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豊島与志雄『太宰治との一日』【「桜桃忌」に読みたい作品①!】

一読三嘆、名著から学ぶ
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はじめに【「桜桃忌」(おうとうき)について】

 6月19日は太宰治の忌日(きにち)、「桜桃忌」(「太宰忌」ともいう)です。

 昭和23(1948)年6月13日深夜から14日未明にかけて、太宰治は戦争未亡人の山崎(とみ)()とともに玉川上水(東京都三鷹市付近)に入水自殺しました。そして遺体は6日後の6月19日に発見されます。くしくもこの日は太宰の誕生日でした。

 そういった理由から6月19日は太宰を偲ぶ日となります。「桜桃忌」の名付け親は、同郷で太宰と親交の深かった直木賞作家・今官一で、太宰が死の直前に書いた短編小説『桜桃』にちなんで命名しました。

 太宰の葬儀は21日に行われますが、葬儀委員長を務めたのが豊島与志雄です。晩年の太宰が最も尊敬していたと言われているのが豊島でした。太宰は山崎富栄を伴い、度々本郷の豊島の自宅を訪れ、一緒に酒を酌み交わしています。

 二人の親交は太宰が亡くなるまで続きますが『太宰治との一日』は亡くなる約2カ月前、最後の交遊を描いたものです。

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豊島与志雄『太宰治との一日』【「桜桃忌」に読みたい作品①!】

豊島与志雄(とよしまよしお)とは?

 豊島与志雄は明治期から昭和期にかけて活躍した小説家、翻訳家、児童文学者です。(1890-1955)
豊島与志雄は明治23(1890)年11月27日、福岡県朝倉(あさくら)郡福田村(現:朝倉市)の士族の家に生まれます。

 福岡県中学修猷館(しゅうゆうかん)、第一高等学校を経て東京帝国大学文学部仏文科に入学します。東京帝大在学中の大正3(1914)年、芥川龍之介、菊池寛、久米正雄らと第三次『新思潮』を刊行し、その創刊号に処女作となる『湖水と彼等(かれら)』を寄稿し注目されるようになります。

   芥川龍之介

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 大正6(1917)年、ヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』を翻訳し、これがベストセラーになります。翻訳には他にも、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』等があり、いずれも名訳として知られています。

 以後、いくつかの大学で仏文学を講じながら数多くの小説、童話を発表します。戦後は、日本ペン倶楽部(日本ペンクラブ)の再建に尽力するなどしていましたが、昭和30(1955)年6月18日、心筋梗塞のため東京都文京区千駄木の自宅で死去します(享年:64歳)

 代表的小説集に『生あらば』『野ざらし』『道化役』『(はく)()』、童話集に『夢の卵』『エミリアンの旅』等があり、その他多くの随筆・評論、それに若干の戯曲もあります。

   豊島与志雄

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太宰治(だざいおさむ)とは?

 昭和の戦前戦後にかけて、多くの作品を残した小説家です。本名・津島修治。(1909-1948)
太宰治は、明治42(1909)年6月19日、青森県金木村(現:五所川原市金木町)の大地主の家に生まれます。

 青森中学、弘前(ひろさき)高校を経て東京帝国大学仏文科に進みますが後に中退します。この頃、井伏鱒二(いぶせますじ)に弟子入りをし、本格的な創作活動を始めました。しかし、在学中から非合法運動に関係したり、薬物中毒になったり、または心中事件を起こすなど、私的なトラブルは後を絶ちませんでした。

  井伏鱒二(晩年)

井伏鱒二『山椒魚』【時代に取り残された者の悲鳴!】

 一方、創作のほうでは『逆行』が第一回芥川賞の次席となるなど、人気作家への階段を上り始めます。1939年、井伏鱒二の世話で石原美知子と結婚し、一時期は平穏な時間を過ごし『富嶽百景』『走れメロス』『駆込(かけこ)(うった)へ』など多くの佳作を書きます。

 戦後、『斜陽』で一躍、流行作家となりますが、遺作『人間失格』を残して、昭和23(1948)年6月13日、山崎富栄と玉川上水で入水自殺をします。(享年38歳)ちなみに、玉川上水で遺体が発見された6月 19日(誕生日でもある)を命日に、桜桃忌(おうとうき)が営まれています。

    太宰治

太宰治『桜桃』【「子供より親が大事と思いたい」の真意!】

山崎富栄(やまざきとみえ)とは?

 山崎富栄は、大正8(1919)年9月24日、東京府東京市本郷区(現:東京都文京区本郷)に生まれます。昭和19(1944)年、三井物産の社員・奥名修一と結婚しますが、夫はマニラに単身赴任中に現地召集され、戦線で行方不明になります。

 戦後の昭和22(1947)年3月、美容室に勤めていた富栄は太宰治と知り合い、日記に「戦闘開始!覚悟をしなければならない。私は先生を敬愛する。」と記します。5月3日、太宰から「死ぬ気で恋愛してみないか?」と、交際を持ちかけられます。

 翌昭和23(1948)年6月13日、いつしか太宰の秘書兼愛人の立場になっていた富栄は、太宰とともに玉川上水に入水自殺します。(没年齢:28歳)現場に残された6冊のノートをもとに、平成7(1995)年、『太宰治との愛と死のノート』が出版されます。

   山崎富栄

青空文庫 『雨の玉川心中-太宰治との愛と死のノート』 山崎富栄
https://www.aozora.gr.jp/cards/001777/files/56258_61595.html

豊島与志雄『太宰治との一日』あらすじ(ネタバレ注意!)

 昭和二十三年四月二十五日、日曜日の午後、「私」(豊島与志雄)のところに一本の電話が入ります。「太宰ですが、これから(うかが)っても、宜しいでしょうか。」―――電話の声の(ぬし)は、さっちゃんでした。

 さっちゃんというのは「私」達の間の呼び名で、本名は山崎(とみ)()といいました。やがて二人は現れ、太宰は「今日は愚痴をこぼしに来ました。」と、言います。「私」は(彼がそんなことを言うのは初めてだ……)と、思いました。

 「私」は、太宰に仕事のことを聞きます。太宰はその頃、『展望』に連載する小説『人間失格』にとりかかっていました。「私」はのちに『人間失格』を読んで、あれに覗き出している暗い影に心を打たれます。

 愚痴をこぼしに来たと言いながら、太宰は愚痴らしいものを何も言わず、すぐに酒となりました。太宰は、自由奔放な生き方をしているようでいて、一面、酷く恥しがるところがあります。その照れ隠しに酒を飲むのでした。

 けれども「私」の家には酒が少ししか残っていません。太宰はさっちゃんに耳打ちして、「私」と太宰、二人が懇意にしている筑摩書房と八雲書店に電話をかけさせました。代金は原稿料から差し引きにするというのです。

 やがて二社から一本ずつ、上等のウイスキーが届けられました。太宰は人にご馳走するのが好きで、人からご馳走されるのが嫌いです。太宰はいつも「私」にご馳走しようとしました。貧乏な「私」への配慮と、年長者への礼という気持ちがあったのでしょう。

 酒の席でまで文学論をやることは、太宰も「私」も嫌いでした。話題は自然と他愛もないことになります。太宰は、そんな他愛もないことでいつも大笑いしました。胸に憂悶(ゆうもん)があればこそ、笑い(きょう)じるのです。

 そのうち太宰も「私」も、だいぶ酒にくたびれてしまいます。太宰はビタミンB1の注射をしていました。何度か喀血かっけつもし、実は相当に体力が弱っていたのです。注射はさっちゃんの役目でした。さっちゃんが注射をすると、太宰は「痛い」と顔をしかめます。

 「私」が、さっちゃんに代わって注射をしました。徐々に薬液を注入し、「痛くないだろう?」と聞くと、太宰は「うん。」と頷きます。そこで「私」は、急に強く注入します。すると太宰は「痛い!」と叫び、二人はまた大笑いするのでした。

 その夜、太宰とさっちゃんは、「私」の家に宿泊します。さっちゃんは、太宰がどんなに我儘(わがまま)なことを言おうと、全て言われるままに立ち働きます。それは全くの絶対奉仕でした。「私」達の間では、そんな二人の関係が、なにか清潔なもののように感じられていたのです。

 翌朝、太宰は珍しく一人で出かけ、一束の花を持って戻って来ます。白い花の群がっている中に、芍薬(しゃくやく)の美しい赤い花が二輪そえてありました。太宰は、さっちゃんを(かえり)みて「お嬢さんに似てるだろう。」と言います。照れ隠しなのでしょう。

 そしてそれを「お嬢さんへ。」と言い、「私」に差し出したのでした。それから「私」と太宰は残りのウイスキーを飲み始めます。暫くしてから太宰は帰って行きました。後ろ姿になにか疲れが見えます。疲れよりも、憂欝ゆううつな影が見えました。

―以下原文通り―
それきり、私は太宰に逢わなかった。逢ったのは彼の死体にだ。――死は、彼にとっては一種の旅立ちだったろう。その旅立ちに、最後までさっちゃんが付き添っていてくれたことを、私はむしろ嬉しく思う。

青空文庫 『太宰治との一日』 豊島与志雄
https://www.aozora.gr.jp/cards/000906/files/42582_22909.html


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あとがき【『太宰治との一日』の感想を交えて】

 太宰の死から約50年後の平成10(1998)年5月23日、遺族らは太宰の遺書を公開します。

 妻の美知子宛には、「お前を誰よりも愛してゐました」続けて「子供は皆、あまり出来ないやうですけど陽気に育ててやって下さい。たのみます」と、書かれ、「あなたをきらひになったから死ぬのでは無いのです。小説を書くのがいやになったからです。」と、自殺の動機を語っています。

 有名人の自殺には多くの憶測が伴います。けれどもそれはあくまで憶測であり、真実は当人にしか分からないものです。なにはともあれ、豊島と太宰の交遊は、忍び寄る「死」の影をも消すほどに明るく、なお且つ微笑ましい印象を読書に与えてくれます。

 それはまるで太宰のユーモア溢れる作品に寄せているかのようです。あっ、登場人物が太宰だからなのでしょうか・・・。

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