、かなしいのだか、(中略)

手かずもかかったが、()ごくてのう、それがこんなにおとなになって、みな夢のようだ。(中略)よく来たなあ。」
(『津軽』本編 五 西海岸 太宰治)

 「私の生きかたの手本とすべき純粋の津軽人を捜し当てたくて津軽へ来たのだ。」
このように旅の目的について語っていた太宰ですが、小説『津軽』のラストは、いわゆる自分なりの答えを導き出したがごとく次のように語られます。

ああ、私は、たけに似ているのだと思った。きょうだい中で、私ひとり、粗野で、がらっぱちのところがあるのは、この悲しい育ての親の影響だったという事に気附いた。私は、この時はじめて、私の育ちの本質をはっきり知らされた。私は断じて、上品な育ちの男ではない。どうりで、金持ちの子供らしくないところがあった。

見よ、私の忘れ得ぬ人は、青森に於けるT君であり、五所川原に於ける中畑さんであり、金木に於けるアヤであり、そうして小泊に於けるたけである。アヤは現在も私の家に仕えているが、他の人たちも、そのむかし一度は、私の家にいた事がある人だ。私は、これらの人と友である。
(『津軽』本編 五 西海岸 太宰治)

 つまり、「私の生きかたの手本とすべき純粋の津軽人」は、意外にも身近なところにいたと、太宰はこの旅で気づくことができたのでしょう。

小説「津軽」の像記念館(中泊町)

・小説「津軽」の像記念館 青森県北津軽郡中泊町小泊砂山1080-1 ※有料
 営業時間 4月~10月 9:00~16:30
      11月~3月 9:00~16:00
 休館日  4月~9月  休館日なし
      10月~3月 毎週月・火曜日・年末年始

青空文庫 『津軽』 太宰治
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あとがき【小説『津軽』本編 五所川原市・西海岸の旅の感想】

 三度足を運び、何とか小説『津軽』における太宰の足跡をたどり終えたわけですが、単純に太宰と同じ景色を見て回ったというだけで、「純粋の津軽人」との交流も少なく、悔いの残る旅だったと後になってから思います。

 けれども桜の満開の時期、そして初夏の頃に二回と、天候にも恵まれ美しい自然を満喫できました。移動手段はレンタカーが多かったですが、「リゾートしらかみ」や「走れメロス号」という列車にも乗れて十分に太宰気分は味わえました。

 とは言うものの、やはりもっともっと時間をかけて旅すれば良かったなと思います。いかんせん限られた時間と少ない資金での旅行ですので、そう思い通りにはいきません。

 太宰は小説『津軽』を次の言葉で締めくくっています。

「私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。」

 わたしの小説『津軽』の旅も、「命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。」というところでしょうか。

太宰治【他の作品】

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太宰治『善蔵を思う』そしてわたしは、亡き友人を思う。
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