はじめに【宮沢賢治の樺太(サハリン)旅行】
大正12(1923)年7月末から約二週間にわたって、宮沢賢治は、樺太(サハリン)へ鉄道旅行に出かけます。旅行の目的は農学校の教え子の就職に関するものでしたが、同時に前年の大正11(1922)年11月27日に亡くなった、妹・トシを探し求める旅でもありました。
この旅で賢治は、『青森挽歌』『オホーツク挽歌』『樺太鉄道』『鈴谷平原』『噴火湾(ノクターン)』からなる、『オホーツク挽歌』詩群を書き上げますが、いずれの作品もトシの死との関連性が認められます。
ちなみに挽歌とは、死者を葬る時に棺を挽く者が謡う歌、葬送の歌、死を悲しむ歌のことです。今回ご紹介する『青森挽歌』は、青森に向かう夜行列車内でスケッチされたもので、賢治の悲しみと葛藤が生々しく表現されています。
宮沢賢治『青森挽歌』全文と解説【妹トシの面影を探し求めて!】
宮沢賢治(みやざわけんじ)とは?
宮沢賢治(作家・詩人1896~1933)は、明治29年に岩手県の花巻市に富商の長男として生まれます。盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)を卒業後は研究生として残り、稗貫郡(現・花巻市)の土性調査にあたりました。
大正10(1921)年からの5年間は、花巻農学校の教師を務めながら『注文の多い料理店』などの童話作品を刊行していきます。けれども全く売れず、父親から300円を借りて200部買い取ったという逸話が残されています。
大正15(1926)年、花巻農学校を依願退職し、百姓の道を志しますが、賢治の農業は「金持ちの道楽」と、陰口を叩かれたりするなど、その道は険しいものでした。同時期、『羅須地人協会』を設立し、農業の技術指導や、レコードコンサートの開催など、農民の生活向上を目指して邁進します。
しかし、そんな賢治の理想も結局は叶わぬまま、肺結核が悪化し、病臥生活を送るようになります。最後の5年は病床で、作品の創作や改稿を行っていましたが、昭和8(1933)年9月に、急性肺炎により37歳の若さで亡くなりました。
生前刊行された作品は、詩集『春と修羅』と童話集『注文の多い料理店』(1924)のみです。『銀河鉄道の夜』や『風の又三郎』など、宮沢賢治の代表作といわれる作品は、死後に刊行され、その多くは現代のわたしたちにも影響を与えてくれています。
また、作品中に多く登場する架空の理想郷に、郷里の岩手県をモチーフとして「イーハトーブ」と名付けたことでも知られています。
宮沢賢治の人生を詳しく知りたい方は 宮沢賢治『略年譜』【心象中の理想郷を追い求めたその生涯!】、また、宮沢賢治に関係する人々のことを知りたい方は、宮沢賢治『雨ニモマケズ』現代語訳【賢治に影響を与えた人々!】 を、ご覧になって下さい。
羅須地人協会(らすちじんきょうかい)とは?
大正15(1926)年に、宮沢賢治が現在の岩手県花巻市に設立した私塾のことです。
若い農民たちに、植物や土壌といった農業と関連する科学的知識を教え、そのほか、自らが唱える「農民芸術」の講義も行いました。
しかしその活動も、保守的な農民の理解は得られず、翌年には休止してしまいます。この私塾がこの名称で活動したのは1926年8月から翌年3月までの約7ヶ月でしたが、その後も賢治は農業指導の活動を続けます。特に農家に出向いての施肥指導はよく知られています。
イーハトーブとは?
イーハトーブとは宮沢賢治による造語で、賢治の心象世界中にある理想郷を指す言葉です。この造語は賢治の作品中に繰り返し登場します。
賢治が生前に出版した唯一の童話集である『イーハトヴ童話 注文の多い料理店』の宣伝用広告ちらしの文章は、「イーハトヴ」について以下のような説明がなされています。
イーハトヴとは一つの地名である。強て、その地点を求むるならば、大小クラウスたちの耕していた、野原や、少女アリスが辿った鏡の国と同じ世界の中、テパーンタール砂漠の遥かな北東、イヴン王国の遠い東と考えられる。実にこれは、著者の心象中に、この様な状景をもって実在したドリームランドとしての日本岩手県である。
賢治の妹、宮沢トシ(とし子)について
宮沢トシは、明治31(1898)年、賢治のふたつ違いの妹として生まれます。子供の頃から成績優秀で、花巻川口尋常高等小学校のとき模範生とて表彰されます。またその後に進学した花巻高等女学校では、1年生から卒業まで主席でした。
大正4 (1915)年、トシは東京の日本女子大学校家政学部予科に入学します。同じ春、賢治は盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)に入学しています。病魔がトシを襲ったのは、大正7(1918)年の暮れのことでした。
日本女子大学校家政学部3年に在学中だったトシは、永楽病院(東京帝国大学医科大学附属医院分院)に入院します。その知らせを聞いた賢治は母と一緒に花巻から上京し、下宿をしながら翌年3月まで、献身的に看病にあたります。
その後、花巻に戻ったトシは療養生活に入ります。一時期は小康を得て、母校、花巻高等女学校の教諭心得になります。しかし、大正10(1921)年9月、喀血の症状が見られ、その年に退職し、翌年の大正11(1922)年11月27日、結核のため25歳で、短い生涯を終えます。
『青森挽歌』【全文と解説】
こんなやみよののはらのなかをゆくときは
客車のまどはみんな水族館の窓になる
(乾いたでんしんばしらの列が
せはしく遷つてゐるらしい
きしやは銀河系の玲瓏レンズ
巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる)
りんごのなかをはしつてゐる
けれどもここはいつたいどこの停車場だ
枕木を焼いてこさへた柵が立ち
(八月の よるのしじまの 寒天凝膠)
支手のあるいちれつの柱は
なつかしい陰影だけでできてゐる
黄いろなラムプがふたつ点き
せいたかくあをじろい駅長の
真鍮棒もみえなければ
じつは駅長のかげもないのだ
(その大学の昆虫学の助手は
こんな車室いつぱいの液体のなかで
油のない赤髪をもじやもじやして
かばんにもたれて睡つてゐる)
わたくしの汽車は北へ走つてゐるはずなのに
ここではみなみへかけてゐる
※玲瓏(れいろう) 美しく照り輝くさま。玉などが、さえたよい音で鳴るさま。
(解説)
詩の冒頭は、まるで童話『銀河鉄道の夜』のようです。そしてその汽車は、「りんごの中を走っている」とありますが、後に「いよいよあやしい苹果の匂を発散し」という一節も登場することから、現実とは異なる怪しい空間の象徴として「りんご」が使用されているものと考えられます。
そして汽車は北に向かっている筈なのに「南にかけている」とありますが、『銀河鉄道の夜』の汽車が、南十字星(サウザンクロス駅)へと向かうように、死者、つまりは妹のトシが向かった方角は「南」と、賢治が考えていたと想像できます。
焼杭の柵はあちこち倒れ
はるかに黄いろの地平線
それはビーアの澱をよどませ
あやしいよるの 陽炎と
さびしい心意の明滅にまぎれ
水いろ川の水いろ駅
(おそろしいあの水いろの空虚なのだ)
汽車の逆行は希求の同時な相反性
こんなさびしい幻想から
わたくしははやく浮びあがらなければならない
そこらは青い孔雀のはねでいつぱい
真鍮の睡さうな脂肪酸にみち
車室の五つの電燈は
いよいよつめたく液化され
(考へださなければならないことを
わたくしはいたみやつかれから
なるべくおもひださうとしない)
今日のひるすぎなら
けはしく光る雲のしたで
まつたくおれたちはあの重い赤いポムプを
ばかのやうに引つぱつたりついたりした
おれはその黄いろな服を着た隊長だ
だから睡いのはしかたない
(おゝおまへ せはしいみちづれよ
どうかここから急いで去ら な い で く れ
⦅尋常一年生 ドイツの尋常一年生⦆
いきなりそんな悪い叫びを
投げつけるのはいつたいたれだ
けれども尋常一年生だ
夜中を過ぎたいまごろに
こんなにぱつちり眼をあくのは
ドイツの尋常一年生だ)
あいつはこんなさびしい停車場を
たつたひとりで通つていつたらうか
どこへ行くともわからないその方向を
どの種類の世界へはひるともしれないそのみちを
たつたひとりでさびしくあるいて行つたらうか
(草や沼やです
一本の木もです)
⦅ギルちやんまつさをになつてすわつてゐたよ⦆
⦅こおんなにして眼は大きくあいてたけど
ぼくたちのことはまるでみえないやうだつたよ⦆
⦅ナーガラがね 眼をじつとこんなに赤くして
だんだん環をちひさくしたよ こんなに⦆
⦅し 環をお切り そら 手を出して⦆
⦅ギルちやん青くてすきとほるやうだつたよ⦆
⦅鳥がね たくさんたねまきのときのやうに
ばあつと空を通つたの
でもギルちやんだまつてゐたよ⦆
⦅お日さまあんまり変に飴いろだつたわねえ⦆
⦅ギルちやんちつともぼくたちのことみないんだもの
ぼくほんたうにつらかつた⦆
⦅さつきおもだかのとこであんまりはしやいでたねえ⦆
⦅どうしてギルちやんぼくたちのことみなかつたらう
忘れたらうかあんなにいつしよにあそんだのに⦆
(解説)
賢治は、妹トシの死から立ち直れずに、恐ろしい幻想まで考えてしまう自分自身を嘆いています。そしてトシ(死者)の向かった方向に思いを馳せますが、一転それを断ち切るかのように、心象世界の会話(ギルちゃんに関するやり取り)が聴こえてきます。
ちなみのその心象世界の会話は、(草や沼やです 一本の木もです)と〈一重括弧〉、そしてギルちゃんに関するやり取りが〈二重括弧〉に分けられています。この表現方法により、未だに悪夢の中を彷徨っている、賢治の苦しみの深さを窺い知ることができます。
かんがへださなければならないことは
どうしてもかんがへださなければならない
とし子はみんなが死ぬとなづける
そのやりかたを通つて行き
それからさきどこへ行つたかわからない
それはおれたちの空間の方向ではかられない
感ぜられない方向を感じようとするときは
たれだつてみんなぐるぐるする
⦅耳ごうど鳴つてさつぱり聞けなぐなつたんちやい⦆
さう甘えるやうに言つてから
たしかにあいつはじぶんのまはりの
眼にははつきりみえてゐる
なつかしいひとたちの声をきかなかつた
にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり
それからわたくしがはしつて行つたとき
あのきれいな眼が
なにかを索めるやうに空しくうごいてゐた
それはもうわたくしたちの空間を二度と見なかつた
それからあとであいつはなにを感じたらう
それはまだおれたちの世界の幻視をみ
おれたちのせかいの幻聴をきいたらう
わたくしがその耳もとで
遠いところから声をとつてきて
そらや愛やりんごや風 すべての勢力のたのしい根源
万象同帰のそのいみじい生物の名を
ちからいつぱいちからいつぱい叫んだとき
あいつは二へんうなづくやうに息をした
白い尖つたあごや頬がゆすれて
ちひさいときよくおどけたときにしたやうな
あんな偶然な顔つきにみえた
けれどもたしかにうなづいた
⦅ヘツケル博士!
わたくしがそのありがたい証明の
任にあたつてもよろしうございます⦆
仮睡硅酸の雲のなかから
凍らすやうなあんな卑怯な叫び声は……
(宗谷海峡を越える晩は
わたくしは夜どほし甲板に立ち
あたまは具へなく陰湿の霧をかぶり
からだはけがれたねがひにみたし
そしてわたくしはほんたうに挑戦しよう)
たしかにあのときはうなづいたのだ
※ヘツケル博士 ドイツの生物学者、エルンスト・ヘッケル(1834~1919)のこと。
(解説)
ここではトシの臨終の場面が具体的に回想されています。トシは最初聴覚を失い、それから呼吸が止まり、脈を打たなくなっていきます。賢治はこのとき病床を離れていて、急いでトシの枕元まで駆けつけます。
けれどもこの時すでに、トシの視覚は失われていました。そして意思疎通もままならなくなったトシの耳元で、賢治は、「万象同帰のそのいみじい生物の名」を力一杯に叫びます。つまり “ 南無妙法蓮華経 ” を大きな声で唱えます。トシはそんな賢治に応えるかのように、二回頷くように息をします。
そして、(宗谷海峡を越える晩は(中略)挑戦しよう)のところは、賢治が、宗谷海峡で何かを決行しようと考えていたことを知ることができます。それは、『宗谷挽歌』の一節に、「海に封ぜられても悔いてはいけない」とあるように、命を賭したものでした。
「いみじい生物の名」
(『宮沢賢治大辞典』「青森挽歌」の項 渡辺芳紀編より)
「いみじい生物の名」とは大乗経典の〈妙法蓮華経〉のこと。賢治は宇宙の本体を〈妙法蓮華経〉そのものと考えており、宇宙全体を一つの生物(釈迦の身体)と捉えようとする認識が見える。
そしてあんなにつぎのあさまで
胸がほとつてゐたくらゐだから
わたくしたちが死んだといつて泣いたあと
とし子はまだまだこの世かいのからだを感じ
ねつやいたみをはなれたほのかなねむりのなかで
ここでみるやうなゆめをみてゐたかもしれない
そしてわたくしはそれらのしづかな夢幻が
つぎのせかいへつゞくため
明るいいゝ匂のするものだつたことを
どんなにねがふかわからない
ほんたうにその夢の中のひとくさりは
かん護とかなしみとにつかれて睡つてゐた
おしげ子たちのあけがたのなかに
ぼんやりとしてはひつてきた
⦅黄いろな花こ おらもとるべがな⦆
たしかにとし子はあのあけがたは
まだこの世かいのゆめのなかにゐて
落葉の風につみかさねられた
野はらをひとりあるきながら
ほかのひとのことのやうにつぶやいてゐたのだ
そしてそのままさびしい林のなかの
いつぴきの鳥になつただらうか
I’estudiantina を風にききながら
水のながれる暗いはやしのなかを
かなしくうたつて飛んで行つたらうか
やがてはそこに小さなプロペラのやうに
音をたてて飛んできたあたらしいともだちと
無心のとりのうたをうたひながら
たよりなくさまよつて行つたらうか
わたくしはどうしてもさう思はない
なぜ通信が許されないのか
許されてゐる そして私のうけとつた通信は
母が夏のかん病のよるにゆめみたとおなじだ
どうしてわたくしはさうなのをさうと思はないのだらう
※I’estudiantina(レストゥディアンティーナ) ワルトトイフェルによる、P. Lacome作曲の有名なスペイン二重奏曲に基づいたワルツの組曲。
(解説)
臨終後もしばらくトシの意識がこの世界に留まっていたのではないか?といった賢治の願望が語られ、次妹のシゲが、トシの臨終の晩に見た夢にトシが現れ、⦅黄いろな花こ おらもとるべがな⦆と呟いたという逸話が明かされます。
つまりトシが現世に留まり、シゲの夢の中に入ってきたのではないかと解釈しているのです。そしてトシが鳥になったと想像し、トシとの間に「なぜ通信が許されないのか」と嘆きながらも、「許されている(筈だ)」と再び自身の願望を語ります。
それらひとのせかいのゆめはうすれ
あかつきの薔薇いろをそらにかんじ
あたらしくさはやかな感官をかんじ
日光のなかのけむりのやうな羅をかんじ
かがやいてほのかにわらひながら
はなやかな雲やつめたいにほひのあひだを
交錯するひかりの棒を過ぎり
われらが上方とよぶその不可思議な方角へ
それがそのやうであることにおどろきながら
大循環の風よりもさはやかにのぼつて行つた
わたくしはその跡をさへたづねることができる
そこに碧い寂かな湖水の面をのぞみ
あまりにもそのたひらかさとかがやきと
未知な全反射の方法と
さめざめとひかりゆすれる樹の列を
ただしくうつすことをあやしみ
やがてはそれがおのづから研かれた
天の瑠璃の地面と知つてこゝろわななき
紐になつてながれるそらの楽音
また瓔珞やあやしいうすものをつけ
移らずしかもしづかにゆききする
巨きなすあしの生物たち
遠いほのかな記憶のなかの花のかをり
それらのなかにしづかに立つたらうか
(解説)
ここでは畜生界の様子、つまり愚かな人間界が語られ、続けてトシが天上界に転生した様子が語られています。賢治は、「その跡をさへたづねることができる」としながらも、次からは一転して、地獄界に堕ちたトシの様子を想像していきます。
それともおれたちの声を聴かないのち
暗紅色の深くもわるいがらん洞と
意識ある蛋白質の砕けるときにあげる声
亜硫酸や笑気のにほひ
これらをそこに見るならば
あいつはその中にまつ青になつて立ち
立つてゐるともよろめいてゐるともわからず
頬に手をあててゆめそのもののやうに立ち
(わたくしがいまごろこんなものを感ずることが
いつたいほんたうのことだらうか
わたくしといふものがこんなものをみることが
いつたいありうることだらうか
そしてほんたうにみてゐるのだ)と
斯ういつてひとりなげくかもしれない……
わたくしのこんなさびしい考は
みんなよるのためにできるのだ
夜があけて海岸へかかるなら
そして波がきらきら光るなら
なにもかもみんないいかもしれない
けれどもとし子の死んだことならば
いまわたくしがそれを夢でないと考へて
あたらしくぎくつとしなければならないほどの
あんまりひどいげんじつなのだ
感ずることのあまり新鮮にすぎるとき
それをがいねん化することは
きちがひにならないための
生物体の一つの自衛作用だけれども
いつでもまもつてばかりゐてはいけない
(解説)
地獄界を想像した賢治は、「わたくしのこんなさびしい考はみんなよるのためにできるのだ」と、自分の想像を否定し、未だトシの死が夢のようで現実的ではないと嘆いています。
ほんたうにあいつはここの感官をうしなつたのち
あらたにどんなからだを得
どんな感官をかんじただらう
なんべんこれをかんがへたことか
むかしからの多数の実験から
倶舎がさつきのやうに云ふのだ
二度とこれをくり返してはいけない
おもては軟玉と銀のモナド
半月の噴いた瓦斯でいつぱいだ
巻積雲のはらわたまで
月のあかりはしみわたり
それはあやしい蛍光板になつて
いよいよあやしい苹果の匂を発散し
なめらかにつめたい窓硝子さへ越えてくる
青森だからといふのではなく
大てい月がこんなやうな暁ちかく
巻積雲にはひるとき……
※感官(かんかん) 感覚器官。 また、その働き。
※巻積雲(けんせきうん) うろこ状に配列する雲。俗にまだら雲、さば雲、いわし雲といわれる。
(解説)
賢治は、「ここの感官」、つまりトシがこの世界での感官を失ったのちに、次の世界でどんな身体と感官を手に入れたのだろうと、繰り返し考えたと語ります。けれども到底分かることではなく、車窓の景色に目を転じています。
⦅あの顔いろは少し青かつたよ⦆
だまつてゐろ
おれのいもうとの死顔が
まつ青だらうが黒からうが
きさまにどう斯う云はれるか
あいつはどこへ堕ちようと
もう無上道に属してゐる
力にみちてそこを進むものは
どの空間にでも勇んでとびこんで行くのだ
ぢきもう東の鋼もひかる
ほんたうにけふの……きのふのひるまなら
おれたちはあの重い赤いポムプを……
⦅もひとつきかせてあげよう
ね じつさいね
あのときの眼は白かつたよ
すぐ瞑りかねてゐたよ⦆
まだいつてゐるのか
もうぢきよるはあけるのに
すべてあるがごとくにあり
かゞやくごとくにかがやくもの
おまへの武器やあらゆるものは
おまへにくらくおそろしく
まことはたのしくあかるいのだ
⦅みんなむかしからのきやうだいなのだから
けつしてひとりをいのつてはいけない⦆
ああ わたくしはけつしてさうしませんでした
あいつがなくなつてからあとのよるひる
わたくしはただの一どたりと
あいつだけがいいとこに行けばいいと
さういのりはしなかつたとおもひます
※無上道(むじょうどう) 仏語。 この上なくすぐれた道。 仏道。 最高の悟り。
(解説)
車窓の景色を見ている賢治を、再び幻聴が襲います。どんなにトシのことで思い悩むのを止めようと思ってもその試みは脆く崩れ、トシに関する苦悩へと引き戻されます。そしてトシは、「どこへ堕ちようともう無上道に属してゐる」と語ります。
つまり例え地獄界に堕ちようとも、トシなら、「勇んでとびこんで行く」と、賢治は、自分自身の心に言い聞かせています。最後に、「けつしてひとりをいのつてはいけない」と、トシ一人の為に祈るのではなく、全ての人たちの為に祈っていたと語ります。
この部分もまた、童話『銀河鉄道の夜』の中のジョバンニの台詞、「みんなのほんとうのさいわいをさがしに行く」にも通じる、宮沢賢治にとって理想の人物像、つまりは賢治自身の今後の決意表明とも受け取ることができます。
詩集『春と修羅』について
宮沢賢治が生前に唯一刊行された詩集として知られています。詩型序文一、詩八章六九編を収録し、その詩には方言や農民の日常会話を取り入れられていて、また、豊富な語彙で、独特の宇宙観、宗教観にもとづく詩的世界が展開されています。
没後には『春と修羅』第二、第三、第四が編まれ、それら全体をこの名で呼ぶこともあります。自ら「心象スケッチ」と呼んだ彼の詩は、今の時代の人々にも愛され続けています。
青空文庫 『春と修羅』 宮沢賢治
https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1058_15403.html
あとがき【『青森挽歌』の感想を交えて】
宮沢賢治の作品の多くは、どこかで「生と死」を意識して創作されているように感じます。誰にでも等しく「死」というものは必ず訪れます。ときには自分にとって大切な人の「死」に遭遇することもあるでしょう。
そんなとき、どのように向き合い、どのように受け取ればよいのか、また今後の人生を、どのように生きたらよいのか、ついつい思い悩んだりするものです。さらに叶わないことを知りながらも再会を願ったりするものです。
『青森挽歌』が書かれたのは、大正12(1923)年7月末です。妹のトシが亡くなったのは前年の大正11(1922)年11月27日で、死からは約8ヶ月が経過しています。それでも激しい喪失感が綴られているのですから、賢治にとってトシの存在がどれほど大きかったことか分かるでしょう。
「死の現実」に直面することで人は成長していきます。宮沢賢治もまた、そんな苦しみを乗り越えたからこそ、『銀河鉄道の夜』という名作を生み出したと言えます。ともかくとして『青森挽歌』は、噛めば噛むほどに味わい深くなる、そんな作品だと個人的に思っています。
宮沢賢治【他の作品】
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