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宮沢賢治『略年譜』【心象中の理想郷を追い求めたその生涯!】

一読三嘆、名著から学ぶ
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はじめに【理想と現実の狭間で悩み続けた賢治の短き人生】

 宮沢賢治の母・イチは「人のために生きるのス」と口癖のように言い、子供たちを育てたといいます。ましてや幼い頃から信仰心の強かった賢治ですから、“ 人々を幸せにするためには ” といった理想に真摯に向き合っていました。

 その一方で、実家は家財道具や衣服を担保として困窮した農民に高利で金を貸し付ける、質・古着商という家業を営んでいます。一度は、そんな家から飛び出し、上京をしてみたものの、肉親の情に(ほだ)され、帰郷してしまいます。

 言わば、理想と現実の狭間で悩み続けた賢治の人生だったといえます。
―――そんな宮沢賢治の『略年譜』です。

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宮沢賢治『略年譜』【心象中の理想郷を追い求めたその生涯!】

宮沢賢治とは?

 宮沢賢治(作家・詩人1896~1933)は、明治29年に岩手県の花巻市に富商の長男として生まれます。盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)を卒業後は研究生として残り、稗貫郡(ひえぬきぐん)(現・花巻市)の土性調査にあたりました。

 大正10(1921)年からの5年間は、花巻農学校の教師を務めながら『注文の多い料理店』などの童話作品を刊行していきます。けれども全く売れず、父親から300円を借りて200部買い取ったという逸話が残されています。

 大正15(1926)年、花巻農学校を依願退職し、百姓の道を志しますが、賢治の農業は「金持ちの道楽」と、陰口を叩かれたりするなど、その道は険しいものでした。



 同時期、『羅須地人(らすちじん)協会』を設立し、農業の技術指導や、レコードコンサートの開催など、農民の生活向上を目指して邁進します。

 しかし、そんな賢治の理想も結局は叶わぬまま、肺結核が悪化し、病臥(びょうが)生活を送るようになります。最後の5年は病床で、作品の創作や改稿を行っていましたが、昭和8(1933)年9月に、急性肺炎により37歳の若さで亡くなりました。

 生前刊行された作品は、詩集『春と修羅』と童話集『注文の多い料理店』(1924)のみです。『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』など、宮沢賢治の代表作といわれる作品は、死後に刊行され、その多くは現代のわたしたちにも影響を与えてくれています。

 また、作品中に多く登場する架空の理想郷に、郷里の岩手県をモチーフとして「イーハトーブ」と名付けたことでも知られています。

花巻農学校教諭時代の宮沢賢治

 宮沢賢治の人生を詳しく知りたい方は下記の『略年譜』、また、宮沢賢治に関係する人々のことを知りたい方は、宮沢賢治『雨ニモマケズ』現代語訳【賢治に影響を与えた人々!】 を、ご覧になって下さい。

宮沢賢治『略年譜』

【誕生~花巻尋常高等小学校時代】

明治29(1896)年  (賢治 0歳)

  • 8月27日、岩手県稗貫(ひえぬき)郡花巻町(現・花巻市)に、質・古着商を営む父・政次郎と母・イチの長男として生まれます。
    仏教篤信(とくしん)の家庭環境で育ち、幼時より経文に親しみます。

明治31(1898)年 (賢治 2歳)

  • 11月5日、妹・トシが生まれます。

  
  歳のトシ(左)と5歳の賢治(右)

明治34 (1901)年 (賢治 5歳)

  • 6月18日、妹・シゲが生まれます。

明治35 (1902)年 (賢治 6歳)

  • 9月下旬、赤痢を病み、花巻町本城の隔離病棟に入院します。
    約2週間の入院生活を経て退院します。

明治36 (1903)年 (賢治 7歳)

  • 4月、花巻川口尋常高等小学校(現・花巻小学校)に入学します。

明治37 (1904)年 (賢治 8歳)

  • 4月1日、弟・清六(せいろく)が生まれます。

明治38 (1905)年 (賢治 9歳)

  • 3年生時の担任・八木英三(えいぞう)の読み聞かせでエクトロ・マロの『まだ見ぬ親』『家なき娘』に触れ、強い感銘を受けます。
    賢治は後年、「自分の童話の源には、先生のお話が影響している」と英三に語っています。

  
  エクトール・アンリ・マロ

明治39 (1906)年 (賢治 10歳)

  • 8月、政次郎が有志と共に運営する夏期仏教講習会に参加します。
    この頃から、鉱物・植物採集、昆虫標本作りに熱中するようになります。

明治40 (1907)年 (賢治 11歳)

  • 3月4日、妹・クニが生まれます。
  • 8月、父・政次郎が主宰する夏期仏教講習会に参加し、助手を務めます。
    鉱物採集の熱が高まり、「石コ賢さん」と呼ばれます。

【盛岡中学校時代】

  
  盛岡中学在学時の賢治

明治42 (1909)年 (賢治 13歳)

  • 2月、綴方(つづりかた)帳に『冬季休業の一日』を書きます。
  • 3月、花巻尋常高等小学校を卒業します。
    成績優秀で『高等小学読本』などを与えられます。
  • 4月、盛岡中学校(現・盛岡第一高等学校)に入学します。
    寄宿舎の自彊寮(じきょうりょう)に入寮します。

明治43 (1910)年 (賢治 14歳)

  

  • 6月、自彊寮舎監長の引率で岩手山を初登頂します。
  • 9月、英語教論の引率で岩手山に再登頂します。
    以降、中学・高等農林学校時代を通じて、30回以上、岩手山に登ることになります。

明治44 (1911)年 (賢治 15歳)

  • 8月、夏期仏教講習会に参加し、島地(しまじ)(だい)(とう)の法話を聞きます。
    この頃から短歌の制作を始めます。

  
    島地大等

明治45・大正元(1912)年 (賢治 16歳)

  • 5月、松島・仙台方面へ修学旅行に行きます。

大正2 (1913)年 (賢治 17歳)

  • 三学期中、新任の舎監に嫌がらせをする事件が自彊寮で発生します。
    4、5年生は全員退寮となり、賢治も盛岡市北山にある清養院(曹洞宗)に転居します。
  • 3月、祖母・キンが死去します。
  • 5月、北海道へ修学旅行に行きます。

大正3 (1914)年 (賢治 18歳)

  • 3月、盛岡中学校を卒業します。
    88名中60番の成績でした。
  • 4月、肥厚性鼻炎手術のため岩手病院に入院しますが、手術後も高熱が続き、チフスの疑いで入院が長引きます。
    手当をした看護師に恋愛感情を抱きます。
  • 5月末、岩手病院を退院します。
    この頃、盛岡高等農林学校への進学を希望する賢治が、家業の継承を勧める父と対立します。
    賢治は、家財道具や衣服を担保として困窮した農民に高利で金を貸し付ける稼業に嫌悪感を抱いていました。
  • 秋、島地大等編『漢和対照 妙法蓮華経』を読み、大きな感動を覚えます。
    父から進学許可が出て、受験勉強に励みます。

【盛岡高等農林学校時代】


  旧盛岡高等農林学校

大正4 (1915)年 (賢治 19歳)

  • 1月、北山の(きょう)浄寺(じょうじ)(時宗)に転居します。
  • 4月、盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)農学科第二部に入学します。
    入学式では総代として宣誓を行います。寄宿舎の自啓寮(じけいりょう)に入り、土、日は登山、鉱物標本採集の日々でした。
  • 8月、北山の(がん)教寺(きょうじ)(真宗本願寺派)で島地大等の「歎異鈔(たんにしょう)法話」を1週間聞きます。
  • (せき)(とよ)太郎(たろう)教授の指導の下、勉学に熱中します。

  
    関豊太郎

大正5 (1916)年 (賢治 20歳)

  • 3月、修学旅行で東京・京都・奈良の農事試験場を見学します。
    特待生に選ばれ授業料免除となります。
  • 4月、入学してきた保阪(ほさか)嘉内(かない)が賢治の同室になります。
  • 7月、関教授の指導の下、級友の小菅(こすげ)(けん)(きち)らと盛岡地方の地質調査をします。
  • 8月、上京してドイツ語の講習を受けます。
  • 9月、関教授の指導の下、秩父地方の土性・地質調査をします。
    同月、『校友会会報』に短歌29首を発表します。

大正6 (1917)年 (賢治 21歳)

  • 3月、再び特待生となります。
    『校友会会報』に筆名「銀稿」で短歌『雲ひくき峠等』を発表します。
  • 4月、盛岡中学に入学した弟・清六と盛岡市内に下宿します。
  • 7月、同級の小菅健吉、1年後輩の保阪嘉内、(かわ)本義(もとよし)(ゆき)らと同人誌『アザリア』を創刊します。
    短歌『みふゆのひのき』、童話『「旅人のはなし」から』などを発表します。
    同月、保阪嘉内と岩手山に登り、お互いの友情と理想を確認する「銀河の誓い」を立てます。

  
  後列左より保阪嘉内と宮沢賢治

  • 8月、同級の高橋(ひで)(まつ)らと岩手県江刺郡(現・江刺市)の地質調査をします。
  • 9月16日、祖父・喜助が死去します。

大正7 (1918)年 (賢治 22歳)

  • 2月、『アザリア』に断章『復活の前』を発表します。
    同号掲載の『社会と自分』内の表現が問題となり、保阪嘉内が退学処分となります。
  • 3月、盛岡高等農林学校を卒業します。
    卒業論文は『腐植質中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値』。
    本科は卒業しますが、関教授の勧めにより研究生として同校に残ります。
  • 6月、『アザリア』6号に小品文『峯や谷は』を発表します。
    肋膜炎で約1ヶ月静養します。
  • 12月、妹・トシが入院します。
    母と上京し、雑司ヶ谷に宿を取り翌年3月まで看病します。
    看病の合間を縫い、将来の職業とすることを見越して宝石・宝飾品製作販売の下調べなどを行います。
    また、この間に田中(たなか)智学(ちがく)の講演を聞きます。

  
    田中智学

大正8 (1919)年 (賢治 23歳)

  • 3月、退院したトシと共に花巻に帰郷し、家業に従事します。

大正9 (1920)年 (賢治 24歳)

  • 5月、盛岡高等農林学校研究生を修了します。
    関教授から助教授に推薦されますが、父の意向もあり辞退します。
  • 7月頃、田中智学の『本化摂析論』『日蓮上人御遺文』の抜き書きを作ります。
  • 10月、国柱会に入会します。
    生涯を通じて会員としての身分を通します。

【花巻農学校教諭時代】

大正10 (1921)年 (賢治 25歳)

  • 1月、無断で上京し、下谷鶯谷の国柱会(こくちゅうかい)本部を訪れます。
    賢治は本郷菊坂町七五稲垣方に下宿し、東大赤門前の印刷所・文信社で働きながら国柱会本部での奉仕活動に励みます。また、国柱会常務理事・高知尾(たかちお)()耀(よう)の『法華文学ノ創作』の勧めで童話創作に意欲的に取り組むようになります。
  • 4月、父・政次郎と共に6日間の関西旅行をします。
  • 8月、妹・トシが病気との報を受け花巻に帰郷します。
    看病のかたわら、童話や詩を書き続けます。
    秋から冬にかけて、童話『かしはばやしの夜』『月夜のでんしんばしら』『鹿踊りのはじまり』『どんぐりと山猫』などを執筆しました。

  

  • 12月、稗貫郡立稗貫農学校(1923年、県立に移管し花巻農学校と改称。現・花巻農業高校)の教諭に就任します。
    代数・科学・農業・土壌・英語などを担当します。
  • 雑誌『愛国婦人』12月号、翌年1月号に童話『雪渡り』を発表し、稿料5円を受け取ります。
    これは、賢治が生前に得た唯一の原稿料でした。
  • 花巻高等女子学校の音楽教師・藤原(ふじわら)嘉藤(かとう)()と親しくなり、クラシック音楽のレコードに熱中するようになります。

大正11 (1922)年 (賢治 26歳)

  • 1月、心象スケッチ『屈折率』を書き、詩集『春と修羅』収録作品の制作が始まります。

  

  • 2月、稗貫農学校のために『精神歌』を作詞します。
    作曲は、盛岡高等農林学校の後輩にあたる川村悟朗です。この歌は花巻農業高校で現在も歌い継がれています。
  • 7月、盛岡で毒蛾が大発生します。童話『毒蛾』の題材となります。
  • 9月、脚本を書いた喜歌劇『飢餓陣営』を稗貫農学校の生徒が上演します。
  • 11月、稗貫農学校の教室で童話『貝の火』を読み聞かせ、生徒に感動を与えます。
  • 11月27日、療養中だった妹・トシが死去します。
    激しい衝撃を受けた賢治は、トシの死亡を題材に、永訣(えいけつ)の朝』『松の針』『無声(むせい)慟哭(どうこく)の3つの詩を書きます。

大正12 (1923)年 (賢治 27歳)

  • 1月、童話原稿売り込みのため弟・清六を東京社に訪問させますが、不採用でした。
  • 4月から5月にかけ、『岩手毎日新聞』に詩『外輪山』、童話『やまなし』『氷河鼠の毛皮』『シグナルとシグナレス』を発表します。
    国柱会機関紙『天業(てんぎょう)民報(みんぽう)』に詩『青い槍の葉』を発表します。
  • 5月、花巻農学校開校記念行事として、脚本を手掛けた『植物医師』『飢餓陣営』を上演します。
  • 7月、教え子の就職依頼のため、樺太にいる盛岡高等農林学校の後輩を訪問します。
    北海道から樺太までの旅で、『青森挽歌』『オホーツク挽歌』『樺太鉄道』『鈴谷(すずや)平原(へいげん)』『噴火湾(ノクターン)』『宗谷挽歌』『津軽海峡』などトシに捧げる挽歌群が生まれます。

  

大正13 (1924)年 (賢治 28歳)

  • 2月、教え子に童話『風野又三郎』の原稿筆写を依頼します。
  • 3月、雑誌『反情』2号に詩『陽ざしとかれくさ』を発表します。
  • 4月、詩集『春と修羅』を関根書店から自費出版します。
  • 5月、生徒を引率して北海道へ修学旅行に行きます。
  • 7月、『読売新聞』上で、(つじ)(じゅん)が『春と修羅』を絶賛します。
  • 8月、花巻農学校で生徒らと『飢餓陣営』『植物医師』『ポラーノの広場』『種山ヶ原の夜』を上演します。
  • 12月、童話集『注文の多い料理店』を刊行します。
    販売元は盛岡市の(こう)原社(げんしゃ)で、発行部数は1000部でした。
    売れなかったため、賢治は父から300円を借り200部を買い取ります。

  

大正14 (1925)年 (賢治 29歳)

  • 2月、(もり)佐一(さいち)との交友が始まり、佐一主宰の詩誌『(かお)』に詩を発表し始めます。
  • 7月、草野(くさの)心平(しんぺい)との交友が始まり、心平主宰の詩誌『銅鑼(どら)』に詩を発表し始めます。
  • 8月、森佐一らと花城小学校で開かれた詩の展覧会に出品します。
  • 11月、早坂(はやさか)一郎(いちろう)・東北大学助教授と共にイギリス海岸を訪れ、バタグルミの化石を採集します。
  • 12月、同年7月に辻潤らが創刊した『虚無思想雑誌』12月号に詩『冬(幻聴)』を発表します。

大正15・昭和元(1926)年 (賢治 30歳)

  • 1月から3月にかけ、尾形亀之(おがたかめの)(すけ)主宰の詩誌『月曜』に童話『オツベルと象』『ざしき童子の話』寓話(ぐうわ)・猫の事務所』を発表します。
    この間、岩手国民高等学校で農民芸術論を講義します。
  • 3月、花巻農学校を依願退職します。
  • 4月、花巻市豊沢町の実家を出て、同市下根子(しもねこ)(さくら)に独居し、畑の開墾を始めます。
    賢治の家に集まった近隣農家の若者やかつての教え子と共に、レコード鑑賞や器楽の合奏を楽しむようになります。
  • 8月、妹たちと八戸へ旅行をします。
    「羅須地人協会」を設立し、篤農家や青年たちに農業技術などの講義を始めます。

  
    羅須地人協会の建物

  • 12月、労農党が稗貫支部を結成し、賢治も事務所探しなどで協力します。
    2日、上京し、チェロやオルガンのレッスン、エスペラント語の勉強などで過ごします。また、高村光太郎を訪問します。29日、花巻に帰郷します。

【農業・東北砕石工場時代~晩年】

昭和2 (1927)年 (賢治 31歳)

  • 1月、羅須地人協会の講義を再開します。
    梅野健三主宰の詩誌『無名作家』に詩『陸中国挿秧之図』を発表します。
  • 2月、『岩手日報』に羅須地人協会の記事が掲載されます。
    「青年30余名で協会組織」との記事の内容が社会主義運動との関係を疑われ、花巻警察から事情聴取を受けます。以降、羅須地人協会の活動が不定期になります。
  • 12月、『盛岡中学校校友会雑誌』に詩2篇を発表します。
    花巻温泉の南斜花壇を設計します。

昭和3 (1928)年 (賢治 32歳)

  • 2月、『銅鑼』に詩『氷質の冗談』を発表します。
  • 3月、(しょう)燈社(とうしゃ)発行の詩誌『聖燈』に詩『稲作挿話(未定稿)』を発表します。

  

  • 6月、伊豆大島で農芸学校の開設を計画している友人に助言を与えるため、伊豆大島を訪問します。
    途中に寄った東京では、浮世絵や演劇を鑑賞します。友人が自分の妹と賢治の縁を結ぶために呼んだともいわれますが、結婚には至りませんでした。
  • 8月、発熱し、高熱と発汗に苦しみます。
    花巻病院で「西側肺浸潤」と診断され、豊沢の実家に戻り、療養生活に入ります。
  • 12月、急性肺炎にかかります。

昭和4 (1929)年 (賢治 33歳)

  • 春、病状がやや回復し、園芸に熱中します。
  • 4月、石灰製品を製造する東北(とうほく)砕石(さいせき)工場(こうじょう)の工場主・鈴木(すずき)東蔵(とうぞう)の来訪を受けます。
    以降、交際が続き、東蔵は肥料設計から広告の文案まで、さまざまな案件を賢治に相談します。
    この頃から、文語詩の制作を始めます。

昭和5 (1930)年 (賢治 34歳)

  • 9月、陸中(りくちゅう)松川(まつかわ)の東北砕石工場を訪問します。
  • 11月、『文芸プランニング』3号に詩『遠足許可』などを発表します。

昭和6 (1931)年 (賢治 35歳)

  • 2月、東北砕石工場の技師となり、広告文起草や石灰の宣伝販売を受け持ちます。
  • 7月、『岩手日報』で稲作状況を報告します。
    児童文学』第1冊に童話『北守将軍と三人兄弟の医者』を発表します。
  • 9月20日、石灰宣伝で上京中に発熱し、遺書を書きます。
    28日、帰郷し、自宅で病臥生活に入ります。
  • 11月3日、手帳に『雨ニモマケズ』を書き留めます。

  

昭和7 (1932)年 (賢治 36歳)

  • 3月、『児童文学』第2冊に童話『グスコーブドリの伝記』を発表します。挿絵は宗像(むなかた)()(こう)でした。
  • 4月、仙台在住の民俗学者・佐々木喜(ささきき)(ぜん)が来訪します。
  • 8月、『女性岩手』創刊号に詩『民間薬』『選挙』を発表します。
  • 11月、『女性岩手』に詩『祭日』『母』、『詩人時代』に詩『客を停める』を発表します。

昭和8 (1933)年 (賢治 37歳)

  • 2月、『新詩論』第2集に詩『半蔭地(はんいんち)選定(せんてい)』を発表します。
  • 3月、『天才人』第6集に童話『朝に就ての童話的構図』を発表します。
  • 4月、『現代日本詩集』に詩『郊外』『県道』を発表します。
  • 7月、『女性岩手』に詩『花鳥図譜・七月』を発表します。
    元『アザリア』同人の河本義行が水死します。
  • 8月、『文語詩稿 五十篇』『文語詩稿 一百篇』を清書します。
  • 9月20日、病状が悪化します。
    夜7時頃、農民の肥料相談に1時間ほど応じます。
  • 21日、容態が急変し、喀血します。
    法華経1000部を印刷して知人に配布するよう父に遺言を残します。(午後1時半死去。)
  • 23日、花巻町の安浄寺(真宗大谷派)で葬儀を行います。(1941年に同町(しん)照寺(しょうじ)(日蓮宗)に改葬)。法名「真金院三不日賢善男子」。
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あとがき【宮沢賢治の見た貧困と格差】

 現在も “ 貧困と格差 ” について叫び続けられていますが、宮沢賢治の生きていた時代の東北地方は、それはそれは、圧倒的ともいえる “ 貧困と格差 ” でした。

 賢治は裕福な質屋の家に生まれ、農民が食べるのに困って家財を失っていくさまを間近に見ていました。家財だけならまだしも、娘が身売りをさせられ、やがては農地を手放していく農民の現状に、深い憂いを感じていたことでしょう。

 『略年譜』が示すとおり、宮沢賢治の人生は短くとも内容の濃いものでした。
理想は遂げられなかったかも知れませんが、彼の理想は作品を通して、脈々と人々に受け継がれていると思います。

―――かくいうわたしも、そんな人間のひとりなのですから。

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