はじめに【保坂嘉内と「風の三郎社」】
宮沢賢治の童話『銀河鉄道の夜』のカムパネルラのモデルとも言われて保坂嘉内ですが、賢治と出会う以前の明治44(1911)年、地元山梨の八ヶ岳登山に行き、その帰り道、とある祠に立ち寄って、スケッチを書いています。
その祠とは山梨県北杜市高根町清里(現在は樫山地区の利根神社の境内に移されている)にあった「風の三郎社」のことです。この地域の人々は、八ヶ岳から吹き降りる強風、いわゆる八ヶ岳下ろしを「風の三郎さん」と愛称で呼んでいました。
賢治と嘉内は、二人きりで岩手山に登ったことがあります。夜明けを頂上で迎えるため、二人は松明を片手に登山道を進みました。そのとき風が吹いて松明の火が消えたと言います。もしかすれば童話『風の又三郎』の三郎もまた保坂嘉内がモデルだったのかも知れません。
保阪嘉内(ほさかかない)とは?
保阪嘉内(1896~1937)は山梨県に生まれます。大正5(1916)年、賢治の1年後輩として盛岡高等農林学校に入学しました。寄宿舎で同室になった賢治と無二の親友になり、賢治に大きな影響を与えます。
大正6(1917)年、除籍処分を受け帰郷します。兵役ののち、電気会社などを経て大正14(1925)年から農業に従事します。昭和6(1931)年に上京し、農村副業の開発に取り組みました。賢治が嘉内にあてた73通の書簡は『宮沢賢治 友への手紙』として刊行されています。
宮沢賢治『風の又三郎』あらすじと解説!【異質な存在の排除!】
宮沢賢治(みやざわけんじ)とは?
宮沢賢治(作家・詩人1896~1933)は、明治29年に岩手県の花巻市に富商の長男として生まれます。盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)を卒業後は研究生として残り、稗貫郡(現・花巻市)の土性調査にあたりました。
大正10(1921)年からの5年間は、花巻農学校の教師を務めながら『注文の多い料理店』などの童話作品を刊行していきます。けれども全く売れず、父親から300円を借りて200部買い取ったという逸話が残されています。
大正15(1926)年、花巻農学校を依願退職し、百姓の道を志しますが、賢治の農業は「金持ちの道楽」と、陰口を叩かれたりするなど、その道は険しいものでした。同時期、『羅須地人協会』を設立し、農業の技術指導や、レコードコンサートの開催など、農民の生活向上を目指して邁進します。
しかし、そんな賢治の理想も結局は叶わぬまま、肺結核が悪化し、病臥生活を送るようになります。最後の5年は病床で、作品の創作や改稿を行っていましたが、昭和8(1933)年9月に、急性肺炎により37歳の若さで亡くなりました。
生前刊行された作品は、詩集『春と修羅』と童話集『注文の多い料理店』(1924)のみです。『銀河鉄道の夜』や『風の又三郎』など、宮沢賢治の代表作といわれる作品は、死後に刊行され、その多くは現代のわたしたちにも影響を与えてくれています。
また、作品中に多く登場する架空の理想郷に、郷里の岩手県をモチーフとして「イーハトーブ」と名付けたことでも知られています。
宮沢賢治の人生を詳しく知りたい方は 宮沢賢治『略年譜』【心象中の理想郷を追い求めたその生涯!】、また、宮沢賢治に関係する人々のことを知りたい方は、宮沢賢治『雨ニモマケズ』現代語訳【賢治に影響を与えた人々!】を、ご覧になって下さい。
羅須地人協会(らすちじんきょうかい)とは?
大正15(1926)年に、宮沢賢治が現在の岩手県花巻市に設立した私塾のことです。
若い農民たちに、植物や土壌といった農業と関連する科学的知識を教え、そのほか、自らが唱える「農民芸術」の講義も行いました。
しかしその活動も、保守的な農民の理解は得られず、翌年には休止してしまいます。この私塾がこの名称で活動したのは1926年8月から翌年3月までの約7ヶ月でしたが、その後も賢治は農業指導の活動を続けます。特に農家に出向いての施肥指導はよく知られています。
イーハトーブとは?
イーハトーブとは宮沢賢治による造語で、賢治の心象世界中にある理想郷を指す言葉です。この造語は賢治の作品中に繰り返し登場します。
賢治が生前に出版した唯一の童話集である『イーハトヴ童話 注文の多い料理店』の宣伝用広告ちらしの文章は、「イーハトヴ」について以下のような説明がなされています。
イーハトヴとは一つの地名である。強て、その地点を求むるならば、大小クラウスたちの耕していた、野原や、少女アリスが辿った鏡の国と同じ世界の中、テパーンタール砂漠の遥かな北東、イヴン王国の遠い東と考えられる。実にこれは、著者の心象中に、この様な状景をもって実在したドリームランドとしての日本岩手県である。
童話『風の又三郎』(かぜのまたさぶろう)について
岩手県や山梨県、新潟県など複数の地方で、風の神を「風の三郎様」と呼んで祭礼を行う風習があり、「風の又三郎」はそれを元に、賢治が造語し、童話化したと言われています。なお創作時期については、昭和6(1931)年から8(1933)年にかけてと見られています。
『風の又三郎』あらすじ(ネタバレ注意!)
どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
東北地方に小さな学校がありました。この学校は一年生から六年生までが一つの教室で一緒に学んでいました。夏休みがあけた九月一日の朝のことです。登校して来た二人の一年生の子が、外から教室を見て、ぶるぶると震え出したのでした。一人はとうとう泣き出してしまいます。
その理由は、泣き出した子の席に、顔も知らない、赤い髪の毛の子供が座っていたからです。その子供の顔はまるで熟したりんごのようでした。まん丸で真っ黒な目をしていて言葉も通じない様子です。「あいづは外国人だな。」とみんなは言いました。
そのとき風がどうと吹いて来て、教室のガラス戸が、がたがたと鳴りました。すると嘉助が叫びます。「あいつは風の又三郎だぞ!」すると先生がやって来て、「北海道から転校してきた五年生の高田三郎さんです。」とその子供を紹介しました。嘉助は、「やっぱり又三郎だな。」と言いました。
次の日、六年生の一郎と五年生の嘉助は、いつもより早く登校をしました。すると三郎がやって来て「お早う。」と言いました。けれども一人も返事をした者はいません。先生にいつでも「お早うございます。」と言うように習っていて、お互いに「お早う。」と言い合う習慣がなかったからです。
三郎が運動場を歩くと、風がざあっと吹いて来て、土手の草はざわざわと波になりました。すると嘉助が突然高く言いました。「やっぱりあいづ又三郎だぞ。あいづ何かするときっと風吹いてくるぞ!」
授業中、四年生の佐太郎と、二年生のかよという兄妹の間で、鉛筆の奪い合いが始まりました。そのうち妹は泣き出してしまいます。三郎は、自分の鉛筆を黙って佐太郎の机の上に置きました。それを見ていた一郎は変な気持ちがして、歯をきりきりと言わせました。
次の朝三郎は、一郎たち(嘉助、佐太郎、悦治)と一緒に、野原へ遊びに行きました。野原では馬が放牧されていました。一郎たちは手を出して馬に舐めさせたりしていましたが、三郎だけは馬に慣れていない様子で、「又三郎馬おっかながるぢゃい。(怖がってるよ)」と言われてしまいます。
そんな言葉に三郎は、「そんなら、みんなで競馬やるか。」と言い出しました。馬を追って競争させようというのです。みんなは面白がって馬を追いました。するとそのうちの二頭の馬が柵を越えて外に出てしまったのです。
何とか一頭は一郎が捕まえました。けれども、もう一頭は一目散に逃げてしまいました。三郎と嘉助は馬を一生懸命追いかけます。そのうち嘉助は深い霧の中で迷ってしまいました。すると突然強い風が吹いてきて、嘉助は、草の中に倒れて、眠ってしまったのでした。
三郎は、ねずみ色の上着の上にマントを着て、光るガラスの靴を履いていました。風がどんどんどんどん吹いています。三郎は笑いもしなければ物も言わないまま空へと飛び上がりました。ガラスのマントがギラギラ光りました。
嘉助は目を開くと、馬がすぐ目の前でのっそりと立っていたのです。その後ろから三郎が出て来ました。嘉助はぶるぶると震えました。すると霧の中から、一郎と一郎の兄さんが現れて何とか無事に帰ることができたのです。帰りながら嘉助が言いました。「あいづやっぱり風の神の子っ子だぞ。」
次の日の学校帰り、三郎はみんなと一緒に山葡萄採りに出かけます。その道中で三郎は、タバコ畑の葉を一枚むしります。それを見た一郎は、「専売局にうんとしかられるぞ。」と言いました。みんなも口を揃えてはやし立てます。三郎は、「知らないでとったんだい。」と怒ったように言いました。
※専売局(せんばいきょく) 大蔵大臣の管理下で、タバコ・塩・樟脳・アルコールの製造・販売などに関する事務を担当した官庁。昭和23(1948)年、「日本専売公社」となり、昭和60(1985)年、「日本たばこ産業株式会社」(JT)として民営化された。
山葡萄採りが始まると、三郎は、「おいら栗のほうをとるんだい。」と言って、栗の木に登りました。そして午前中の雨で濡れていた枝を揺らして、耕助に水を浴びせました。耕助はタバコの葉のことで特に意地悪く言ったからです。
怒った耕助は、「うあい又三郎、うなみだいな(お前みたいな)風など世界じゅうになくてもいいなあ。」と言いました。それから二人は風について言い争いをします。けれども最後には仲直りをしたのでした。
次の日の放課後、三郎はみんなと川へ泳ぎに行きました。泳いでいるとき三郎は声を出して笑いました。一郎は、「又三郎、何してわらった?」と聞きます。すると三郎は、「おまえたちの泳ぎ方はおかしいや。なぜ足をだぶだぶ鳴らすんだい。」と言いながらまた笑い出したのでした。
一人の洋服を着た男が岸を歩いて来ました。「あ、あいづ専売局だぞ。」と佐太郎が言いました。みんなは三郎を囲んで守ろうとします。けれどもその男は、ゆっくりと川を渡って行ったのでした。三郎は、「なんだい、ぼくを連れにきたんじゃないや。」と言いながらまた泳ぎ始めます。
次の日の放課後も、三郎はみんなと川へ泳ぎに行きました。そのうちみんなで鬼ごっこ遊びを始めました。そして三郎が鬼になりました。「又三郎、来。」嘉助は手を広げて三郎をばかにします。怒った三郎は一生けん命、そっちのほうへ泳いで行きました。
三郎の唇は、長く水に浸かっていたせいで紫色になっていました。それを見た子供たちはすっかり怖がってしまいます。一郎はみんなを集めて何やらひそひそ話を始めました。それに構わず三郎は片っぱしから捕まえていきます。
嘉助は逃げ回っていましたが、とうとう乱暴に腕をつかまれ、引っぱり回されました。嘉助は水を飲んだと見えて、ごぼごぼとむせながら、「おいらもうやめた。こんな鬼っこもうしない。」と言いました。小さな子供たちはみんな砂利に上がり、三郎は一人、さいかちの木の下に立ちました。
その時天候が急変します。ごろごろごろと雷が鳴り出したのでした。と思うと、一ぺんに夕立がやって来ました。風までひゅうひゅう吹きだします。みんなは川から上がって、ねむの木の下へ逃げこみました。
すると、「雨はざっこざっこ雨三郎、風はどっこどっこ又三郎。」と誰かが叫びました。みんなも声をそろえて叫びました。「雨はざっこざっこ雨三郎、風はどっこどっこ又三郎。」
三郎は一目散にみんなのところに走って来て、「いま叫んだのはお前らだちかい。」と聞きましたが、「そでない。そでない。」言い、またみんなでいっしょに叫びました。三郎は、体はがたがた震わせながら気味悪そうに川のほうを見ていました。
どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
どっどど どどうど どどうど どどう
一郎は、三郎から聞いた「風の歌」の夢を見ました。びっくりして飛び起きると、村を台風が襲っていたのです。一郎は、(又三郎は飛んで行ったかもしれない)思い、嘉助をさそって急いで登校しました。
学校に着くと先生が出て来ました。嘉助が、「先生、又三郎きょう来るのすか。」と聞くと、先生は「又三郎って高田さんですか。ええ、高田さんは昨日お父さんと一緒にほかへ行きました。」と答えたのでした。それ聞いた嘉助は、「やっぱりあいづは風の又三郎だったな」と叫びました。
青空文庫 『風の又三郎』 宮沢賢治
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『風の又三郎』【解説と個人的な解釈】
田舎の小さな小学校に、高田三郎という少年が転校してきたことで、物語は展開していきますが、そこには閉鎖的な共同体の姿を見ることが出来ます。この地域で生まれ育った子供たちにとって三郎はまさに異質な存在でした。
外見的には髪の毛や顔が赤く、目はまん丸で真っ黒です。しかも三郎は標準語を話します。日常で方言にしか触れてこなかった子供たちにとって、さながら外国人に見えたのは当然でしょう。また三郎は、村の子供たちが持っている常識が通じませんでした。
さらに子供たちは、この地域に根づいた土着信仰を深く信じています。嘉助が三郎を、「風の又三郎」だと言い張るのも頷けます。とは言うものの、村の子供たちはそんな三郎の言動や行動に戸惑いながらも交流を深めていきます。
それでも結局、三郎の自由奔放な振る舞いを嫌悪した子供たちは、一郎を中心に結束して、三郎を疎外します。一郎は、最上級生という自分の立場を揺るがせかねない三郎の存在を厭わしく思ったのでしょう。そのタイミングで村は台風に襲われ、三郎は転校してしまいます。
一郎は三郎を疎外したことにどこか後悔を感じていたのでしょう。台風の夜、三郎から教わった「風の歌」の夢を見ます。けれども後悔先に立たずというやつで、三郎との交流を永久に失ってしまいます。そして嘉助は、三郎の正体は「伝説の風の精」だと結論づけます。
風の又三郎の正体については、単なる転校生だったという説、風の又三郎が化けていたという説、三郎に又三郎が憑依していたなどの説がありますが、個人的には単なる転校生の姿に、土着信仰の「風の精」を重ねただけと思っています。なぜなら作者自身が共同体から疎外された経験があるからです。
宮沢賢治が「羅須地人協会」を設立し、農民の地位向上を図ろうとしたとき、「金持ちの道楽」と見て反感を持った農民も少なくなかったと言います。もしかしたら賢治は、『風の又三郎』を通して、異質な存在を排除しようとする「村社会」というものを描きたかったのかも知れません。
あとがき【『風の又三郎』の感想を交えて】
冒頭で、『風の又三郎』の三郎は、保坂嘉内がモデルなのかも知れないと書きましたが、付け加えると、嘉内もまた盛岡高等農林学校時代、学校側から排除されているからです。大正6(1917)年、宮沢賢治は保坂嘉内らとともに文芸同人誌『アザリア』を刊行します。
それに載せた嘉内の短文の一節、「今だ。今だ。帝室を覆すの時は。ナイヒリズム」が問題視されたのでした。つまり、「嘉内は危険な虚無思想の持ち主で、皇室に意を唱えている」と判断され、退学処分となったのです。
この事実を賢治は、嘉内が山梨へ帰省中に知ります。寝耳に水とはこのことだったでしょう。賢治にとって嘉内という存在は、風のように現れ、風のように去って行った、まさに「風の三郎さん」のような存在だったのです。
さて、『風の又三郎』には、自然と共存する子供たちの姿が生き生きと描写されています。確かに危うさはあるものの、そんな遊びを通して子供というものは心身ともに成長していくものです。わたしにとって本作品は、古き良き時代の原風景を実感できる作品と言えます。
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